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Volkswagen Commercial 1'32"

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1938年の生産開始以来、2003年まで生産が続き、四輪自動車としては世界最多となる生産台数「2,152万9,464台」の記録を打ち立てた伝説的大衆車である。

卓越した自動車設計者フェルディナント・ポルシェが1920年代以来、長年にわたり抱いていた高性能小型大衆車のプランが、1933年にドイツの覇権を握ったアドルフ・ヒトラーの大衆政策と結びつくことで実現した。1930年代におけるもっとも進歩した小型乗用車の一つで、その進歩性が、長年にわたって世界的な自動車市場の第一線で競争力を維持できた大きな理由とも言える。

1938年から量産を始めたが、ヒトラーの政治的野心に翻弄され、第二次世界大戦中に空襲によって工場その他は壊滅した。しかし、戦後フォルクスワーゲン工場を管理する立場に立ったイギリス軍将校アイヴァン・ハーストの尽力により復活して1945年から本格生産開始に至る。更に、元オペル社幹部であったハインリッヒ・ノルトホフが最高経営者に就任し、彼の経営手腕の下で、ドイツ国内はもとより、アメリカ合衆国をはじめとする国外への輸出でも1950年代から1970年代にかけて大きな成功を収めた。おびただしい外貨獲得によって、戦後の西ドイツ経済の復興に多大な貢献をした。

1938年から2003年まで、累計2,152万9,464台が生産された。これは、4輪乗用車における世界最多量産記録である。

ドイツ本国では1978年に生産終了しており、この時点で主力生産品の第一線からは退いたが、現在に至るまで世界的な人気は高い。フォルクスワーゲン社はこの車のデザインをモチーフとしたスタイルを持つモデル「ニュー・ビートル」を1998年から生産している。

多くのバリエーションがあり、その多様性から一語で指し示す用語として、英語の「Type 1」という型式名や「ビートル」などの愛称が用いられる。時代ごとの正式車名は「フォルクスワーゲン1200」、「フォルクスワーゲン1300」、「フォルクスワーゲン1303/S」、「フォルクスワーゲン1303 LS」など、何の変哲もない呼称であった。

Type 1(ドイツ語では「ティープ1」 Typ 1)はフォルクスワーゲン社内の生産型式番号で単に「1型」という意味であり、フォルクスワーゲン社の一号車であることを表しているが、一般にはよりわかりやすい通称で呼ばれる事が多い。

英語圏では、そのカブトムシの様な形から「ビートル(Beetle)」「バグ(Bug)」、ドイツでは1960年代後半より「ケーファー(Käfer=カブトムシ)」という愛称で親しまれた。ブラジルなどでは「フスカ」(Fusca=南米産の大ゴキブリ)と呼ばれ、日本では英語の「ビートル」の他に「カブトムシ」や「ワーゲン」と呼ばれている。

これらはあくまでも愛称であるが、ニュー・ビートルでフォルクスワーゲン社は「ビートル」を初めて正式車名に用いた。

フォルクスワーゲン・タイプ1となる自動車の開発は、1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想の計画を打ち出したところに始まる。当時、いまだ高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が国民の支持を得るのに絶好の計画であった。

ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼することになった。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに独立した設計事務所を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこない、ナチスの支援していた「アウトウニオン・グランプリカー」(いわゆるPヴァーゲン 1933年)の設計にも携わっていた。

ポルシェ自身、生涯に開発したい車として「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を挙げており、1920年代以来、様々な自動車メーカーとの提携でリアエンジン方式の小型車開発に取り組んでいたが、毎度試作車を開発した段階で、予算不足や不景気、提携メーカーの弱腰などによって、計画を頓挫させ続けていたのである。それだけにヒトラーの提案は「渡りに船」であった。

運転はしなかったが自動車に乗ることが好きで、メルセデス・ベンツとタトラを好んだカー・マニアのヒトラーは、ポルシェに国民車の条件として、連続巡航速度100km/h、大人3人と子供2人が乗車可能なこと、7リットルの燃料で100kmの走行が可能である(=1リットルあたりの燃費が14.3km以上である)こと、空冷エンジンの採用、価格が1000ドイツマルクをきるなどの厳しい条件を示した。

ヒトラー自身もこの条件の厳しさは承知していたようだが、特に、当時のドイツ製4人乗り小型乗用車で大量生産による低価格化を実現した代表例のオペル「P4」ですら、定価1450マルクした[1]ことを考えれば、販売価格1000マルクで必要とされる性能の自動車を開発することは極めて困難があった。

ドイツの各自動車メーカーが政府統制によって結成した団体「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA)が、1934年6月にポルシェ事務所と開発契約を結び、計画がスタートした。ポルシェ社は、決して潤沢とは言えない開発予算の中で、1930年代初頭から幾度か試作されては頓挫してきた小型大衆車の開発経験を活かして、開発を進めた。

契約を結んでから2年後の1936年にようやくプロトタイプ2台の製作が完了、1937年には計30台のプロトタイプが製作された。ナチス親衛隊(SS)隊員の免許保有者たちによって過酷なテストドライブを受けることで、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化された。

翌年1938年には最終プロトタイプVW38が完成する。同年5月には工場の定礎が行われて、その会場でヒトラーは生産型の車を『KdF-Wagen(歓喜力行団の車)』と命名した。国民はクーポン券による積み立てでKdF購入費用を貯蓄し、満額に達した者に車を引き渡すという計画が立てられた。

しかし、ヒトラー自身が1939年に第二次世界大戦を勃発させてしまったため、量産直前まで到達した国民車構想はストップした。KdF-Wagen 製造工場は軍用仕様のキューベルワーゲンやシュビムワーゲンを主に生産するようになった。若干数の KdF-Wagen も軍用車両として用いられた。この工場では戦争捕虜や収容所収容者が過酷な労働に従事させられた(現在のフォルクスワーゲン社に、この戦時中の強制労働の直接責任があるわけではないが、同社は歴史担当部門を設け1998年から各種の戦争補償プログラムをおこなっている)。

KdFに関しては、チェコのタトラ社のハンス・レドヴィンカが試作し、1937年から少数を生産した1700ccリアエンジン車タトラT97との類似が指摘されることがある(更には同じくタトラが1934年に発表した大型リアエンジン車「T77」、1935年の「T77A」、1936年の「T87」の影響も指摘される)。カブトムシ型の流線型ボディ、空冷の水平対向もしくはV型エンジンをバックボーンフレームの後部に搭載し、四輪独立懸架とするシャーシ構造、冷却システムなど、確かに類似点は多い。空冷エンジン採用には、空冷モデルを主力としたタトラに対するヒトラーの傾倒があったとも言われる。

実際に戦後タトラ社はフォルクスワーゲン社に訴訟を惹起、1961年、VW社は300万ドイツマルクに及ぶ賠償金を支払っている。しかしビートルの原型は1934年のNSU試作車(タイプ32)において完成をみており、これ(タトラ社への賠償金支払)は著作権侵害の賠償というよりは、ドイツによるチェコスロバキア併合と、相前後してのT97生産停止命令への賠償を肩代わりしたものとみていいだろう。

ちなみにポルシェとレドヴィンカは交遊があり、お互いのアイデアを頻繁に交換しあっていた。二人はいずれも1920年代からバックボーン・フレームやスイング・アクスル独立懸架、空冷エンジンなどの導入に熱心で、1931年~1933年頃にはほとんど並行する形で流線型ボディの空冷式小型リアエンジン試作車を開発していた。またリアエンジン流線型車を構成する個々の技術要素のほとんどは、特に二人が発明したという訳ではなかった(フォルクスワーゲンにおいても、ポルシェ自身が考案した部分は、トーションバーを用いたダブル・トレーリングアームの前輪独立懸架ぐらいである)。類似した原因は、当時のトレンドであった新技術を両者が貪欲に取り入れていた結果で、一方がもう一方を単純に模倣したと言えるものでもない。

1945年、ドイツは戦争に敗れ、KdF-Wagen 工場跡は空爆で大きな被害を受けていた。この工場を管理する役目を与えられたイギリス軍将校アイヴァン・ハーストは、「ナチス側が爆破したように見えた」と証言している。

資材のない戦後の混乱期であり、ドイツ国内のさまざまな工場や資材は、進駐してきた米国、フランス、イギリス、ソ連の4国に収奪され、自国に持ち帰られてしまうような状況であった。しかしアイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を抱き、手段を尽くして工場を修復させ、自動車生産を再開させることをもくろんだ。こうして彼は、残っていたドイツ人労働者らの力でその名の通りの「国民車・フォルクスワーゲン」を、はじめて誕生させたのだった。1945年中に早くも1785台を生産している。

ハーストは英国軍に対し、ジープに代わる耐候性の高いスタッフカーとしてフォルクスワーゲンを用いることを提案し、1946年には1万台のフォルクスワーゲン・タイプ1が生産された。

1947年には、オランダ向けを第一陣として国外輸出が始まった。最大の市場となったアメリカへの進出は、1949年である。

以後のフォルクスワーゲン・タイプ1の歴史は、破竹の勢いと言うべきものであった。とにかく頑丈で酷使に耐えるうえ、材質・工作が優秀で整備性も良く、大人4人を乗せて経済的に高速巡航できるこの車の性能・品質は、1950年代に至ってもなお世界各国の新型小型乗用車に引けを取らないものであった。アウトバーンでの走行を念頭にした、100km/h以上で高速道路を連続巡航できる車、というポルシェとヒトラーのコンセプトは、戦後の先進各国におけるハイウェイ時代到来に、見事に適応したのである。「悪名高い独裁者であったヒトラーが残した数少ない『正の遺産』は、アウトバーンとフォルクスワーゲンである」とも言われたほどである。

緻密に構築された質の高いディーラーサービス網は、ユーザーからの信頼をより一層高めた。1955年には累計生産100万台に到達、更に工場の増設・新設を繰り返して、1964年には累計生産1000万台に到達した。

改良は年々為され、エンジンや電装の強化(1960年代中期以降、6V電装を12Vへ変更)、細部の形態変更などが繰り返されている。排気量は当初の1000ccがすぐ1100ccへ拡大、のち1954年からは1200ccとなるが、1960年代に入ると輸出モデルを中心に1300cc、 1500ccへの移行が進み、モデル後期には1600cc型も出現している。

アメリカではセカンドカーとしての需要が高かったが、特に合理性を重んじる知的階層からは「大型車へのアンチテーゼ」として愛用され、一時はデトロイトの大型車と正反対な、反体制の象徴の一つとしても扱われた。理知的なユーモアに溢れる優れた広告戦略も好評を博したが、その広告代理店がドイツ系ユダヤ人のウィリアム・バーンバック率いるDDB(ドイル・ディーン・バーンバック)社であったことは、フォルクスワーゲンの生い立ちからすれば歴史の皮肉と言える。

日本では老舗輸入車ディーラーヤナセが1952年から取り扱いを開始。「寒冷時の急な往診にも速やかにコールドスタートできる頑丈なドイツ製品」というキャラクターが開業医に好まれ「ドクターズカー」として使われる例が多かった。このため、昭和30年代には「お医者さんの車」として一般大衆にも知られるようになった。フォルクスワーゲンは、戦後のヤナセにおいて長く主力商品の一つとなった。

だが1960年代以降は、設計の古さによるスペース・ユーティリティの悪さや、リアエンジンとスイングアクスル式独立懸架による高速走行時の不安定さ、空冷エンジンの騒音などが問題視されるようになる。しかし、フォルクスワーゲン社は決定的な代替車種開発に失敗し続けて1970年前後は経営困難に苦しみ、1974年に前輪駆動方式の本格的な代替車「フォルクスワーゲン・ゴルフ」を世に出すまで、前時代化したビートルを主力車種としたまま改良のみでしのぐことになる。

1970年には、ポルシェ式のトーションバー式トレーリングアームに代わり、安定性を改善したストラット式サスペンションを備えた1302系が発表される。サスペンションのみが大幅近代化されながら、外観は在来型ビートルから大きな発展はなかった。この系列は1973年にはボディ形状の変更などで1303系に移行しているが、1975年まで生産された。もっともストラットサスペンション系列と並んで、ポルシェ式サスペンションを持つ在来モデルも継続生産された。この間、1972年2月17日には、累計生産1500万7034台に到達し、フォード・モデルT(1908~1927)の1500万7033台という生産記録を追い抜いた。

前輪駆動車へのシフトで、ドイツ本国では1978年を最後に製造が終了したが、メキシコではその後も生産を継続、ブラジルでも一時生産中止していたビートルを生産再開した時期がある。

2153万台弱という膨大な生産台数を達成して、メキシコで最後のタイプ1の生産が終了したのは2003年であった。発表以来65年間に渡る製品寿命を保った四輪乗用車は、他に存在しない。

ドイツ人はオープンモデルへの志向が強く、タイプ1(ビートル)をベースにした2シーターカブリオレのヘブミューラー・カブリオレが生産されている。生産数が少なく、幻の車とされるロメシュ(ロメチュ)も同類に属する。

更に、ビートルのコンポーネンツを用いた本格的なスポーツクーペとしてイタリアのギア社のデザインしたボディをドイツのカルマン社で生産した「カルマン・ギア」(1955年、タイプ3系カルマンギアは1961年)は、洒落たスタイルで人気を博した。

ビートルのリアエンジンシャーシは応用範囲が広く、これを流用ないし強化する形で、広大な荷室を備える先進的ワンボックス車のタイプ2(1950年)や、ノッチバック、ファストバック、ワゴンを擁す幅広ポンツーン・スタイルのタイプ3(1961年)、4ドアのタイプ4(1968年)などがラインアップに加えられてきた。

鋼管バックボーンフレームとプラットフォームを組み合わせた頑強なプラットフォーム・フレームを備え、後部にギアボックスとディファレンシャルを兼ねたトランスアクスル、及びエンジンを搭載する。1930年代の自動車としては進んだ設計である。

サスペンションは前後とも、横置きトーションバーからトレーリングアームで吊られる構造で、フロントはポルシェ流の2段式トレーリングアーム、リアはシングルトレーリングアームで吊られたジョイントレス・スイングアクスル構造である。このサスペンションと、車格の割には大径のタイヤによって悪路踏破性能は高かった。ブレーキは初期こそメカニカル・ドラムだったが、1950年代前半に油圧化され、更に末期には前輪をディスクブレーキ化している。

ポルシェ社のフランツ・ライムシュピースによって設計されたエンジンは、軽量さと簡易性を配慮して設計された強制空冷水平対向4気筒OHVで、車体の最後部に置かれるRR(リアエンジン、リアドライブ)である。ポルシェは整備性に重きを置いており、エンジンルームにはかなりのゆとりが確保されていた。多くの場合、ソレックス製のシングルキャブレター装備が標準だった。

水平対向の強制空冷エンジンゆえに「バタバタ」「バサバサ」などの擬音、もしくは「ミシンの音」と表現される大きな騒音を発したが、その代わり耐久性は抜群で、灼熱・酷寒の気候でも酷使に耐えた。ビートルだけでも1600ccに至る排気量拡大などの大改良が幾度となくなされたにも関わらず、基本レイアウトがそのまま踏襲され続けたことは特筆に値する。

エンジン交換が比較的容易で、1970年代などに盛んに行われたファン・ミーティングでは「エンジン脱着競争」(ル・マン式スタートの如く、車から離れたスタート地点から二人一組のチームが車に駆け寄り、エンジンを外した後、それを台車に載せてスタート地点に戻り、また車に戻ってエンジンを装着し、エンジン始動の後車をスタート地点までバックさせてゴール。平均タイムは20分少々)が恒例行事として行われていた。

VW空冷エンジンは、廉価で軽く頑丈なため、軽飛行機などのエンジンにも流用された。

VWエンジンを使ったフォーミュラカー、Vee(1200ccエンジンを使用)・Super Vee(1600ccエンジンを使用)のシリーズも存在し、同シリーズからはニキ・ラウダがF1まで駆け上っている。

全鋼製セミ・モノコック構造の流線型で、「カブトムシ型」といわれるヤーライ流線型ボディの典型である。まだ木骨ボディの大衆車も多かった時代に、プレス鋼板による量産性や耐久性、安全性を考慮していち早く全鋼製ボディを採用したことには先見の明があった。丸みの強いボディは空気抵抗が小さいだけでなく、鋼材の節約や強度確保の効果もあった。なお、ボディ形状は2ドアセダンないしカブリオレのみで、4ドア型は存在しない(にも関わらず、タクシーやパトロールカーなど4ドアに適する用途にもしばしば用いられた)。

デザインはポルシェ社のエルヴィン・コメンダによるもので、「ヒトラーのデザイン」という奇妙な説が一部にあるが間違いである。類似した流線型車は1930年代からポルシェ自身によって設計されていたが、コメンダのデザインは独立式フェンダーやホイールベース間の側面ステップを残す古典性はあるものの、流麗で完成度が高かった。

長い生産期間を通じ、窓形状やフード、フェンダー、バンパーなどの形状変更は枚挙に暇がないが、「独立フェンダーとホイールベース間のサイドステップを持つカブトムシ型」という流線型ボディの基本的なデザインモチーフは一貫して踏襲され、世界的に親しまれた。

もっとも、ボンネット内容積・幅員の有効利用が為されていないなど実用面の弱点もあり、1930年代基準のデザインは、1950年代中期時点ですでに「時代遅れ」と評されていたのであるが、大きな変更もなくそのまま生産が続けられたのである。

その全鋼製ボディは、当時の車としては気密性も高く(窓を閉めておけば)「水に浮く車」としても有名だった。ほとんど無改造のビートルがイタリアのメッシーナ海峡を横断したり、フォルクスワーゲン社の実験では、エンジンをかけたままプールに沈めたところ、9分あまりも沈まなかったという。洪水に流されたが無事だった、というエピソードもいくつかある。

1970~80年代には、キャル・ルック(California Look)と呼ばれるスタイルのビートルが流行した。12V車をベースに、ホイールボルトを4本から5本に、911用アロイホイールの流用、6V用フェンダー&ヘッドライトへの換装、メッキモールの除去、チョップドトップ、ローライダー、チューンナップしたエンジンの熱対策にフードをヒンジ側で持ち上げるなどである。

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[ 2007/09/07 16:40 ] VOLKSWAGEN | TB(0) | CM(0)
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