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Publica 1964 CM 1'30"

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パブリカ (Publica) は、トヨタ自動車が1961年から1978年まで生産した小型乗用車である。 1950年代の国民車構想の影響を受けて開発され、長年にわたってトヨタの生産・販売する最小車種として位置付けられた。後のスターレット、そして現在販売されているヴィッツへと連なる、トヨタのコンパクトカーの元祖的な車種である。

車名の由来
「大衆車」を意味する英語「パブリック・カー」(Public car)を略した造語である。唐辛子の一種の「パプリカ」と誤表記されることが多いが、単に文字が似ているだけであり、パプリカとは何の関連もない。

UP10系
国民車構想
パブリカの商品企画は、1955年に当時の通商産業省(通産省)で立案された国民車構想に遡ることができる。これは一定条件を満たす「国民車」の生産を国によって後援しようという「日本版フォルクスワーゲン計画」であったが、マスコミのスクープによって内部構想が明らかになっただけのもので、公式な政策とはならなかった。

この構想で通産省が想定した「国民車」の性能は、
1.最高時速100km以上。
2.乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積めること。
3.平らな道路で、時速60kmのとき、1リットルの燃料で30km以上走れること。
4.大がかりな修理をしなくても、10万km以上走れること。

価格は月産2000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下でなければならない。
性能と価格から勘案されるエンジンの排気量は350~500cc、車重は400kg以下。

というものであった。自動車好きの官僚が一つのプランとして提示したものに過ぎず、技術・コストの両面から実現するのは困難で現実味を欠く、というのが当時の自動車業界における大方の批評であった。

それでもこの企画に刺激されていくつかのメーカーで小型車開発が行われることになった。

トヨタも国民車構想をそのまま実現するという考え方は持っていなかったが、技術開発推進の見地から、1956年7月より、従前の自社最小クラスである1000cc級(トヨタでは当時1500cc車への切り替えで生産が途絶えていたが、翌1957年に初代コロナが再発売されている)より更に小型の車の試作を開始した。

試作過程
当初の計画では、当時の専務であった豊田英二の陣頭指揮の下、駆動方式として前輪駆動(FF)を採用することとなり、一次試作車も完成したが、当時の技術的限界から前輪駆動システムにはトラブルが続出した。

後を受けた主査の長谷川龍雄は、プロペラシャフトを介した後輪駆動(FR)方式への変更を決断した。実績のない前輪駆動車は彼に与えられた僅か2年の開発期間では不可能であるとの結論からである。当時「500cc車には税制上の特典を設ける」という行政の触れ込みがあったものの、既に高速道路の建設が開始された高速化時代にあっては、あまりに非力で対応できないとの判断で、700ccエンジン搭載とした(500cc車優遇は結局実現しなかった)。

搭載されたのは697cc、空冷2気筒OHV・水平対向で28馬力を発する新開発のU型エンジンである。トヨタ車で初めての空冷エンジンは、BMWやツェンダップなどのドイツ製オートバイ用水平対向2気筒エンジンを参考にした設計で、バルブ部の調整機構として日本初の油圧式ラッシュアジャスターを採用しメンテナンスフリーを実現し、軽量かつ簡潔、しかもコンパクトであった。このエンジンの採用で、後輪駆動車ながら前輪駆動車と大差ない居住空間を得ることができたが、空冷エンジン故の騒音などハンデキャップも抱えることになった。

車体は軽量なフル・モノコック構造、大きなプレス部材を用いて生産性を高める配慮が為されていたが、やや華奢な印象があった。2ドア3ボックスのセダン形ボディを標準とし、大人4人を載せる最低限のスペースを確保していた(それでも当時の軽乗用車よりはゆとりがあり、さらに独立したトランクスペースを設けていたのは長所であった)。サスペンションは前輪ダブルウィッシュボーン式サスペンション、後輪縦置き半楕円リーフ・リジッドの当時ごくコンベンショナルなレイアウトであるが、前輪サスペンションのスプリングに縦置きトーションバーを用いていたのが意欲的である。

発売と失敗
車名である「パブリカ」は、当時流行していた一般公募による。先述の如くパブリック・カー(Public car)からの造語であり、国民車に相応しい名であるとされた。

またトヨタは、パブリカ専売の新たな販売チャネルとして、既存の「トヨタ店」「トヨペット店」につづく第三の販売店網の構築に着手し、この新チャネルは「パブリカ店(現在のカローラ店とネッツ店(旧・オート店))」と名づけられた。パブリカ店は既存の販売店網に対し、小規模の拠点を多数展開すること、地元資本の新たな参加を求めること、同一地域、同一都道府県内で複数の店舗・販売会社を競合させること、などを基本コンセプトとした。

1961年6月発売当時、セダン型の価格は38.9万円であった。広告コピーは「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」であった。また、森永乳業とタイアップし、同社の販売する濃縮乳酸菌飲料「コーラス」のビンの栓(王冠)を集めると抽選でパブリカが当たるというキャンペーンを行った。パブリカの最初期型は現在トヨタ博物館で見ることができる。

しかし、発売時のパブリカは機能性とコストダウンを重んじて徹底した簡素化を図った結果、外装にはメッキ部品がほとんどなく、ラジオ・ヒーターなどの快適装備はもちろん、フェンダーミラーすら装備されていないという無い物づくしなありさまであった。性能や実用性には優れていたものの、そのあまりの質素さゆえに、発売当初から多くの大衆層には支持されず、販売台数は低迷した。当時は自家用車を購入することは大衆の「夢」のひとつであり、ゆえに自家用車には単なる実用性以上に、装飾などによる「高級感の演出」が求められていたからである。パブリカの発売に対抗して、軽自動車各車はデラックス化を進め、大衆は軽自動車へと流れた。

デラックス化・派生モデルの出現
トヨタは翌1962年にバン、トヨグライド式のセミオートマチック仕様車を追加した。ライトバン仕様は当時大きかった商用車需要に応える形で販売強化を狙ったものであり、トヨグライド・モデルの投入は、イージードライブ性の向上による競合モデルとの差別化であったが、特に半自動変速機の後者を廉価な大衆車に導入したことは意欲的試みと言える。

同年の全日本自動車ショーで「パブリカスポーツ」を参考出品する。これはのち量産化改良され、1965年に「トヨタ・スポーツ800」として発売、空気抵抗の小さい軽量ボディによって高性能を発揮して「ヨタハチ」の愛称で親しまれることになる。

1963年、リクライニングシート装備やラジオ、ヒーターなどを搭載、クロームメッキ・モールなどの装飾を施した「デラックス」仕様(UP10D型)を追加する。東京地区の販売店がパブリカ販促の独自企画として、燃焼式ヒーターやラジオを装備し、メッキパーツをあしらった特別仕様車を売り出して好評であったことをうけて、全国展開したものである。デラックスの登場で、パブリカの売れ行きはようやく上向きとなった。

デラックスの発売により、基本モデルは「スタンダード」と呼ばれることになった。また同年には、セントラル自動車にボディ製造を委託したコンバーチブルを追加発売し、漸く月販3000~4000台の当初の予定台数に乗った。1964年2月にはトラックモデルを発売、同年9月にはマイナーチェンジを行い、エンジン出力は32psにアップし、バンにもデラックス仕様が追加された。

UP20系
1966年に、大規模なマイナーチェンジが行われた。排気量を800ccに拡大し、36psに出力が増した2U型エンジンを搭載、トルクチューブ・ドライブ化やフロントノーズ形状およびリアデッキ形状の大幅変更など、同一モデルとしてはフルモデルチェンジに近い、大がかりな仕様変更を行った。

コンバーチブルモデルにはスポーツ800と同一のツインキャブ45psエンジンが搭載された。変更後の型式はUP20系である。この年10月から、パブリカ店の名称は「トヨタパブリカ店」へと改められた。この間、数次にわたり販売価格が値下げされ、1967年にはスタンダードの価格は35.9万円となった。トヨタは、当時1ドルが360円であったことにちなみ、パブリカを1000ドルカーと表現し、広告のキャッチコピーとした。

また、派生車種としてキャブオーバー型トラックのミニエースが発売された。

この年、日野自動車と業務提携したトヨタは翌1968年、パブリカバンの生産を日野自動車に委託、バンは日野自動車羽村工場内の小型車ラインで製造されることになった。また同年は、コンバーチブルやスポーツ800と同様の高性能型エンジンを搭載したパブリカ・スーパーが追加された。

UP/KP30系
1969年4月に二代目(UP/KP30系)へとモデルチェンジする。二代目にも2U型空冷800ccエンジンも残されたが(スタンダードのみ)、主力は1000ccの水冷4気筒エンジンとなった。すなわち、初代カローラに搭載されていたK型エンジン(1100cc)を基本とする2K型エンジンである。また、トラックモデルは「ピックアップ」に改称された。業務提携した日野自動車も、羽村工場内に小型車専用ラインを設け、商用モデルの組み立てに参加した。

初代の発売から8年が経過し、高度経済成長期にあった日本ではモータリゼーションが進展していた。自家用車の保有台数は毎年倍増する勢いであったし、また、第二次世界大戦直後に生まれたいわゆるベビーブーマーたちが自動車運転免許取得年齢に達していた。トヨタは、パブリカを初代モデル発売以来の「大衆車」という位置づけから、「若者が最初に購入する新車=エントリーカー」へと商品イメージの変更を企図した。

「1000ドルカー」という初代後期型の直截的なキャッチコピーは消え、「ガッツ!パブリカ」「カモシカ」(ハイウェイの──、スタイリッシュなトヨタの──、──ルック、など)という、より抽象的なムードの表現に変化した。また、広告のイメージキャラクターには、大河ドラマへの出演などで人気が上昇中の若手俳優であった石坂浩二が起用された。

更にダイハツ工業との提携により、同社からはパブリカと同一ボディのコンソルテが発売された。コンソルテはパブリカと異なり、従来のダイハツ製乗用車であるコンパーノから転用された1000ccエンジンが搭載された。

新たに設けられたスポーティグレードのSLは、カローラSLと同一の1100ccのK-B型エンジンを搭載したが、同年10月、カローラがマイナーチェンジによって1200ccになると期を一にして、パブリカSLのエンジンもカローラ用の3K-Bエンジン (77ps/6600rpm)に変更された。同時に、トヨグライド式オートマチック仕様が1000ccに追加された。なおこの年、パブリカ店はカローラ店に改称され、パブリカは商用車を除いてオート店の取扱い車種となった。

1970年10月、マイナーチェンジが行われた。インストルメントパネルを変更し、1200ccモデルにシングル・キャブレターのハイ・デラックス仕様が登場、前輪ディスクブレーキが標準装備となった。自動車排出ガス規制対策として、全エンジンにブローバイガス還元装置が取り付けられたのはこのときである。

1972年1月に大規模なマイナーチェンジを行い、前後のデザインを大幅に改めた。この際、自動車排出ガス規制をクリアできないため、2U型空冷2気筒800ccエンジンを搭載するモデルが廃止された。翌1973年には、派生車のパブリカ・スターレット(KP40系)を登場させるが、人気は次第に下降線をたどり(この当時、大衆の多くはカローラやサニーなどのクラスの大衆車に流れていったという経緯があったようである)、1978年、二代目スターレット(KP61)の登場を機に生産を終了した。

なお、その後もピックアップのみは生産が続けられ、エンジンを1300cc(4K-J型)に変更して1988年まで生産された。

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[ 2008/06/08 00:06 ] TOYOTA | TB(0) | CM(0)
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