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Fiat 124 commercial 1970 (in korea) 1'00"

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フィアット・124(Fiat 124)はイタリアの自動車メーカー・フィアットが1966年に発表・発売した小型乗用車である。同年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

イタリア国内では4ドアセダン(ベルリーナ)と 派生モデルの「124スポルト・クーペ」が1974年まで生産され、後継の131に生産移行したが、2ドアオープンモデルの「124スポルト・スパイダー」は1985年まで生き永らえた。

また特筆すべき事項として、旧ソビエト連邦やインドなど世界各国で大規模にライセンス生産・ノックダウン生産され、開発から40年以上を経過した2009年現在もなお一部で生産継続されている事実が挙げられる。特に旧ソビエト連邦およびその解体後のロシアにおいてラーダ ・VAZ-2101の名で生産された台数は膨大なものとなり、124シリーズの今日までの累計生産台数は1500万台を超えていると言われる。これは2100万台以上が生産されたVWビートルには及ばないものの、T型フォードに匹敵する同一モデル生産台数である。

1966年に、それまで生産されていた1300/1500の後継車種として発表された124は、開発コードの1で始まる3桁の数字をそのまま車名とする新しいネーミングが与えられた初のモデルで、ほぼ同時期に社長に就任したジャンニ・アニェッリ(創業者ジョヴァンニの子息)の就任後初のニューモデルであった。

124は何の装飾も無い、シンプル極まる箱型ノッチバックの後輪駆動4ドアセダンであったが、軽量設計を特徴とし、トータルバランスに優れた軽快な小型ファミリーカーとして完成された製品であった。

このクラスの実用車としてはルノー・8と並び、早くから4輪ディスクブレーキが採用された他、リアサスペンションも固定軸ながらコイルスプリングが採用されるなど、時流に半歩先んじた技術が採用されていた。元フェラーリの主任技術者アウレリオ・ランプレディによって新設計された1198ccエンジンもOHVではあるが軽量で高回転を許容する優れたエンジンであり、後に追加された高性能版ではシリンダーヘッドがDOHC化され、1990年代まで生産されたほどである。

124にはその後、5ドアワゴン、高性能モデルのスペシャル、スポルトスパイダー、スポルトクーペが順次追加され、バリエーションを拡大した

当初の1197cc65馬力の標準型に加え、1968年には排気量を1438ccに拡大して70馬力とした「スペシャル」が追加された。外観も丸型4灯式ヘッドライトが与えられ、標準型とは大きくイメージを変えた。同時にトップモデルとして、スポルト系に使われていたDOHCエンジンを装備した「スペシャルT」も登場した。

1970年にマイナーチェンジを受け、標準型はフロントグリルのパターン変更、スペシャル系は黒い樹脂製のフロントグリルに変更されて印象を改めた後、1972年にスペシャルTのエンジンが同年生産中止となった125で用いられていた1592cc95馬力に変更された。その後は変更無く1974年まで生産された。

日本へは登場直後から西欧自動車によって輸入されたが、余りにシンプルな標準型は「外車=高級車」という日本的価値観と相容れず、販売台数はごく少なく、むしろ1967年に誕生したDOHCエンジン搭載の上級車種である125の方が販売の主力となり、124の輸入は早々に打ち切られた。しかし、一時中断したフィアットの輸入が1974年にロイヤル・モータースによって再開された際には、既に消滅していた125に代わって対米輸出仕様の124スペシャルTが導入され、1976年に131Sが輸入開始されるまで販売された。ただし、排気ガス対策で83馬力にパワーダウンした上、不似合いに大きな衝撃吸収バンパーが装着され、オートマチック版も存在しなかったため、販売台数はクーペやスパイダーよりも少なかった。

スポルト・スパイダー
4ドアが登場した1966年秋のトリノ・ショーに、1959年以来生産されてきた1500/1600Sカブリオレの後継車として、同じピニンファリーナのデザイン・車体製作による2ドアスパイダーが登場し、翌67年から発売された。シャシーはベルリーナとほぼ共通の設計ながら、ホイールベースが短縮され、エンジンも当初からDOHC化されており、1438cc90馬力を発揮した。ギアボックスは5速MTが与えられていた。1966年の時点で既に四輪ディスクブレーキ・DOHCエンジン・5速ギアボックスを完備していたことは、ライバルのアルファロメオ・スパイダー(デュエット)を大いに意識したためであるが、非常に進歩的な設計といえる。

また、ソフトトップ(幌屋根)の構造も独創的で、幌をたたむ際に後部側面ガラスもボディ内に収納される。ソフトトップを持つ2ドアオープンモデルの場合、幌を挙げた場合には後部側面は幌に覆われ視界が狭いのが常識であるが、後部側面ガラスを採用したことにより、雨天時の実用性も確保している。

なお狭いながらも後部座席が設けられ、浅いものの比較的大きなトランクスペースを確保されており、スポーツカー然とした見た目とは対照的に高い実用性を持たせたことは、大衆車メーカー製品ならではの長所であった。

1970年にマイナーチェンジを受け(車台番号の頭文字がAからBに変更された)、フロントグリルの意匠が変更されると共にボアアップした1608cc110馬力、標準でウェーバー40IDF 型ツインキャブレター(2連装キャブレター、アメリカ仕様ではシングル)が奢られた高出力エンジンが追加された。

1973年にはこのエンジンの構造が一部見直されて型式が「132」となり、排気量は1592cc106馬力となり(この時車台番号の頭文字は再びCに変更された)、翌74年には1756cc118馬力版も追加された。

また、1972年には、アバルトがチューンナップした「124スパイダー・アバルト・ラリー」も約1000台生産された。DOHC1756ccエンジンはウェーバー44IDF 型ツインキャブレターで128馬力にチューンされた。16バルブ化することも可能で、WRC仕様車は最終的に210馬力にまでチューンされ、旧態化したランチア・フルヴィア1600HFに代わり、ストラトスが戦闘力を付けるまでの1973年~1975年シーズン、フィアット・ワークスチームのラリーカーとして活躍した。ストラトスが参戦後も、ストラトスに勝利することはなかったものの、たびたび上位入賞を果たし、後継のアバルト131ラリーに譲るまで。外観もアバルトらしくバンパーレス、マットブラックのFRP製ボンネット・トランクリッドやアバルト製マグネシウムホイールが装着されていた。

スパイダーは1979年には再度マイナーチェンジを受け、ヨーロッパ仕様車も対米輸出モデル同様の衝撃吸収型の大型バンパーを与えられたが、しかし、厳しくなる一方の排気ガス規制の対策のために、その出力は100馬力、対米輸出車(ならびに日本仕様車)では僅か78馬力に抑えられた。しかしその後排気量を1995ccへと拡大し、ボッシュ社製燃料噴射装置を導入することで、110馬力(アメリカ仕様で105馬力)となった。なお、1981年にはターボチャージャーを追加したモデルが追加されたが、少数の生産にとどまった。

1982年にはスーパーチャージャー付き135馬力の「VX」がヨーロッパで販売された。同年以降、車名からフィアットが外され、ボディ製造も行っていたピニンファリーナブランドでの販売となり、「ピニンファリーナ2000スパイダー」として 1985年まで継続生産された。このピニンファリーナ・スパイダーでは、フロントフードの開閉機構変更、後部座席の廃止(一部では収納機能の追加)、デジタル時計の追加等のメーター周りの意匠変更、シート形状の見直し、トノカバー取付方法の変更などによって、高級感を高める変更が行われた。 1985年の製造終了までの累計生産台数は約15万台に達した。

生産台数の過半は北米に輸出されたが、フィアット輸入代理店がたびたび交代した日本においても西欧自動車・西武自動車販売・ロイヤル・モータース・東邦モーターズ・近鉄モータースが順に輸入販売を行ったほど、根強い人気があった。

スポルト・クーペ
スパイダー登場の翌年である1967年、2ドア4座の「スポルト・クーペ」が追加された。デザインはフィアット自社チームの作品である。エンジンはスパイダーと共通のDOHC1438ccが搭載された。初期型は丸型2灯式ヘッドライトを持ち、車台番号の頭文字がACで始まるが、軽量で最も操縦性に優れていたとされる。

1970年にマイナーチェンジを受けて丸型4灯式ヘッドライトとなり、フェンダーラインが低められ、テールライトのデザインも変更され[1]、車台番号の頭文字がBCとなった。内装では初期型のウッド調のステアリングホイールやダッシュパネルが黒一色に改められた。エンジン排気量は同時期のスパイダー同様1608ccに拡大され、動力性能は向上したものの、リアサスペンションからはスタビライザーが外され、セッティングもソフトになり、ロードホールディングは逆に低下した。

1973年には再度の変更を受け、車台番号の頭文字がCCとなり、サスペンションのセッティングは元に戻され、DOHCエンジンは1592ccと1756ccの二本立てとなった。トランクリッドはバンパー上から開くようになり、テールライトは縦型となり、ダッシュボードも刷新された。しかしフロントグリルやバンパーが大型化され、サイドモールなども追加されるなどした結果、従来の清楚な雰囲気は大きく損なわれた。

比較的低価格で軽快なスポーティーカーとして1960年代末から70年代初頭の日本でも人気があり、西欧自動車・西武自動車販売・ロイヤル・モータースによって輸入された。

クーペの生産台数は初期型(AC)が約113,000台、中期型(BC)が約98,000台、後期型(CC)が約75,000台であった。

旧ソビエト連邦・現ロシア
1966年からフィアットはソビエト連邦のVAZ自動車工場の建設に出資した。この背景には、当時のイタリア政府の親ソ政策が存在していた。同工場は 1970年に完成し、124のライセンス生産版である「ジグリ(Zhiguli)」の生産が開始された。

当時としては最新型に近い同車は、それまでのソ連製乗用車と比較すると非常に進歩的な設計で、車種の選択肢が限られる共産圏では最良レベルの小型車であったため、ソ連国内では圧倒的なシェアを獲得することになった。さらに低価格を武器に東西ヨーロッパ各国にラーダ ВАЗ-2101、のちラーダ・1200という名で大量に輸出された。この輸出はフィアットの承認を得たうえでの販売である。

ほぼオリジナルの124のままでの生産は1984年まで続き、この頃になるとラーダの名は、西ヨーロッパにおいては旧態化した設計、不十分な安全性、快適装備の欠如の代名詞的な存在となっていた。それでもなお圧倒的な低価格と維持費の安さを売り物に一定の売れ行きを示し、ソ連にとって貴重な外貨の獲得に貢献した。

その後、主にフロント・リアのデザインが変更されてラーダ・2104/2105/2107となったが、VAZでの生産はソ連解体後の2008年現在も続行され、累計台数は既に1400万台以上に達している。

また、一部のモデルはロータリーエンジンを搭載し、主に交通取締り用のパトカーとして使われた。

インド
インドではプレミア社によって1986年から「プレミア・118NE」として生産開始された。同社はそれまで1960年代初期の1100Dを生産していたのでその世代交代版となる。

外観は角型ヘッドライト以外1966年のデビューオリジナルに近いが、エンジンは日産A12型(1171cc/52馬力)に換装されていた。1986年当時のインドでは最も設計年次が新しい乗用車であったのでデビュー当初は人気車種となったが、その後の経済改革で新型車が次々に輸入・現地生産されるようになると需要は急激に落ち込み、2001年には生産中止となった。

スペイン
スペインではセアト社によって1968年から1980年まで「セアト・124」として生産された。4ドアベルリーナ・.5ドアワゴンに加え、スポルト系としてはイタリア国外では唯一、BC・CC系のスポルト・クーペも1970年から1975年まで生産された。

トルコ
トルコではトファシュ社によって、「トファシュ・ムラット124」の名前で1971年から1977年まで134,867台生産された。

韓国
韓国では亜細亜自動車(아시아자동차、アシアチャドンチャ、後に起亜自動車の傘下に入った)が1970年から1975年まで、「フィアット124」(피아트 124、ピアトゥ 124)として生産した。

エジプト
2002年から現在まで「ラーダ・エジプト」社が124ベースのラーダ・2104系をライセンス生産している。

CKD生産
ブルガリアではPirin-Fiatの名で、1967年から1971年まで、ノックダウン生産された他、マレーシアでも124スペシャルが現地組み立てされていた。

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[ 2007/12/27 23:34 ] FIAT | TB(0) | CM(0)
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