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Subaru 360 CM 0'43"

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スバル360(SUBARU 360)は、富士重工業が開発した軽自動車である。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。

航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが、数多く導入された。その結果、量産型の軽自動車としては、史上初めて大人4人の乗車を可能とすると共に、当時の水準を超える走行性能を実現した。 比較的廉価で、なおかつ十分な実用性を備えていたことから、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の一翼を担った。ゆえに日本最初の「国民車(大衆車)」と評されると同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させた車であり、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かす事のできない「名車」である。

範となったフォルクスワーゲン・タイプ1のあだ名となっていた「かぶと虫」との対比から、また、そのコンパクトにまとめられた軽快なデザインから、「てんとう虫」の通称で庶民に広く親しまれた。

スバル360発売以前の1950年代中期、日本における国産乗用車は複数の大手メーカーから発売されていた。しかしその価格は、小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収が僅かに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものであった。

軽自動車の規格自体は1949年から存在したが、もっぱら2輪車や3輪トラックを製造することを念頭に置いた規格であり、これに準拠して4輪の乗用車を製作する大手メーカーはほとんど無かった。

史上初の4輪軽乗用車は、1952年に製作された250cc車「オートサンダル」と見られている。名古屋の零細メーカーである中野自動車工業が、三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクション・ドライブ車であった。およそ通常の実用に耐えうる性能ではなく、1954年までに200台ほどを製作し、その後前輪駆動モデルの開発を行ったが量産化せずに生産中止したと言われている(中野自動車については零細企業のためほとんど資料が残されておらず、詳細は不明である)。

その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行った。「NJ(のち『ニッケイタロー』)」(日本自動車工業 1953~1957)、「テルヤン」(三光製作所 1957)などは、何れも零細企業が技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なもので、長続きはしなかった。

元日産自動車社員で、野心的な自動車技術者の富谷龍一は、大手織物メーカー傘下の自動車ボディメーカーである住江製作所で、超軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」を開発した(1954~1955)。リアエンジンV型2気筒の350cc・2座席である。4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多かった。数十台が市販されただけで製造中止となった。 富谷は後輪を1輪としたFRP製フル・モノコック車体の125cc2座キャビンスクーター「フジキャビン」を、富士自動車(東京瓦斯電気工業の後身。富士重工の前身・富士自動車工業とは全く無関係なメーカー。のち小松ゼノアに吸収)で開発したが(1956)、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、85台しか作られていない。

比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた鈴木自動車工業(現・スズキ)で、1955年に前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発した。これは実質は、西ドイツ・ボルグワルト社(Borgward)社のミニカー、「ロイトLP400(Lloyd LP400)」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似していた。乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは名目上は大人4人が乗車できたが、実際は後部座席は子供が精一杯の広さだった。

だが乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとなった。このライトバン仕様「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降であった。

富士重工業の前身で、旧・中島飛行機を前身とする富士産業株式会社は、群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げていた。また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスに倣った、フレームレスモノコック構造(応力外皮構造)のリアエンジンバスを、日本で初めて開発している。何れも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功であった。

その後、1950年にはGHQ指令による財閥解体で富士産業は計12社に分社され、太田呑竜・三鷹の各工場は富士工業(株)に、また伊勢崎工場は富士自動車工業(株)に改組される。

これら12社のうち、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両の5社が協同出資して1953年に「富士重工業」が設立され、のち出資した5社が1955年に富士重工業に吸収合併されるという形で統合された。

P-1(スバル1500)
1950年、富士自動車工業専務取締役の松林敏夫は、普通乗用車の開発を企画した。伊勢崎でのバスボディ生産は好調だったが、当時の日本のバスボディ市場は過当競争状態でパイが限られ、これに頼り切ることは好ましくないと考えられたからである。石油供給の好転や、朝鮮戦争による特需景気も、新たな事業拡張の好機と考えられた。

1951年1月、富士自動車工業の設計係長であった百瀬晋六(ももせ しんろく、1919年2月20日-1997年1月21日)は、松林から乗用車開発を命じられた。百瀬は長野県塩尻市出身で戦時中に東京帝国大学(現、東京大学)工学部を卒業して中島飛行機に入社、航空エンジン用の排気タービン(ターボチャージャー)開発に取り組んだ経歴もあったが、戦後伊勢崎工場所属となり、専らバスボディの設計に当たっていた。

百瀬はバスボディ設計の傍ら、東京のGHQの図書館に通って海外の自動車に関する最新の資料を収集し、これを研究することで開発の素地を作った。その結果、当時の小型車規格一杯のサイズである1500ccのセダンを製作することになった。メカニズムは極力先進的な内容を志向した。

1952年6月、やはり中島飛行機時代からのベテラン技術者である小口芳門と、東大卒の新人であった室田公三が百瀬の下に配属され、彼らを中心とした小チームで、百瀬を主任設計者として1500cc級の乗用車開発を開始した。自動車開発は初めてであるだけに、関係者は「自動車を理解する」ことから開発を始め、苦心を重ねた。

1954年には試作車P-1(愛称「スバル1500」)が完成、翌年までに20台を試作し、うち、伊勢崎、太田、本庄でタクシー会社向けに6台のみを販売した。この4ドア車は、日本では初めて、世界でも早い時期のフル・モノコック構造の乗用車であった。前輪はウィッシュボーンとコイルによる独立懸架、また固定軸の後輪には低フリクションの3枚板バネを採用し、その性能は極めて優秀であったと言われる。

この車に当初積まれた4気筒の1500cc・48PSエンジン「FG4A型」は、富士精密がフランス製プジョー202のエンジンをベースに開発した製品で、本来はプリンス自動車工業の「プリンス」向けのエンジンで、その開発費もプリンス自動車工業が負担していた。結果、競合するプリンス側からの抗議もあり、富士精密からのエンジン供給は途絶した(富士精密は中島飛行機を前身とし、富士産業が分社した12社の1つだったが、富士重工業設立に参加せず、のちプリンス自動車工業と合併した)。

当時の富士自動車工業は、主に軽飛行機用大型エンジンと、スクーター用や汎用形の小さなエンジンしか作っていなかった。それでもこの事態に対し、大宮富士工業に依頼して4気筒OHV・1500ccエンジン「L-4型」を開発した。20%以上も軽量でありながら、富士精密FG4Aをしのぐ52PSの性能を達成している。

たが、先行メーカーが多数存在する1500cc級市場へ参入するのは勝算が薄いこと、またボディ、エンジンとも量産体制を整えるための投資が過大であることから、1955年12月9日、スバル1500の本格量産計画は正式に見送られた。この決定の影には、メインバンクである日本興業銀行の意向もあった。

ちなみに、「スバル」の愛称は、日本興業銀行から派遣されて富士重工業初代社長となった北謙治の手になるものである。北は銀行家出身ながら、「P-1」計画に対し積極的な推進の意向を持っていた人物である。

P-1の愛称は当初社内募集したが、投じられたのは車の印象に合わない外国名前や、「坂東太郎」などいささか見当外れな名称ばかりで、あきれた北社長は自ら「スバル」と命名した。

「スバル」=「昴」とは、よく知られているようにプレアデス星団のことで、六連星(むつらぼし)とも言われる。

古事記や日本書紀、平安時代の清少納言の随筆「枕草子」の中にも登場する非常に古い日本語で、『万葉集』で「須売流玉(すまるのたま)、また、『日本紀竟宴和歌』では「儒波窶玉(すばるのたま)」など、玉飾(たまぐし)を糸でひとくくりとしたものを「すまる・すばる」と呼び、「統一されている」「ひきいられている」という意味がある。

富士重工業が5社の合併により設立したことから、前身の中島飛行機系5社と富士重工業を含めた6社を「統べる」=「統合する」との思いが込められている。

この名称はその後カタカナ表記の「スバル」となり、21世紀初頭の現在まで富士重工業のブランドとして用いられている。

スバル360の開発過程
1955年12月のスバル1500本格発売断念と同日、富士重工業は、当時三鷹製作所で生産していた250ccのスクーター用エンジンの生産ラインを流用し、356ccの軽自動車用エンジンを製造することと、これを基にした大人4人乗りの軽自動車の生産を計画した。これは、当時の通商産業省が企画した、「国民車構想」を凌ぐ自動車である。

1955年当時、日本製自動車の品質・性能は欧米の自動車先進国と比較して著しく低いものだった。

1954年9月に「新・道路交通取締法」が施行され、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000という寸法はそのままに、2ストローク、4ストロークエンジンともに排気量が360ccに統一され[1]、この新規格に沿った日本初の本格的軽自動車として1955年10月、鈴木自動車工業から「スズライトSF」が発売されたものの、当時の軽自動車市場はまだ確立されておらず、当初は月販数台というレベルで細々と生産されているに過ぎず、その他は技術力の乏しい中小零細メーカーによる未熟な製品か、ある程度の規模がある既存機械メーカーの手になるものでも技術的アプローチにおいて革新性を欠く製品が多かった。乗用車タイプのほとんどは開発の容易な2人乗り車であり、その最高速度は45km/h~65km/h程度の低水準に留まっていた。

しかし富士重工業は、大人4人乗車可能、路線バスの通る道はすべて走れる車というコンセプトの元、大胆な手法をもって軽乗用車の開発に挑んだ。その計画スペックは、軽自動車規格の枠内で大人4人を乗せることができ、空車状態での総重量は350kg、350cc級の15PSエンジンを搭載して最高速度 80km/hを想定するもので、もはや従来の既成概念では実現困難な内容であった。

エンジンの設計は三鷹製作所が、また車体・シャーシの設計は当時バスの生産を行っていた伊勢崎製作所が担当し、スバル1500の設計チームがそのまま新型車の設計チームとなった。三鷹側のチーフは菊地庄治、伊勢崎側のチーフは百瀬晋六で、設計は主に伊勢崎側主導で行われた。

当初はチャンネルフレームで組まれた試作台車にドライブトレーンを装備して試験走行するという手法で、テスト走行を開始している。これはスバル1500で行われた開発手法を踏襲したものであった。

スバル360の基本構成
フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式を採り、サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めてコンパクトな構造として、車内の客室容積確保を図った。タイヤは当時としては異例の10インチサイズを、これまた新規開発させて日本初採用した。

それまでの軽自動車・オートバイでしばしば見られた、既にある出来合いの部品を組み立てて製造する(町工場的な寄せ集めの)アッセンブリー方式ではなく、目的達成のために部品1つ1つを最適化した形で新たに設計するというレベルの高い手法を用いた。10インチタイヤの新規開発や、トーションバー・スプリングの導入はその最たるものである。そして、ねじもスバル360用に独自に設計されており、富士重工業のマークの「フ」の刻印を入れた純正ねじとなっていた。軽量化と客室スペース確保のためには文字通り手段を選ばず金も惜しまず、コストのかかる加工法や、アルミニウム合金、繊維強化プラスチック(FRP)などの高価な新素材も大胆に取り入れている。これらは富士重工と百瀬晋六の卓見であった。

またフル・モノコック構造の採用は、軽量化対策としてスバル1500での経験を活かしたものであり、元航空技術者を多く擁する富士重工技術陣にとっては自家薬籠中の技術と言えた。

駆動レイアウトについては議論があった。重量・スペースに制限のある超小型車においてプロペラシャフトは省略した方が有利であり、開発初期段階において技術陣は、前輪駆動車か、リアエンジン方式のいずれかの選択を迫られた。理論上のスペース効率では前輪駆動方式に長があり、車体後部をバンやトラックなど様々な形状にたやすく設計変更できるメリットがあった。この時代、すでに前輪駆動方式は実用化されており、スズキ「スズライト」のように日本での市販例も存在した。このため、計画段階で三鷹製作所の菊池庄治らは前輪駆動を主張していた。

だが前輪駆動車の場合、旋回中にも滑らかに前輪への駆動力を伝えられる「等速ジョイント」が必要になる。1950年代中期の時点では、耐久性とスムーズさを両立させた等速ジョイントを低コストに量産できる状況になく、市販されていたヨーロッパの前輪駆動車でもジョイントの耐久性不足と旋回時の特有な振動が最大の弱点になっていた。

百瀬晋六は前輪駆動の長所を知悉しつつも、このような等速ジョイントの問題によって開発が難航するであろうことを推察し、1950年代中期におけるより堅実な手法として、すでにフォルクスワーゲンなど多くの類例が見られたリアエンジン方式の採用を決定したのであった。

ボディ構造
2ドア4窓セダンボディ。日本の自動車業界において、独立したフレームを持たないフル・モノコック構造を量産車で実現した先駆的存在である。

当時、自動車ボディを構築するための鋼板は、最低でも0.8mmの厚さが必要と見られていたが、これでは軽量化の支障となると判断された。そこで、それまで通常強度部材には用いられていなかった0.6mm厚の鋼板をボディ素材に採用した。それでも十分な強度を得るため、車体は平面部分を避け、全体に「卵形」と表現される曲面で構成された(ただし、フロアパネルについては強度上の問題もあって1.2mm厚とした)。更に本体強度に影響のないフード等にはアルミ材も用いている。

屋根については、四辺の枠だけあればモノコック構造の強度は保てる。そこで天井部分は思い切って当時の新素材であったFRP(強化プラスチック)製とし、H断面のゴムで車体に固定する方式とした。これによって軽量化できただけでなく、全体の重心が下がり、また車内に響くエンジン騒音を車外に逃せる効用も生じた。もっとも生産形では、H断面ゴムのみで固定したせいで走行中の振動によってプラ屋根が突然に外れる問題も発生し、ネジ止めの補強が加えられている。また必要に応じ、屋根のふちにラジオ用アンテナ線を内蔵することも行われた。

ガラスは重量がかさむこと、またボディ開口部を小さくする目的もあって、フロントのウインドシールド及び側面窓は比較的面積が狭く取られている。ユニークなのはリアウインドウで、ここには安全規格上、ガラスを用いる必要がないことから、透明なアクリル樹脂板で代用することにした。軽量化の効果はあったが、長く使用すると変色が生じたという。

ドアは前席側のみの2ドアで、後方ヒンジ・前開きとし、ドア開口面積を前輪直後まで確保して、乗降性を良好にするよう努めている。安全性の面からは前開きは好ましくなく、このレイアウトは後年には廃れたが、1950年代半ばには乗降性の有利さから採用する自動車の例も多く、スバルが特異だったわけではない。

愛嬌のある卵形デザインには、強度確保も兼ねて、フロントフェンダーからサイドに至る波形のキャラクターラインが添えられ、そのままでは腰高過ぎるように見えかねないサイドビューを軽快にまとめる助けになっている。

スタイリングの過程
ボディ設計の担当者は室田公三であるが、車体のデザインは、社外の工業デザイナーである佐々木達三(ささき たつぞう 1906年-1998年)が当たった。戦前から船舶塗色や建築などのデザインを手がけてきたベテランの佐々木は、バスボディのカラーリングを通じて富士重工業とも関係があり、この縁から1956年に自動車デザインの依頼を受けたのである。

佐々木にとっても初めての自動車デザインであり、彼はデザインと並行して自ら自動車免許を取得、当時の代表的小型車であった日野ルノー・4CVを運転するなどして自動車の理解に努めた。フォルクスワーゲン似と言われることの多いスバル360だが、随所のディテールを見るとむしろルノー・4CVとの近似性があるのは、ここにも一因があると思われる。

佐々木は図面を書かず、模型を作るデザイナーだったため、デザインは佐々木の作った1/5倍粘土模型をもとに、これを拡大した等倍粘土模型を修正して石膏型をとるという方式がとられた。デザインベースとして富士重工で木型にボディ外殻の限界目安となる釘を打ったものが作られ、1956年6月1日に佐々木に引き渡された。佐々木はこれに粘土を盛りつけることでデザインの原型作りに着手、わずか3週間後の6月21日には原型模型を完成させている。

もっとも、佐々木の原デザインはやや鈍重なところもあり、等倍模型を製作するまでに、百瀬晋六と富士重工社内デザイナーの永田秀明による手直しがかなりの部分で行われたという。

等倍模型を用いた最終的なボディデザイン形成作業は、富士重工の伊勢崎第二工場内で行われた。佐々木も1956年9月から3ヶ月に渡って伊勢崎に滞在し、百瀬、永田らをも交えたデザイン作業に取り組んだ。こうして完成したボディデザインは、1957年3月完成の試作車で具現化し、量産型にも踏襲された。

なお自動車の客室スペースの検討に際して、通常はダミーモデルを用いるのであるが、スバル・360の場合は設計者たち本人が自分の身体でテストした。180cm超の長身で脚も長い百瀬晋六と、百瀬より背は低いが座高の高い室田公三とが、自らシートに座ってレッグスペースやヘッドクリアランスのテストを行ったのである。その結果、1950年代後半のほとんどの日本人が無理なく乗車できるだけのスペースが確保されたのであった。

従前の軽自動車のごとく大きな自動車の滑稽なまでに強引な縮小版ではなく、4人乗りミニカーのためのデザインという大前提のもと、機能と直結したクリーンな形態が実現されたことは画期的であり、スバル・360が日本の工業デザインの歴史において高く評価されている理由でもある。

室内
初期形の車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれている。航空機開発の経験を先例として可能な限り軽量化に徹した開発陣の意図が伺える。

ステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一である。これまた最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わる。ダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、荷物スペースの一助となっている。ドア窓は当初、横引きスライドの引き違い窓だったため、ドアパネル部分は客室内部容積の一部として上手く活用されていた。

フロント・サスペンションにトーションバーとトレーリングアームの組み合わせを用いることで、前席足元のレッグスペースは前車軸中心線より前方にまで及び、前輪のタイヤハウスによって片側を圧迫されはするものの、ともかく大人が足を伸ばせるだけの最大長確保に成功している。運転席足元は右足側をタイヤハウスに取られているため、アクセル・ブレーキ・クラッチの各ペダルは、車体センター寄りにオフセットしている。従って運転中には、両脚についてオフセット状態を強いられる。

シートは前後席とも、プレスしたアルミ合金の湯たんぽ(コルゲート、リブ形状)状のフレームをベースに、ゴムひもとウレタンフォームでクッションを整えてビニール表皮を張っただけという軽量かつ簡素な構造である。研究用車両として富士重工が購入していたシトロエン・2CVを彷彿とさせる内容で、座り心地は当時としてはまずまずの水準であったという。シートポジションはねじで予め調整する必要があった。リアシート乗車時には、フロントシートはラッチを外して背もたれを前傾できた。

開発当時、スバルに限らず、大衆車には贅沢装備と言えるものは与えられなかった。当初のスバル360の車内設備としては、エンジン冷却風の排熱を利用したヒーター(あまり強くは効かない)と、手動式のベンチレーターがあるのみだった。ラジオはオプションで装備できた。

乗員の激突時に備えると同時に豪華さを演出するためのクラッシュパッド、その他多くの計器類が追加されたのは、エンジン出力が向上し、量産効果でコストダウンも進んで、性能・コスト配分に余裕ができた後年のことである。競合車種並みのデラックスな内容が求められたのが理由である。

パワートレーン
強制空冷2ストローク直列2気筒・356ccエンジンを車体後部のエンジンルームに横置き搭載している。当初のスペックはグロス値で16PS/4,500rpmであった。

富士重工は、汎用小型エンジンでは早くからクランクケース圧縮式の空冷2ストローク方式を採用しており、1955年からはラビットスクーターにも導入して成功を収めていた。軽量かつ簡素で出力も稼ぐことができ、製造コストも安く、当時としては妥当な選択と言える。直列2気筒としたのは出力確保、振動、コストなどを総合的に配慮した結果であった。テスト台車での開発当初は西ドイツ・ボルグワルト社(Borgward)製の400cc前輪駆動車「ロイトLP400(Lloyd LP400)」の2ストローク2気筒パワーユニットで代用し、その後完全な新設計の自社製エンジンに移行している。

横置き配置としたのは、前後方向の省スペース化に加え、コストダウンの一環でもあった。縦置きエンジンでは駆動系の部品として駆動軸方向を直角に変向するスパイラル・ベベルギア(ねじり傘歯車)が必要になるが、横置きエンジンなら車軸と並行なのでこれを省略できたのである。スパイラル・ベベルギアの歯切りには、当時、アメリカ・グリーソン社製の優良な工作機械が必要で、これはきわめて高価だった。

富士重工はすでに1956年、ラビットスクーターS61型に「スーパーフロー」の愛称で変速機代用のトルクコンバータ仕様車を設定していた(変速ギア等なしでトルクコンバータのみで変速)が、スバル・360については堅実に一般的なマニュアルトランスミッション仕様とし、乾式単板クラッチとノンシンクロメッシュの前進3速・後進1速手動変速機の組み合わせとした。

この変速機もエンジンと並行配置で、当然ながら横置きとなった。シフトレバーはフロア式で、発売当初は横置き変速機を特別なリンケージなしにロッドで遠隔操作する制約から、普通の縦置きエンジン自動車のような縦 H 形でなく、横 H 形(エの字型)のシフトパターンとなっていた。これを活かしてユーザー間に「左膝で2→3速のシフトアップをやってのける」横着な操作法が編み出されたことは初期スバルの有名なエピソードとなっている。しかしさすがに実用面では普通のパターンの方がよいということになり、1960年に変速機のシンクロメッシュ化に際し、方向を変えるリンクを加えてノーマルな縦 H 形パターンに変更された。

変速機と一体構造のディファレンシャル・ギア(デフギア)から出た左右ドライブシャフトは、軽量化のためシャフトチューブなどがない露出状態となっており、外端でトレーリング・アームに吊られる。そのデフギア側、タイヤ側それぞれにカルダンジョイントが備わっているが、簡素化・軽量化のため、シャフト自体には伸縮するスプライン等を備えていない。従って車輪の揺動によって生ずる横圧はシャフト及びジョイントに直接掛かることになり、強度面で不安視もあったが、実際にはこの構造自体に起因するトラブルは生じなかった。シャフトの有効長を可能な限り伸ばして実質的な揺動角度を抑えるため、デフギア側のジョイントはギア内にめり込んだような作りになっている。

燃料タンクはエンジンルームの直上に配置している。タンクの蓋に小穴を開けてあり、燃料は重力で自然流下する二輪車同様の仕組みで、燃料供給ポンプは不要であった。当初は独立した燃料計がなく、燃料ゲージがタンク蓋に装着してあり、これでタンク内の燃料残量を見る必要があった。やはり二輪車同様に本タンクとは別にリザーバータンクがあり、燃料残量が少なくなった場合、コックを切り替えて走行するようになっていた。

空冷リアエンジン方式の弱点として、冷却対策が挙げられる。試作車では暑い時期にはオーバーヒートしがちで、冷却風の取り入れ、廃熱の排出などに多々苦労した末、熱気が上昇する流れも配慮して、リアのエンジンフードのルーバーから排気、車体側面に設けたグリルから吸気という冷却風レイアウトを決定した。

キャブレターへのエア吸入は、車体後部からだとほこりを吸い込みかねないという危惧から、前期型では車体先端にダクトを伸ばしてここから吸入していたが、フロント吸入になると今度は先行車の立てる砂塵を吸い込む事態も生じることや、1960年代中期になると道路整備が進んでほこり問題が改善されてきたため、1965年型から車体後部吸入に変更されている。

開発中、エンジンの排気ポートには、オイルの燃えカスであるスラッジやカーボンが恒常的に詰まり、パワーを低下させた。ポート形状変更など様々な工夫が為されたが根本的解決にはならなかった。最終的にオイル添加剤「ペンタルーブ」の採用で数千kmにわたりカーボン付着を抑制できるようになり、ようやく長期間オーバーホールを要しなくなった(同時期のラビット・スクーターの2ストローク車開発中にも同様な事態が起こり、やはりペンタルーブによって解消している)。このため、スバル・360は純正添加剤としてペンタルーブを指定していた。

サスペンション
懸架装置は前後ともトレーリングアームに横置きトーションバーとセンターコイルスプリングを組み合わせた、きわめて軽量・省スペースでサスペンションストロークの大きな4輪独立懸架構造である。ポルシェタイプのリアサスペンションはスイングアクスル式に分類される。

自動車用トーションバーは、当時の日本に製造しているメーカーがなく、富士重工はばねメーカーの日本発条に新たに開発・製造を要請した。当初の試作品は削り出し加工で作られ、1台分4本が合計4万円にもなる法外さで、車全体の予定価格の1割近くに達した。しかもメーカーの経験不足もあり、試験中に破損することもしばしばであった。その後、品質面で改善が進められ、また鍛造が可能になって量産体制が整ったことで、発売時点の価格は4本で数千円レベルに引き下げられた。このトーションバーと連結されて車輪を支えるトレーリングアームも、軽量化と強度確保という相反する課題のため破損続出に悩まされ、高価なクローム・モリブデン鋼を材質に使うことで解決している。

サスペンション方式に前後ともトレーリングアームを採用した背景には、やはり横置きトーションバー・トレーリングアームレイアウトのフォルクスワーゲン・ビートルの影響もかいま見ることができるが、特にフロントサスペンションのコンパクト化という点では普通小型車サイズのビートルに比して格別に徹底されたものがあった(ビートルはトーションバーを二段としたポルシェ式のダブル・トレーリングアームだが、スバルはより簡潔なシングル・トレーリングアームである)。これは後述のとおり、フロントシートのレッグスペース確保に絶大な効果を発揮した。

超軽量車の開発における問題点の一つは、積空差が著しく大きいことである。運転者1名のみの場合と、4人フル乗車の場合とで、車両の総重量は 150kg以上の差が生じ、空車での総重量350kgを計画している自動車には大変な重量差である。このような条件で、フル乗車時でも最低限のロード・クリアランスを保障し、サスペンションストロークも確保しながら操縦性と乗り心地を常に良好とすることには、非常な困難があった。

対策として当初考えられたのは、トーションバーの他に補助スプリングとして車体前後中央にエンジン動力で油圧を得て作動する補助スプリングを装備することだった。シトロエンのハイドロニューマチックシステムに近い発想であったが、試験では油圧スプリングユニットのオイル漏れを解決できず、油圧ポンプについても搭載スペース難やこれを駆動するだけのエンジン出力余裕の難など多くの制約があり、コストや開発期間も厳しかったことから、結局実用化は諦められた。

代案として、油圧スプリングを装備予定だった中央位置に補助のコイルスプリング1基を装備することになった。トーションバーに一定以上の大きな荷重がかかれば基部に接続するこのセンタースプリングが働き、ダンピング効果が生じるわけである。スイングアクスル式サスペンションでは避けて通れない問題として、リアのジャッキアップ現象があるが、後にスバル360でも横転事故の事例が多発するようになった。当初、前後輪それぞれにリンクされていたセンタースプリングは、横転対策としてリアサスペンションの剛性を確保するため、後部の接続を止め、後輪はトーションバーのみの支持に変更された。同時に後輪用トーションバーは径を太くし、対ロール抗性が高められた。

またダンパーについては、当初コストの制約から原始的なフリクションダンパーを用いざるを得なかった。これでは定量的なダンパーとしての効果には不満もあり、後に油圧ダンパーの価格低下でそちらに移行した。

当時の日本の自動車業界では、小型車の場合、乗り心地と悪路への耐久性・踏破性はおよそ相反するものと考えられていただけに、悪路をフワフワといなして快適に走行できるスバル360のサスペンションは感嘆をもって迎えられ、愛好者の間では「スバル・クッション」と称された。

タイヤ・ホイール・ブレーキ
1955年~1957年頃、軽自動車のタイヤは既存の規格品を用いることが多かった。例えばスズキの「スズライト」はダットサン用の大きな14インチタイヤを用いていたが、これは軽自動車用には分不相応で大きくて嵩張り、しかも重いタイヤだった。また住江製作所の「フライングフェザー」はリヤカー用タイヤとワイヤースポーク装備であり、他にもスクーター用タイヤを用いる零細軽自動車メーカーもあったが、元々4輪自動車用ではない代用タイヤでは性能面で限界があった。これらの状況は翻っては、できあいのパーツを多用せざるを得ないアッセンブリー・メーカーの限界とも言えた。

かように、タイヤが超小型車開発における文字通りの「足かせ」になっていた状況で、富士重工技術陣がスペース効率と軽量化の追求を目指し、必要なタイヤサイズを極めてコンパクトな「10インチ」級と割り出したこと、なおかつ、従来日本で製造されていなかった自動車用10インチタイヤを、新たにブリヂストンに開発依頼したことは、画期的であった。元々ブリヂストンと富士重工はスクーター用タイヤの納入で取引があったので、その方面からのコネクションが活かされた訳である。軽量化のため、補強コードを通常の4プライでなく半分の2プライにしたが、「2プライで4プライ並みの強度を」という富士重工の要望は厳しいもので、テストではパンクも頻発し、ブリヂストン側も実用域に達するまで苦心を重ねたという。

同時代にイギリスのBMC社で開発されていた「Mini」も、専用タイヤとしてダンロップで新開発させた10インチタイヤを採用しており、同時期の着想として興味深い事実と言える。

スチール製のタイヤホイールについても、普通車並みの重い「合わせリム」を避け、外枠のみで軽量な「割りリム」とした。これはルノー・4CVなどで多くの先行例があったが、特にバネ下重量軽減策として効果があった。

ステアリングギアはラック&ピニオン式である。当時はウォーム&ローラー式などが主流の時代で、日本で普及していたラック&ピニオン式の自動車としては日野自動車がライセンス生産していたルノー・4CVぐらいに限られていたが、スペース効率に優れ、軽量かつ簡潔で操縦性も良いことから採用された。

ブレーキは当時としては一般的な油圧式の4輪ドラムブレーキである。

ネーミング
スバル360という車名は、正式には誰も決定しなかった。デザイナーの佐々木が、以前の試作車の名が「スバル1500」であったと聞き、勝手に車に「SUBARU 360」のロゴをつけたことから、自然と名称が決定した。佐々木によれば、百瀬晋六をはじめとする富士重工開発陣の間でも「スバル」をペットネームとして用いることは暗黙の了解となっていた模様である。

なお、この車につけられたスバルのエンブレム(六連星マーク)は、富士重工の社内募集案に佐々木が手を加えたもので、何度かのデザイン変更が行われているが、基本モチーフは継承され、現在でも富士重工業のマークとして踏襲されている。

耐久試験と運輸省認定試験
試作1号車は1957年4月20日に完成。その後、試作車は4台まで増産され、それぞれが過酷な試験走行を繰り返し、完成にこぎつけた。

当時の試験走行は、伊勢崎から高崎までの未舗装道路を往復する1日あたり16時間・600kmの長距離連続走行テスト、そして伊勢崎から赤城山山頂付近までエンストなしで往復する登坂テストであった。

試作車のエンジンは酷使されてほぼ毎日故障したため、三鷹製作所から伊勢崎に派遣された技術者が徹夜で修理・調整し、翌朝には再び、試験走行が繰り返された。

当時未舗装であった赤城山登山道路の標高差1000m近い連続急勾配区間は、当時の普通乗用車でもオーバーヒート覚悟の過酷なコースであり、4名を満載してのスバルの登坂も、幾度となくエンジンの過熱に阻まれた。冷却対策をはじめとするこれらの問題も最終的に解決され、試作車は赤城山の上にノンストップで到着可能となった(この赤城山登坂成功の時期には、1957年8月説と、運輸省認定試験を目前に控えた1958年2月説がある)。

従来の軽乗用車の多くが、このような厳しい条件での耐久テストを行っていたかは不明であるが、少なくともここまで徹底したテストを行ったことがスバルの信頼性確保に大きく寄与したことは間違いない。『マン・マシンの昭和伝説』によれば、この試作車にプリンス自動車の中川良一やトヨタ自動車の長谷川龍雄が試乗している。今では考えられないことであるが当時は自動車メーカーの枠を超えた技術交流会があり、試作車を乗り比べをすることもあった。長谷川は製造上の問題として外板の継ぎ目線を指摘した。

運輸省の認定試験は1958年2月24日に箱根で行われた。テストドライバーは社員の福島時雄が担当した。負担となる重量を僅かでも減らすため、福島は2月の寒い最中でありながら、つなぎの下に薄い下着だけという非常な軽装で運転した。この試験では、運輸省の職員2名が同乗しなければならなかったが、1人の職員はスバルがあまりに小さい車であることにおそれを抱いて乗車を拒み、代わりに1名分55kgの重りが乗せられたという。認定試験でも箱根越えの試験コースを予定以上の快速で登坂するなど、好成績を収めた。

最終的に、発売時のスペックは空車重量385kg、エンジン出力16PS、最高速度83km/hとなり、目標よりやや重量を超過したものの、ほぼ計画した通りの性能を満たした。

発表
スバル・360が市販車両として公式にプレス発表されたのは、1958年3月3日の昼12時、会場は東京都内の千代田区丸の内にあった富士重工業本社であった。

プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたが、大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促され、急遽2台のスバル・360がトラックで伊勢崎から運ばれることになった。夕方4時まで辛抱強く待った記者たちは、トラックから降ろされたスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験することになった。

反響は著しいものであった。国内の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、日本国内のメディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」をはじめとする欧米の自動車雑誌にも取り上げられるなど、当初から強く注目される存在となった。販売1号車の顧客が松下幸之助であったことは有名な逸話である。

富士重工業はすでにラビットスクーターの代理店網こそ整備していたが、一般向けに4輪自動車を販売したことはなく、スバル発売に際してはそのディーラー網整備から始めなければならなかった。このため、販売店については既存のスクーター代理店、既存の四輪車ディーラー、商社などを利用して各都道府県に手配された。当初のディーラーは、東京地区では主として伊藤忠商事(1958年5月より販売)、また大阪地区では高木産業(1958年7月より販売)で、全国一斉販売開始ではなかった(販売網整備が進んでいなかった時代ゆえにやむを得ないことではあった)。

発売後の経過
1958年型の販売台数は385台である。この数でも当時の軽乗用車販売数としては大変な実績であったが、実用に堪える性能が市場から評価されて売れ行きを伸ばし、1961年度型は17000台を突破した。比較的短期間で販売網を整備し、また姉妹車として、新たに開発した本格的軽4輪トラックスバル・サンバーを1961年に発表してこれが大成功を収めたことで、新規参入メーカーにとっての障壁となる販売網の弱さを改善できた。これによって、四輪車メーカーとしての基盤固めができたことは、富士重工業にとって幸運であった。

1960年にはスバル・360と基本構造を共通としつつもデラックス仕様のボディと大型バンパー、423ccエンジンを備える小型車規格の上級モデル「スバル・450」が発売されたが、さしたる実績は収めることができなかった。

1962年に発売されたデラックスな装備のマツダ・キャロル360に攻勢を掛けられたが、重い車体に重い水冷4気筒エンジンを積んで重量の嵩んだキャロルに比し、軽いため動力性能で勝るスバルは、デラックスモデルの導入で巻き返しに成功する。同時期には三菱はミニカ、ダイハツはフェローで軽乗用車市場に参入してきたが、知名度と販売力を高め、また長期の量産効果によって値下げも進められたスバルの首位は揺るがなかった。

しかし、1967年に本田技研工業から桁外れに高性能で低価格なホンダ・N360が発売されて以降は販売が伸び悩み、軽自動車市場の販売台数首位をホンダに譲らざるを得なかった。このため、通常モデルはN360による馬力ブーム対策として最終的に25PSまで出力向上されたほか、1968年には若年層を狙ったスポーツモデルとして36psを発揮するEK32型エンジンを搭載した「ヤング SS」と25psだが内外装をスポーティ仕様とした「ヤングS」を発売したが、基本設計の古さによる陳腐化は否めず、1969年発売の後継車スバル・R-2と入れ替わる形で同年8月に生産が打ち切られた。 一方でその独特なフォルムと自動車史に燦然と残る経歴から生産中止後も根強いファンも多く、現在でもまれに路上を走る姿を見かけることがある。

輸出仕様
スバル360はごくわずかであるが、左ハンドル仕様も生産され、当時米国統治下にあった沖縄にも輸出された。

また米国本土ではラビットスクーターを輸入していた実業家、マルコム・ブリックリン (w:Malcolm Bricklin) らによって販売されたこともあった。しかし、非常に小型であったことや、折からラルフ・ネーダーによって指摘されていたシボレー・コルベア、フォルクスワーゲン・ビートルなどのリアエンジン車の安定性問題にも影響され、大きな実績を上げるには至らなかった。

輸出仕様の名前は「スバル・マイア」であったが、この名前は後に3代目スバルレオーネの特別仕様車にも使われた。

スバル360コンバーチブル
元々FRP製で取り外しても車体強度に影響の無かった屋根部分を、オープンにできるよう、巻き取り式の幌に置き換えたタイプ。シトロエン・2CV、初代と2代目のフィアット・500など、欧州の大衆車に多く見られるタイプ。完全なオープンカーでは無く、キャンバストップの一種であり巻き取り量で開口面積の調節が出来る。通常の屋根には無い開放感が得られることはもちろん、閉めた状態での篭り音が少なくなる利点もある。

スバル360コマーシャル
スバル360の屋根部・後席窓側面パネルに手を加え、商用車として使用可能としたモデル。セダンボディのレイアウトのままで屋根は幌とし、ドア直後のBピラー部分直後側面の後席窓回りのパネルを外側に倒し、ベニヤ板張りとした後部スペースへの荷物搭載アクセスを改善した。商用車として無理が多いことは否めず、短期間の生産に終わった。

スバル360カスタム
コマーシャルに代わる本格的な商用バンモデル。スバル360の車体後部に折り畳みシートと荷室を設け、使いやすいバンボディとした。エンジン周りの補機類のレイアウトをサンバーと共通とすることで、荷室の床を低くし、容積の増大と使い勝手の向上を図った。

スバル450
エンジンを423ccにボアアップし、大型バンパーを装着した。主に輸出向けモデルだった。日本国内でも販売されたが、実際には普通小型車扱いになるにもかかわらず、360に比べて70ccほどの排気量増大に過ぎず、居住性にも差がなかったため、360の性能向上に伴って存在意義は薄れ、ほとんど販売実績はなかった。


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[ 2008/06/29 13:20 ] SUBARU | TB(0) | CM(0)
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