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Suzuki Fronte 1971 1'00"

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3代目(1970年-1973年)
1970年11月 3代目フロンテ(フロンテ71)発売。形式名はLC10-II型。グレード構成は、スタンダード、デラックス、ハイデラックス、スーパーデラックス、ハイスーパー、S、SSS、SSS-R。SSS-Rの「R」は、ラジアルタイヤ(135SR10サイズ)標準装備の意味。エンジンは基本的には従来の空冷エンジンを使用。スタンダード、デラックス、スーパーデラックスは31馬力。ハイスーパー、Sは34馬力。SSS系は36馬力。ボディスタイルは全く新しいものとされ、直線基調の2ボックススタイルとされた。車高は1260mm(スポーツ系)とかなり低く設定され、フロントのトランクは大きく拡大された。室内寸法はクラス最大。通称「スティングレイ・ルック」と呼ばれた。

1971年5月 フロンテ71W追加発売(空冷車と併売)。フロンテ71のボディはそのままに、新しい水冷エンジンを搭載したモデル。形式名はLC10W型。グレードは当初GL-W、GT-W、GT-RWの3機種。GT-RWの「R」は、ラジアルタイヤ(135SR10サイズ)標準装備の意味。エンジンは新開発の水冷2ストローク3気筒を搭載。冷却には独自の「デュアル・ラジエター方式」を採用。GL-Wは34馬力、GT-W系は37馬力となる。室内には温水による新しいヒーターシステムが完備され、エンジン性能向上に伴い、各部が強化された。動力性能は当時の軽4輪車の中では抜きん出ており、GT-Wの走行性能は「1500ccの乗用車とほぼ互角」と言われた。これによって吊り下げ式クーラーがオプション設定されるようになった。

1971年7月 水冷GS-W、GO-Wを追加。GS-WはGT-W同様のシャシーに34馬力エンジンを搭載したムード・スポーツ。GO-WはGL-Wより少し装備を簡略化した廉価モデル。

1971年9月 3代目フロンテをベースにした、軽自動車枠のスポーツカー、「フロンテ・クーペ」発売。セダン系とは別に、独自の車種構成を展開していく(詳細はフロンテ・クーペを参照)。

1971年11月 マイナーチェンジで72(セブンティ・ツー)フロンテに名称変更。フロントグリルのデザイン変更、ダッシュボードやシート等、内装の変更が施される。スポーツ系のホイールキャップデザイン変更。空冷エンジン車のスポーツ系は消滅。空冷車は「ビジネス・シリーズ」水冷車は「ゴージャス・シリーズ」水冷スポーツ車は「スポーツ・シリーズ」と称される。

1972年3月 水冷シングルキャブ31馬力のGD-WとGU-Wが追加。GD-Wはデラックス、GU-Wはスタンダードに相当。

1972年10月 マイナーチェンジで73年型としてニューフロンテシリーズを発売。外観はフロントグリルからボンネットやバンパーまで大改良。ヘッドライトは角型2灯式から丸型2灯式に変更。上級グレードはテールランプ横に化粧板を装備。三角窓廃止。空冷車はスタンダードとオートクラッチのみとなる。タンデムブレーキマスターシリンダーと前ディスクブレーキ装備のGT-TYPEIIを新設定。

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[ 2009/04/01 13:32 ] SUZUKI | TB(0) | CM(0)

「自動車ショー歌」 マイトガイ小林旭 2'43"

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自動車ショー歌(じどうしゃしょうか)は、星野哲郎作詞、叶弦大作曲の歌謡曲。一般的には1964年(昭和39年)に小林旭が歌ったことで知られる。歌詞の中に駄洒落的に自動車の車種を盛り込んだことで、「自動車のshowを行う歌」と「自動車の唱歌」を掛けている。

1982年、陣内孝則が、車種名を変えた「陣内の自動車ショー歌」を、アルバム内の一曲としてだした。

1988年、車種名を変えてコロッケが「新自動車唱歌」(全て漢字、シングル「故郷」のカップリング曲)を発売した。

2003年に公開された映画「茄子 アンダルシアの夏」、続編として2007年発売されたOVA「茄子 スーツケースの渡り鳥」ではテーマソングとして「自転車ショー歌」という本作の改変版が使われた。編曲・歌手は忌野清志郎が手掛けている。歌詞は星野哲郎の手による新規書き下ろしである。

2005年放送のアサヒビールの広告(カクテルパートナー)で小林旭が本作の替え歌「カクパーショー歌」を歌った。

2003年にはDOGGY BAGが本作のリメイクとして「新・自動車ショー歌」(たきのえいじ作詞、浜圭介作曲)を発売。曲調は一新されており、また曲中にラップが入っている。

1番
トヨペット-ニッサン-パッカード-シボレー-クラウン-ジャガー-フォード-コロナ

2番
ビュイック-タウナス-デボネア-マーキュリー-ルノー-オペル-コルト

3番
ブルーバード-ミンクス-キャロル-ダットサン-コンテッサ-マツダ-オースチン

4番
ベンツ-グロリア-ベレット-ヒルマン-クライスラー-リンカーン-ワーゲン-セドリック

* この曲は企業名や車種が入っている関係上、NHKで流れることは皆無に等しいが、小林が総合テレビの「ふたりのビッグショー」に出演した際、1度だけ「自動車ショー歌」をフルコーラスで歌ったことがある。しかし宣伝になってしまうと判断されたのか、歌詞の字幕スーパーは全く表示されなかった(「ふたりのビッグショー」では原則的に歌詞は字幕表示していた)。しかし、同じNHKの番組でも2007年にBS2、BSハイビジョン、NHKワールドプレミアムで放送された「BSふれあいステージ」で出演した際にも「自動車ショー歌」を歌っているが、こちらは歌詞の字幕スーパーは普通どおり表示されていた。 * 一方、小林はフジテレビの「ミュージックフェア」に出演した際にも「自動車ショー歌」をフルコーラスで歌ったことがあるが、自動車メーカーと全く被らない塩野義製薬の一社提供だったため、こちらでは何の問題もなく字幕スーパーで歌詞を表示することが出来た。

* 2007年3月5日、NHK-FMミュージックプラザ第2部ポップスの「小林旭特集」で放送された。

* かつて日本テレビで放送されていた「速報!歌の大辞テン」にはホンダがスポンサーにもかかわらず、歌詞テロップ入りで放送されていたことがあった(ワンコーラスのみ)。

* 所ジョージは、自動車ショー歌をモチーフとし、タバコにスポットを当てた「タバコショウカ」をリリースしている(楽曲自体は全くのオリジナル作品)。

* 水曜どうでしょうの企画対決列島西日本編のエンディングテーマでもある。理由は出演者の大泉洋が山陽道のとあるパーキングエリアで「小林旭ベストヒット全曲集2」のテープを購入し、車内のBGMとして流していたためである。

[ 2009/04/02 13:56 ] その他の動画集 | TB(0) | CM(0)

Honda TN360 0'30"

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TN360は本田技研工業が生産していた軽トラックである。

T360の後継として1967年にデビューした。

N360用の空冷 2気筒エンジンをほぼ水平に横置きし、やはりN360のドライブトレーンを利用して後輪を駆動する、ミッドシップレイアウトを採る。前輪駆動用のトランスアクスルを流用しているため、リアサスペンションにはド・ディオンアクスルを採用し、その位置決めには半だ円リーフスプリングを用いている。

その後TNIII、TN-V、TN-7とマイナーチェンジの度に名前を変えていき、1977年に後継のTNアクティが登場し生産が終了された。

TN360(1967-1970年)
* 1967年登場。エンジンは空冷 4ストローク 直列2気筒(並列2気筒)SOHCで最高出力は30PSだった。

* 1969年T360で設定されていた、後輪をクローラに変更するスノーラを追加。

TNIII(1970-1972年)
1970年マイナーチェンジに伴い車名をTNIIIと変更。フロントグリルのデザインが変更された。

TN-V(1972-1975年)
1972年登場。ヘッドライトを縦並びの丸形4灯式に変更。このときT360から続いた巨大なHマークがHONDAのロゴに変更された。シートベルトが標準装備され、ウインカーと共用だったテールランプが分離した。途中から三角窓を廃止した。

TN7(1975-1977年)
1975年登場。昭和50年排出ガス規制適合により車名をTN7に変更。電動式ウインドーウォッシャーを本格装備し、ワイパースイッチと一体化される。

[ 2009/04/03 11:56 ] HONDA | TB(0) | CM(0)

Honda Z 0'18"

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ホンダ・Z(ゼット) とは、本田技研工業が生産していた軽自動車である。

初代は1970年代に生産していたスペシャルティタイプの軽自動車(Z360)。デザインは日本人が行ったものであり、360ccでクーペスタイルを目指したものである。そのため後座席は子供が乗れる位のスペースしかなかった。しかし当時のホンダ車に共通する飛行機風の計器類のデザインは印象的である。また4速と5速ではシフトパターンに違いがある。デザイン段階で後方までルーフを伸ばしたため、後部を斜めにカットしガラスハッチを持ち、その黒くて太い枠から「水中メガネ」の愛称で親しまれた。

2代目は1998年に発売したSUVタイプの軽自動車(Z660)。ミッドシップにエンジンを搭載した四輪駆動車で、軽トールワゴンとライトSUVの折衷のようなスタイルをしている。

初代(1970-1974年)
* 1970年10月20日、初代Zを発売。N360と基本的に共通の空冷 SOHC 2気筒 360ccエンジン(36PS/31PS)を搭載。発売当初の価格は「Z ACT」が埼玉県狭山工場渡し現金価格で34万8000円。「GS」(5速MT、前輪ディスクブレーキ搭載)は後日発売となる。前輪ディスクブレーキは当時としては珍しかった。

* 1971年12月1日、マイナーチェンジ。先にライフに採用されていた水冷 SOHC 360ccエンジン(36PS)を搭載することになった(ダイナミックシリーズ)。またフロアユニットをNIIIからライフへと変更したのに伴いホイールベースが80mm延長されている。水冷Z初期の5速MTモデルは「GTL」となる。

* 1972年1月に「ゴールデンシリーズ」が発売。こちらはホイールをシルバーに、水中めがねはボディと同色、エンジンの出力が31PSとなっている。

* 1972年11月にはBピラーが廃止されハードトップスタイルとなった。エンジンは36PS仕様のみとなり、前方のフロントグリルはハニカム型へ変更。後方から開閉していたスペアタイヤ取出口は塞がれて分割バンパーとなる。このモデルの5速MTは「GSS」となる。

* 1973年には燃料蒸発ガス抑制装置を追加、ブレーキのマスターシリンダーはシングルからタンデムに変更する。

* しかし、排ガス規制とオイルショックの影響もあって、1974年に初代Zはライフと共に生産中止となった。

* N360同様、空冷エンジンのN600の機関部分を乗せて「Z600」として海外に輸出した。360との違いは機関、大型バンパー、ミラー等であった。

[ 2009/04/04 12:20 ] HONDA | TB(0) | CM(0)

Honda 600 Sedan Commercial 1971 (Honda N360) 1'03"

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ホンダ・N360は、本田技研工業(ホンダ)が1967年から1972年まで製造した軽自動車である。愛称は「Nコロ」。

前輪駆動方式を採用して広い車室スペースを確保すると共に、この時代としては異例の高出力エンジンを搭載し、当時の軽自動車業界における「馬力競争」の火付け役ともなった。

低廉な価格と高性能によって当時のベストセラーとなった。

1967年3月から市販が開始された。ホンダはそれ以前にスポーツカーのSシリーズや商用車は送り出していたが台数は限られたものであり、N360はホンダ初の本格的な量産型乗用車と言える。「N360」の「N」は、一説には「乗り物(Norimono)」の略とされ、当時社長であった本田宗一郎がミニマム・トランスポーテーションとしての普及を目した事によるネーミングと言われている。

内外装
2ドアの2ボックススタイルは、小径タイヤを四隅に追いやって極力車室スペースを稼ぎ出そうとした設計であり、当時の軽乗用車としては極めて広い車室を備えていた。前輪駆動共々、先行して開発されていたイギリスのMiniの影響が指摘されている。トランクリッドを備えているのも共通であるが、Nではリアバルクヘッドやトレイを省略したトランクスルー構造となっている。

本田宗一郎は当初のリアデザインが気に入らず、金型を取り終わったクレイモデルにカンナで削りを入れたという逸話が残っている。

ダッシュボードをはじめ内外装は簡素で、スピードメーター周りは自動車というよりテスターのインジケーターを思わせる単純なデザインだった。

ドライブトレイン
空冷エンジンをフロントに横置きして前輪を駆動する。既に前輪駆動車用の等速ジョイントが実用水準に達した時期であり、時宜を得た手法であった。

エンジンは4ストローク強制空冷直列2気筒チェーン駆動SOHCで、オートバイ用の450ccエンジンをベースに開発された。ボア×ストロークは62.5×57.8mmのオーバースクエアで、排気量は354cc、最高出力は実に31PS/8,500rpmという、当時としては凄まじい高出力・高回転エンジンであった。この時代、軽自動車のエンジンは2ストロークが主流で、出力も20PS台前半がせいぜいであったことから、4ストロークで31PSを発生するN360のパワーは、もはや常軌を逸した水準であった。最高速度は115km/hを公称し、これも当時の軽自動車として最高レベルであった。

エンジンと直列配置された4段変速機もバイク的で、コンスタントメッシュのドグミッション式、しかもダッシュボード下からロッドを介してシフトレバーにつながっているという、いささか荒っぽい設計であった。もっとも若いユーザーには、かえってスポーティであるとして歓迎する向きもあったようである。 空冷エンジンの冷却による廃熱を利用したヒーターは、室温の維持が難しいうえ、寒冷地ではやや能力不足であった。また、どうしても車内がガソリンやオイル臭くなった。

サスペンションはフロントがストラットの独立、リアがリーフ・リジッドという、単純かつコンパクトな組み合わせである。

1967年3月の発売当初はグレードは1種類のみで、他社の車より低価格の30万円前半であった(狭山工場渡しで31万円台)。高性能でしかも廉価なことから一般大衆の人気を得てヒット作となり、発売から数ヶ月のうちに、当時の軽自動車月間販売台数トップの地位をスバル・360から奪取した。同年6月には姉妹車として、ライトバンタイプの「LN360」も追加された。

N360のハイパワーぶりに驚愕した競合各社は、2ストロークエンジンの高回転化でパワーアップして対抗、その後オイルショック直前までの数年間に渡り、軽自動車業界はカタログ出力を誇示しあう馬力競争に突入した。360ccの軽自動車が、実にリッター当たり100PSに相当する 36~40PS級に達したのである。もっとも超高回転型の特性で常用域のトルクに乏しく、実用性欠如のモデルばかりであった。

1968年4月には、ホンダ初の自動変速機を搭載した「N360AT」も発売されている。これは自社開発で、「ホンダマチック」と称する。この「ホンダマチック」は、後にシビックなどに搭載される、「★(スター)レンジ」を持つ半自動式とは異なり、本格的な3段フルオートマチックであり、セレクトレバーはハンドルコラムに設置され、「P-R-N-D-3-2-1」の7ポジション式であった(3,2,1の各ポジションは各ギア固定)。最高速度は110km/hに達し、4速マニュアル車と遜色ない。

1968年7月には、キャンバストップを備えた、N360サンルーフが追加される。

1968年9月、ツインキャブレターを装備して36PS/9,000rpmを発生する「T」、「TS」、「TM」、「TG」のグレードを設けた(TはTwinの意)。最高速は120km/h。

ホンダは既に「Sシリーズ」の2座スポーツカーは海外輸出していたが、N360が開発されると、これをベースに排気量を400ccに拡大した「N400」、600ccエンジン搭載・最高速度130km/hの「N600」が製造され、アメリカ合衆国・ヨーロッパに輸出された。ヨーロッパでは、メーカーの競争激化による淘汰や各社の生産モデルの上級移行で、最小クラスにあたる廉価な小排気量ミニカーが徐々に減少していたこと、またオートバイレースやF1レースで知名度の高いホンダの高出力車であることから、若年層を中心に収入や免許制度での制約のあるユーザーの支持を受け、一定の販売実績を収めたという。また、当時の西ドイツでは250cc以下の自動車は日本の軽自動車に類似した優遇税制、免許制度があったことから、現地ではボアダウンキットで250ccにするユーザーもいた。

Nシリーズの600ccモデルは日本国内向けには1968年6月から「N600E」として市販されたが、居住性は軽自動車並であるのに税法上普通車扱いとなる事から販売が振るわず、僅か半年間、1500台程度で販売を終了した。これは大手メーカーの量産乗用車としては、最短命である。機構的には、輸出用と同じ部分があるが、インテリアや機構細部は全く異なっていた。ホンダにとっては、日本国内向け初めての普通車登録4座乗用車となった車である。

その後、1969年1月にモデルチェンジを行った。通称N IIと呼ばれるこのモデルでは、外装はわずかなデザインの変更にとどめられたが、内装ではダッシュボードの大部分がパネルで覆われ、乗用車らしいムードとなった。

また、1970年1 月には、再度のモデルチェンジにより、「N III」へと進化している。このモデルチェンジでは、正式に「N III 360」の名称となり、外装にも大きな手を入れられている。メカニズムでは、特徴的だった4段ドグミッションはごく普通のフルシンクロ式に変更された。また、象徴だった高回転・高出力エンジンにも手を入れた「N III 360 タウン」が同年9月に追加されている。低速域性能を重視したタウンのエンジンは、27PS/7,000rpm(トルクは不変)へとチューニングされている。

N360は発売から僅か2年足らずで25万台を販売、総生産台数は65万台に達した。

ユーザーユニオン事件
1969年以降、ラルフ・ネーダーが主導しアメリカで社会問題になっていた「欠陥車問題」に影響されて日本でも同様に欠陥車糾弾の動きが生じた。この種の動きを見せた団体に「日本自動車ユーザーユニオン」があり、当時のベストセラーカーであったN360に操縦安定性の面で重大な欠陥があると指摘、未必の故意による殺人罪で本田宗一郎を東京地方検察庁に告訴した。

この事件に関して1973年の国会審議で日本共産党が質問中に示した数字として、1968年から1970年の3年間で、被害者362名、うち、死亡が56名、重傷106名、軽傷137名、物損14件というものがある。

これによるイメージダウンのため、発売以来3年間国内販売首位を誇っていたN360の人気は急下降し、市場生命を失う。N360は1972年で販売を終えた。

捜査の結果本田宗一郎は不起訴となった。またホンダに法外な示談金が要求されるにおよび、ホンダもユーザーユニオンを恐喝で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。結果2名は有罪となったが、ホンダとの交渉に関する部分は一審では有罪となったものの控訴審では無罪となり、上告審でも控訴審での判断が維持されている。結局判決が確定したのは1987年1月のことであり、十数年の年月を要した。

ホンダはNシリーズの派生型であるホンダZや、モデルチェンジ型であるホンダライフ等で、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、N360で失ったものを取り戻すまでには至らず、1974年には商用車のみを残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。

N360の開発に携わった中村良夫は、のちに、ユーザーユニオンの指摘した「ヨー特性にロール特性がからんだ不安定さ」をN360がもっていたことを否定していないが、技術鑑定人として委嘱された亘理厚(わたり・あつし 東京大学生産技術研究所教授。当時の日本における自動車技術の権威の一人であった)は、「当時の道路運送車両法が軽自動車の速度について60km/h程度を想定しており、100km/hを軽くオーバーするNのような自動車の出現を予知し、盛り込めていなかったことに問題がある」という主旨の指摘をおこなっている。また、リアエンジン方式とリアスイングアクスル式サスペンションの組み合わせで「低速横転」を頻発していた他のいくつかの車種が問題とされていない点でも、訴訟は作為的なものと取れる。

N360は一定以上の商業的成功を収め、またドライブトレーンを共用したスペシャリティカーの「Z」や、軽トラック「TN360」などの派生展開を促して、ホンダの業績拡大に著しく貢献した。

しかし、オートバイ用ベースの高回転エンジンに依存した高性能は、創業者・本田宗一郎に代表される初期ホンダが備えていた一種の「蛮勇」の現れとも言え、空冷故の騒音や、ドグ・ミッション等は、乗用車としての洗練を欠いたものであった。

その後のホンダは、高性能空冷エンジンに代表されるエキセントリックな面を抑え、1971年発売のN360後継モデル「ライフ」以降、量販4輪車のエンジンについて水冷方式に転換して行く。(いわゆる「まろやか路線」)

「N500」も計画されたが、排気量の拡大は400ccにとどめられた。N600ではクランクケース、トランスミッション等が専用に開発された。

[ 2009/04/05 12:41 ] HONDA | TB(0) | CM(0)

007 Your Eyes Only 5'48"

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Bond_driving_Citro_n_2CV__in_For_Your_Eyes_Only
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シトロエン2CV (Citroën 2CV) は、フランスのシトロエン社が1948年に発表した、前輪駆動方式の乗用車である。きわめて独創的かつ合理的な設計の小型大衆車で、自動車の歴史に残る名車の一つと言われている。

「2CV」とは「2馬力」を意味し、フランスにおける自動車課税基準である「課税出力」のカテゴリーのうち「2CV」に相当することに由来するが、実際のエンジン出力が2馬力であったわけではない。後年の改良によるパワーアップで税制上3CV相当にまで上がったが、車名は2CVのままだった。フランス本国では「ドゥシヴォ」(「ドゥー・シュヴォー」、deux chevaux)と呼ばれる。

ユニークな着想を数多く盛り込んだ簡潔軽量な構造により、非力ではあったが、優れた走行性能と居住性、経済性を同時に成立させた。第二次世界大戦後のフランスにおけるモータリゼーションの主力を担い「国民車」として普及、さらにヨーロッパ各国で広く用いられた。

その無類にユーモラスなスタイルと相まって世界的に親しまれ、自動車という概念すら超越して、フランスという国とその文化を象徴するアイコンの一つにまでなった。

1948年から1990年までの42年間大きなモデルチェンジのないままに、387万2,583台の2CVが製造された(フランスでは1987年に生産終了、以降はポルトガルでの生産)ほか、並行して基本構造を踏襲した派生モデル数車種が合計124万6,306台製造された。単一モデルとしては、世界屈指のベストセラー車・ロングセラー車である。

開発以前
シトロエン社の自動車生産開始は第一次世界大戦後の1919年で、フランスでは後発メーカーであった。だが、アメリカのフォードに倣った大量生産システムの導入で中~小型の高品質な自動車を廉価に供給し、わずか数年間でフランス最大の自動車メーカーに急成長した。

この間、1921年に3人乗りの超小型乗用車「5CV」を開発したが、当時のベストセラー車となったにも関わらず、1926年に生産中止されてしまった。社主アンドレ・シトロエンがより大型のモデルに経営方針をシフトしたためである。この経営判断は競合メーカーのプジョーやルノーに小型車クラスの市場を奪われる結果となり、シトロエン社の経営基盤確立は遠のいた。

シトロエン社はヨーロッパでも早い時期から鋼鉄製ボディや油圧ブレーキを導入するなど先端技術の採用に熱心であった。

1933年には新たに斬新なニューモデルの開発に乗り出し、翌1934年、同社最初の前輪駆動モデル「7CV」(いわゆる「シトロエン・トラクシオン・アバン」の最初のモデル)を発表したが、同年、この前輪駆動車開発に伴う膨大な設備投資によってついに経営破綻する。これに伴いアンドレ・シトロエンは経営者の地位を退き、代わってフランス最大のタイヤメーカー、ミシュランが経営に参画することになった。

この際、ミシュラン社から派遣されてシトロエン副社長職に就任したのが、元建築技術者であったピエール・ブーランジェ(Pierre Jules Boulanger 1885-1950)であった。彼はミシュラン一族からシトロエン社長に就任したピエール・ミシュランと共にシトロエン社の経営立て直しに奔走し、1937年のピエール・ミシュランの事故死に伴って社長に就任、1950年の死去までその地位に在った。

開発のきっかけ
1935年夏、ピエール・ブーランジェは別荘でのバカンスのため、南フランスのクレルモン=フェランの郊外へ赴いた(クレルモン=フェランはミシュラン社の本社工場所在地である)。

彼はそこで、農民たちが手押し車や牛馬の引く荷車に輸送を頼っている実態に気付いた。当時のフランスの農村は近代化が遅れ、日常の移動手段は19世紀以前と何ら変わらない状態だったのである。

ブーランジェは、シトロエン社のラインナップに小型大衆車が欠落していることを認識していた。そこで、農民の交通手段に供しうる廉価な車を作れば、新たな市場を開拓でき、シトロエンが手薄だった小型車分野再進出のチャンスともなる、という着想を得た。

ブーランジェは周到な市場調査によって、この種の小型車に対するニーズの高さをつかみ、将来性を確信した。そして1936年、アンドレ・ルフェーヴル(André Lefèbvre 1894-1964)らシトロエン社技術陣に対し、農民向けの小型自動車開発を命令する。この自動車は「Toute Petite Voiture(超小型車)」を略した「TPV」の略称で呼ばれた。

TPV、のちの「2CV」開発責任者となったルフェーヴル技師は、元航空技術者であった。航空機開発技術を学んで第一次大戦中に航空機メーカーのヴォアザン社に入社、芸術家肌の社主ガブリエル・ヴォアザンに師事して軍用機の設計を行った。 戦後ヴォアザンが高級車メーカーに業種転換すると自動車設計に転じ、高性能車の開発に携わっている。

そしてのちヴォアザンの業績悪化に伴い退社、ルノーを経て1933年にシトロエン入りし、「シトロエン・トラクシオン・アバン」の開発を発案して短期間のうちに完成させていた。

彼は天才型の優秀な技術者であり、第二次世界大戦後には「2CV」に続いて未来的な設計の傑作乗用車「シトロエン・DS」の開発にも携わっている。

「こうもり傘に4つの車輪」
ブーランジェの提示した農民車のテーマは、「こうもり傘に4つの車輪を付ける」という、簡潔さの極致を示唆するものであった。価格はアッパーミドルクラスであるトラクシオン・アバンの1/3以下、かつ自動車を初めて所有する人々でも容易に運転できることが求められた。

しかし、自ら自動車を運転もするブーランジェによって具体的に示された条件は、技術陣をして「不可能だ!」とまで言わしめた難題だった。それは以下のようなものであった。

* 50kgのジャガイモ又は樽を載せて走れること
* 60km/hで走行できること
* ガソリン3リッターで100km以上走れること
* 荒れた農道を走破できるだけでなく、カゴ一杯の生卵を載せて荒れた農道を走行しても、1つの卵も割ることなく走れるほど快適で乗り心地がよいこと
* 価格はトラクション・アバンの1/3以下
* 車両重量300kg以下
* もし必要とあれば、(自動車に詳しくない初心者の)主婦でも簡単に運転できること
* スタイルは重要ではない

悪路踏破力、乗り心地、経済性のいずれにおいても厳しい条件であるが、それでもブーランジェは実現を厳命した。その後の技術陣の努力によって、実現に至らなかった点もあったものの、無理難題の多くが満たされた。

加えてブーランジェは、最低限に留まらない十二分な車内スペース確保も要求し、身長2m近い大男であるブーランジェ自身が、シルクハットを被っては試作車に乗り込み、帽子が引っかかるようなデザインは書き直しを命じた。この「ハット・テスト」によって、最終的にこのクラスの大衆車としては望外と言ってよいほどゆとりある車内スペースが確保されることになった。

TPV試作車
既に「トラクシオン・アバン」で前輪駆動車の量産化を成功させていたアンドレ・ルフェーヴルは、TPVの駆動方式にも前輪駆動方式を採用した。プロペラシャフトを省略でき(軽量化や振動抑制、低重心化の効果がある)、更に操縦安定性にも優れていたからである。

開発作業はシトロエン社内でも特に機密事項として秘匿され、外部の眼に一切触れることなく進行した。

1939年には、TPVプロジェクトは相当に進行し、試作車が完成しつつあった。それらはアルミニウムを多用して軽量化され、外板には波板を使うことで強度を確保した。簡潔な造形によって、外観は屋根になだらかな曲線を持ったトタンの物置という風体だった。

屋根は幌による巻き取り式のキャンバストップで軽量化と騒音発散を図り、座席には通常の金属スプリングの代わりに、ゴムベルトを用いたハンモック構造を採用して軽量化した。ヘッドライトはコストダウンと軽量化のため、片側1個だった(当時のフランスの法律ではライト1個でも差し支えなかった。後の生産型では2個ライトになった)。パワーユニットは、トラクシオン・アバンの先進的なOHVエンジンを設計したモーリス・サンチュラの手になる、水冷式エンジンを搭載していた。 サスペンション・アームは軽量化の為に、マグネシウムを使用していた。サスペンション用のスプリングとしては各輪共トーション・バーを3本、過荷重用に1本、合計4X4=16本使用していたが、開発は最終完成には至っていなかったとされる。

第二次世界大戦
第二次世界大戦勃発後の1940年、フランスはナチス・ドイツの侵攻を受けて敗退、パリをはじめフランス全土の北半分は占領地となった。

ジャベル河岸のシトロエン社も占領軍の管理下に置かれたが、経営責任者の座に留まったピエール・ブーランジェは公然とサボタージュを指揮し、占領軍向けのトラック生産を遅滞させたり、時には故意に欠陥車を送り出すなどして損害を与えるよう努めた。このようなレジスタンス活動によりブラックリストに載せられながら、ブーランジェは1944年のフランス解放まで巧みに生き延びた。

この際、開発途上だったTPVをナチスの手に渡さないため、ブーランジェの命令によってTPVプロジェクトの抹消が図られた。1939年の Motor Show の為に準備された( 結局は戦争で実現しなかったが。) 250台の "The first 2CV"(=2CV-Prototype)は 1 台を残して破壊され、また一部は工場などの壁に塗り込められ、あるいは地中に埋められた。これらは1990年代以降最終的に合計 5台が発見されている。(ナチスとブーランジェ、双方の目を逃れて)破壊や埋設を免れた少数は、ボディを改造して小型トラックに偽装された。(前述の台数と重複していると思われるが、後の2000年にミシュラン工場改築の際、レンガの壁を壊したところ中から新たに3台が発見された)。

独自の研究開発が禁じられた困難な状況下ではあったが、ルフェーヴルら技術者たちは、ナチス側の監視をかいくぐって、終戦後に世に送り出されるべきTPVの開発を進行させた。

だがシトロエン社内部での検討によって、コスト過大からTPVにアルミを多用することは困難であるという結論が出された。やむなくTPVの多くのパーツは普通鋼に置き換えられることになった。

1944年の連合軍勝利に伴うフランス解放によってTPVの本格的な開発作業が再開された。

試作車用にモーリス・サンチュラが設計した水冷エンジンは、改良を重ねても不調であった。このため、高級スポーツカーメーカーのタルボ社(Talbot)から1941年に移籍してきた有能なエンジン技術者ワルテル・ベッキア(Walter Becchia)が、新たに信頼性の高い空冷エンジンを開発して問題を解決した。

またボディデザインは、イタリア人の社内デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニ( Flaminio Bertoni 1903-1964 )によって洗練を加えられた。

発表と嘲笑
1948年10月7日、シトロエン2CVはフランス最大のモーターショーであるパリ・サロンにおいて公に発表された。

多数のマスコミ・観客が見守る中、ブーランジェ社長によって紹介され、除幕された「ニューモデル」の2CVは、あまりにも奇妙なスタイルで、観衆をぼう然とさせ、立ち会ったフランス共和国大統領のヴァンサン・オリオールをして困惑せしめたという。しかしながら、この問題はブーランジェのメディアへのショー前公示不足が大きな原因であったとする見解もある。

この時点で、競合するルノーの750ccリアエンジンの大衆車「4CV」や、プジョーの1クラス上の1300cc車「203」が既にデビューしており、それら他社製の戦後型ニューモデルがごく「まとも」な自動車であっただけに、2CVの奇怪さが際だった。

大衆は2CVを見て「醜いアヒルの子」「乳母車」と嘲笑し、居合わせたアメリカ人ジャーナリストは「この『ブリキの缶詰』に缶切りを付けろ」と揶揄した。前衛派詩人で皮肉屋の作家ボリス・ヴィアンは2CVを「回る異状」と評した。

このような情勢から2CVを「エキセントリックな泡沫モデル」と見なす向きも少なくなかった。実際、同時期のフランスでは中小メーカーによって奇想天外な珍設計の超小型車が何種類か送り出されており、それらのほとんどが商業的・技術的に失敗作だったのである。

成功
だがピエール・ブーランジェはこの自動車の成功を確信していた。2CVがその奇矯な外見とは裏腹に、あらゆる面で合理的な裏付けを持って設計され、市場ニーズに合致した自動車であるという自信を持っていたからである。

もっとも彼は2CVの未曾有の成功を完全に見納めないうちに、1950年自ら運転するトラクシオン・アバンの事故で死亡した。

先行量産モデルは「特に2CVを必要としている」と考えられた希望者に優先販売され、日常における実際の使用条件について詳細なモニタリングが行われた。それらはフィードバックされ、技術改良と販売方針の改善に活用された。

2CVが廉価なだけでなく、維持費用も低廉で、扱いやすくて信頼性に富み、高い実用性と汎用性を有していることは、短期間のうちに大衆ユーザーたちに理解された。1949年の生産はスターターの必要性などの問題点があり、同年7月より始まり日産4台: 876 台に留まったが、翌1950年には 6,196 台と、月産400台のペースで量産されるようになり 1951年には生産台数は 14,592 台になった。以後も生産ペースは順調に増加していった。

フランス国民はこの(エキセントリックな)自動車の外見にも早々に慣れ、2CVは数年のうちに広く普及した。街角や田舎道に2CVが止まる姿は、フランスの日常的光景の一つとなった。

更にはヨーロッパ各国にも広範に輸出され、ことにその経済性と悪路踏破能力は各地のユーザーに歓迎された。イギリスなどにおいて現地生産も行われている。

シトロエン社はその後、排気量拡大や内外装のマイナーチェンジなどを重ねて2CVをアップデートしていくと共に、派生モデルを多数開発して小型車分野のラインナップを充実させた。1967年に後継モデルと思われる「ディアーヌ」を発表したが、結果として2CVはそれよりも長生きすることになった。ことに1970年代のオイルショックは、2CVの経済性という特長を際だたせることになった。

また、優れた経済性と走覇能力とを併せ持つ2CVに着目した欧州の若者達は、世界旅行の手段として2CVを選び、北はノルウェー、東にモンゴルを抜けて日本、西にアラスカ、南にアフリカを走り抜けた。更には世界一周旅行に出かけて50カ国、8つの砂漠を走り約10万kmを走覇したコンビもあった。

2CVの派生車
* 1951年 2CV タイプAのセンターピラーから後ろを箱形の荷室にしたユーティリティー(バン)、AU(後のAK)発表。
* 1954年 425ccエンジンのタイプAZのユーティリティー、AZU発表
* 1958年 2基のエンジンを前後に積む4WD車4×4サハラ(Sahara : タイプAW)発表
* 1960年 英国で生産されるFRPボディの2ドアクーペ、ビジュー (Bijou) 発表
* 1961年 小さなDSとしてアミ(AMI 6)発表 * 1967年 2CVの後継車ディアーヌ(DYANE)発表
* 1968年ABS樹脂ボディの多目的車メアリ(MEHARI)発表
* 1973年 途上国向け多目的車FAF発表
* このほか、2CVのシャーシを利用したさまざまなキットカーが制作された。例、Teilhol Tangara、Lomax、Hoffmann Cabrioletなどが日本にも輸入されている。

終焉
だが1980年代に至ると、基本設計が余りにも古くなり過ぎ、衝突安全対策や排気ガス浄化対策などに対応したアップデートが困難になってしまった。それにつれて販売台数も低下、1988年にフランス本国での生産が終了し、ポルトガル工場での生産も1990年に終了した。

40年に渡る長いモデルスパンはビートルこと「フォルクスワーゲン・タイプ1」や初代「Mini」と肩を並べるものであった。

スタイル・機構
全長×全幅×全高は3830×1480×1600mmで、全高を除いては現代の小振りな1000~1300cc級乗用車並みのサイズである(初期は全長3780mm)。

だが重量は極めて軽く、375ccの初期形で495kg、602ccの末期形で590kgに過ぎない。安全対策装備がほとんど備わっていないという実情はあるが、サイズに比して極めて軽量で、その構造が簡潔かつ合理化されている事実を伺うことができる。

ボディ外観
発表時から絶えず悪口や嘲笑の的に、更には無数の冗談の種になった珍無類のスタイルであるが、きわめて合理性に富んだ機能的デザインである。その実用性を最重視しつつも、結果として極めて個性的かつユニークなスタイルとなった外観は現在でもファンが多い。

1960年までは外板の一部(ボンネット等)に強度確保のため波板構造を用いており、ユンカースの輸送機を思わせる機能優先な外見だった(1961年以降は 5本峰の補強外板となった)。

1930年代に原設計された自動車らしく、グラスエリアが狭くフロントフェンダーも独立した古い形態を残している。ボンネットは強度確保のため強い丸みを帯びており、その両脇に外付けされたヘッドライトと相まって、2CV独特の動物的でユーモラスなフロントスタイルを形成している(2CVは静荷重による姿勢変化が大きいため、ヘッドライトは簡単に光軸調節ができる設計)。

フロントグリルは細い横縞状の大型グリルで、ボンネットフードはフェンダーのすぐ上から開く構造だった。1961年にボンネットフードと共にグリルも小型化され荒い横縞となった。何れも寒冷時にエンジンのオーバークールを防ぐため、布またはプラスチックのカバーが用意されていた。

客室部分は4ドアを標準とする。初期のドアは中央のピラーを中心に対称に開き、上に引き抜くことで簡単に取り外すことも出来た。1964年に安全上の理由から前ヒンジとなった。

居住性を重視して円弧状の高い屋根を備え、ガラスは簡素化のため平面ガラスしか使われていない。側面も複雑な曲線は持たず、幅員の有効活用のため1930年代の多くの自動車のようなホイールベース間の外部ステップは持たない(この点、同時代のフォルクスワーゲン・ビートルより進んでいた)。徹底した機能主義的デザインには、同時代の建築家ル・コルビュジェからの影響が指摘されている。

前部窓下にはパネルを開閉するタイプの(原始的だが効率よく通風できる)ベンチレーターを備える。なお、虫や落ち葉等の異物が入ってこない為に金網が開口部に張られている。

側面窓は複雑な巻き上げ機構を省き、中央から水平線方向にヒンジを持つ二つ折れ式である。開け放しておくときは、下半分を外側から上に回転させて引っかけておく。初期のものには方向指示器が無く、ドライバーがこの状態で窓を開け、腕を外に出して手信号で指示することを想定していた。プリミティブの極致である。

リアフェンダーは曲面を持った脱着式で、後輪を半分カバーするスパッツ状である。タイヤ交換の場合、ジャッキアップすれば、スイングアームで吊られた後輪は自然に垂下して作業可能な状態になるので、着けたままでも実用上の問題はない。

屋根はキャンバス製が標準で、好天時には後方に巻き取ってオープンにできる。(初期型はトランクの蓋までもが幌製だったが、1957年金属製となった)キャンバストップとしたのは、軽量化やコストダウンの他、空冷エンジンの騒音を車内から発散させる効果も狙ったものである。このため、柱時計や箪笥等の背の高い荷物も屋根を開ければ簡単に運べた。

他にも、中央に1つだったストップランプを標準的な2つに、太いCピラーに窓を付けるなど大小さまざまな改良が加えられたが、基本的な形状は42年間変わらなかった。

車内
大人4人が無理なく乗車できる。排気量に比してスペースは非常なゆとりがある(排気量400cc以下の自動車でこれほどの居住性を実現した例は世にも希である。ただし、車内幅は開発された時代相応に狭い)。

内装はごく簡素であり、計器類やスイッチは「運転に必要な最低限」しか装備されていない。その初期には燃料計すら装備されていなかった(燃料残量はタンク内に計量バーを差し入れて読み取るしかなかった)。ダッシュボード(?)下にはドライバーの膝上の高さで横方向一杯のトレーがあり、小物を置きやすい。

ステアリングは長年パイプを組み合わせた簡素な2本スポーク仕様だったが、1970年代以降にはグレードによってシトロエンの上級クラスと同じく片持ち式の1本スポークモデルもあった。1本スポークなら事故でドライバーがステアリングに叩きつけられても、ステアリングが折れて衝撃をある程度吸収できると見込んだものである。

パイプフレームで骨格を構築されたシートは、ゴムベルトでキャンバスを吊って表皮を張っただけの簡素きわまりない軽量設計であるが、乗客の身体によくなじみ、乗り心地は優秀である。パイプフレームは床面に左右2本の爪よって差し込まれただけであり、後期モデルの前席はスライド機能を持ったシートレールが採用されているが、前席・後席とも脱着は容易で軽いため、出先で取り外して屋外のベンチ代わりに利用することもできる。着座位置は高めで、レッグスペースを稼いでいる。

床面はほとんどフラットである。プロペラシャフトやその他諸々の機器による突起がなく、居住スペース確保に貢献している。

フロントウインドシールドのワイパーの動力は電動ではなかった。前輪を駆動するギアケースから引き出されたスピードメーター駆動用のワイヤーケーブルの途中にウォームギアを仕込み、ワイパーの駆動の動力にも利用したのである。このためスピードメーターは、ワイパーを駆動しやすいステアリングの左上端に置かれた。ワイパーの動作速度は速力に比例し、高速走行時では速すぎ、低速時では遅すぎ、使い勝手はけっして良くはなかった。停車中は作動しなかった(その場合ワイパーのスイッチノブを押し込み、手でノブを廻すことによって、ワイパーを手動で動かすことも可能であった)。のちには電動式ワイパーに改良され、メーターもステアリングコラム上に移った。

ヒーターは、空冷エンジンの冷却風を車内に送り込むものであるが、熱量不足に加え、ファンが装着されていないことから、余り効きは良くない。ガソリン燃焼式の独立ヒーターを装備するケースもあった。生産モデルでは、クーラーは最後まで装備されなかった。 (後付けのクーラーは存在する)

シャーシ
ホイールベースは2,400mmと、小さな排気量の割に長く、前後とも1,260mmのトレッドも1940年代当時の小型車としては広い(このゆとりが性能確保につながっている)。基本構成は、強固なプラットフォームフレームがそのままフロアパネルとなり、前後にサスペンションアームを、また前方にエンジンを初めとするドライブトレーンをオーバーハングさせている。この上に簡素な設計の軽量ボディを架装する。

サスペンションは、フロントがリーディングアーム、リアがトレーリングアームで、前後のサスペンション・アームはそれぞれコイルスプリングに接続され、これらのスプリングは横置きのサスペンション・シリンダー内に収められているが、この横置きシリンダーは「半浮動状態」で初期は左右の「たけのこバネ」により、後にエンジン・パワーの強化によりゴム・ブッシュにより半固定状態はその移動を制限され、最終的には「固定」された。前述した「前後関連懸架」とは、前輪-ロッド- ( コイル- サスペンション・シリンダー: pot de suspension -コイル) -ロッド-後輪 と結ばれており、コイル・スプリングを 2 倍に柔らかく使う、シトロエン社が考案した「軽車両用サスペンション」である。

左右それぞれの前後アームからはロッドが伸び、サイドシル下でスプリングを介して連結されている。この「前後関連懸架」により、前輪が突き上げを受けると前輪側のスプリングが収縮しサスペンション・シリンダーは前方に移動し、後輪ロッドを引き後輪を下げて車体をフラットに保つよう働く仕掛けで、サスペンションの柔軟性と路面追従性を大きく高めた。悪路への強さの秘密がここにある。この前後関連式ばねはまた、旋回時に車体ロールを抑制する。旋回外輪では、ばねが前後輪両方のバウンドに逆らう方向に働き、ローリング角度を減少させる。もっとも、この前後関連ばねのレート自体は圧倒的に低く、またリーディング/トレーリングのサスペンション・リンケージはロールセンタを極端に低く保つ為、本質的に旋回時のロールが極端に大きく、しばしば横転しそうに見える。しかし実際には車体重心高はそれほど高くなく、また上述した様にロールセンタが低くジャッキング・アップ・フォースを殆ど発生させないので、横転までの限界は想像以上に高く、操縦安定性に優れている(低出力ゆえ、シャーシ性能には余裕がある)。またこの構造ゆえ、荷重が大きければ大きいほど実質的なホイールベースが伸び、安定性を確保する方向に働くようになっている。

ユニークなのはダンパーで、登場時から各輪2種類の減衰装置を持っていた。

ばね上(車体)の振動の減衰はリーディング/トレーリング・リンクの車体側ピックアップポイントのフリクションにより得ている。このフリクション式はサスペンションのバウンド側にもリバウンド側にも同様の減衰力が作用することになり、一般的にバウンド側よりリバウンド側の減衰力を高めなければならない自動車のサスペンションでは不都合が生じるが、当時既にモーターサイクルでは同様のフリクション式減衰器が一定の成功を示していたので、2CVの設計年次を考慮すると採用は妥当である。

2CVのユニークな点は、ばね下(空気入りタイヤをばね、リンク類やハブ、ナックルなどをマスとするばねマス系)の減衰に、各輪のサスペンションアームに取り付けられた筒型ケース内に組込まれたコイルスプリング上端に錘を固定して、コイルスプリングと錘で決められる固有振動数で車体の振動を打ち消す「慣性ダンパー」(動吸振器)を用いた点である。このばね下制振装置は、他にはブリヂストンが近年イン・ホイール・モータ式電気自動車向けに研究している例があるだけで、非常にユニークな設計思想である。

ダンパーを各輪で2種類ずつ持つというのは一見無駄な様だが、通常、ばね上の共振周波数は1.2~1.5Hz、一方ばね下の共振周波数は 10~13Hz付近にあり、それぞれの振動減衰の為に個別の減衰器を用いる手法は、振動工学的には正当な手段と言える。しかし実際には、機械的なフリクションに頼ったリーディング / トレーリング・リンクの減衰装置は減衰力を安定して発生させることが困難であり、またばね下の動吸振器は寸法や重量の問題から設計が難しく、必ずしも効果的とは言い難い。後にテレスコピック油圧ダンパが後輪側に採用されたが、これらの2CVに特有な減衰器は1970年代まで使用し続けられた。これらの組み合わせは、エンジン出力により決定されている。

タイヤはミシュラン製が標準である。1950年代の125/400mm(16インチ相当)~125/15クラスのタイヤは、バルーンタイヤの登場した後の時代にも関わらず非常に細いが、径が大きくまた接地面が縦長で小さいことで、転がり抵抗を押さえ、パワーロスを減らしつつ、必要十分なグリップ力は確保できるというメリットがある。ミシュランは1948年、世界初のラジアルタイヤ「ミシュランX」を市場に送り出したが、ほどなくこの2CV用サイズのタイヤにもラジアルタイヤが用意された。現在の日本国内においては、ミシュランX- 125R15の取扱いはあるが、在庫不足の為入手は非常に難しい。代わりのタイヤとして、ミシュランZX-135R15や、一部の業者が扱うファイアストンF560-125R15や台湾メーカーのタイヤが装着される事も多い。

ブレーキはシトロエンの標準で当初から油圧だが、フロントはインボードブレーキで、長期に渡って前後ともドラムブレーキであったが、末期型はフロントがインボードのままディスクブレーキとなった。

前輪駆動車でネックとなる技術の一つは、前輪を駆動するためのドライブシャフト・ジョイントである。2CVが設計された時代には、自動車用の等速ジョイントは未だ量産されておらず、トラクシオン・アバンではダブル・カルダン型のジョイントが使用されていた。ダブル・カルダン・ジョイントは広義では等速ジョイントであるが、商用貨物仕様であるフルゴネットおよび派生モデルのアミ6の一部モデルにダブル・カルダン型のジョイントが使用されたものの、2CVではダブル・カルダン型のジョイントは使用されず、シングル・カルダン型ジョイントが使用された。のちのモデルでは等速ジョイントを装備している。

エンジンの構成
空冷水平対向式2気筒OHVのガソリンエンジンを、車体前端にオーバーハングして搭載された。一見農業用発動機のように簡素で騒々しい代物ながら、その実きわめて高度な内容を備える緻密な設計であり、主要部分はガスケットなしで組み立てられている。この点だけをみても普通のエンジンではない。設計者のワルテル・ベッキアは、前職のタルボ社在籍時には高性能車用のハイスペックエンジンを設計していた人物である。

空冷式としたのは、1930年代~1940年代の水冷エンジンにおいて冷却系統の不調がしばしばエンジントラブルの原因となっていたためである。更に軽量化、簡略化の効果も狙った。空冷方式の採用に限らず、このエンジンからはトラブルの原因となる要素は努めて排除され、基本的に故障しにくい構造になっている。

気筒数は快適さを損なう手前の極力まで減らされた2気筒で、BMWなどのオートバイエンジンなどを参考にし、コンパクトで一次振動の心配のない水平対向式を採用した。材質は1940年代としては先進的なアルミ合金を用いて軽量化、燃焼室は高効率な半球式で、バルブのレイアウトは吸排気効率の良いクロスフロー型とした(半球型燃焼室とクロスフロー型弁配置は、当時、レーシングカーに採用される技術であった)。エンジン前方に大きなファンを直結し、エンジン全体を冷却する。なおかつエンジン直前に置かれたオイルクーラーも同時に冷却される設計である。

通常のレシプロエンジンでは、ピストンからの動力をクランクシャフトに伝えるコンロッドは2ピースの分割式として、ボルト留めでクランクシャフトに脱着するようになっている。

ところが2CV用エンジンでは、コンロッドはクランク穴の空いた一体式として、工場で窒素冷却した組み立て式クランクシャフトを圧入してしまうやり方を取った。これで強度と工作精度を高めようという大胆不敵な発想である。クランクシャフトとコンロッドは分離不能となるが、現実にはほとんど分離を要さないので、これでもよいと割り切られた。

点火機構もトラブル排除のため徹底簡素化され、確実な作動と長期のメンテナンスフリーを実現している。クランクスローは180度であるが、点火は1 回転毎の等間隔ではなく、2回転毎に左右シリンダーが同時点火される。構造は非常に単純になるが、エンジンのトルク確保の面ではやや不利である(2CVエンジンのフライホイールが大きいのは、この同時点火に対する回転円滑化の一策である)。

エンジンスペック
この2気筒エンジンは非力ながら頑丈で、スロットル全開の連続走行にもよく耐えた。未開地でのエンジンオイル切れのため、やむなくバナナから採った油をオイル代わりに使ったケースがあるが、それでもトラブル無く走れたという。

試作中は、電動セルフスターターを搭載せず、運転席から農業用発動機同様にワイヤーを手で引いてスタートさせる構造であった。これも簡素化を旨としたピエール・ブーランジェの命令による仕様である。

ところが、試作車をワイヤー始動させようとした女性秘書が爪を割ってしまい、これに懲りたブーランジェは即刻セルモーター搭載を命令した。従って生産型の2CVは全車セルフスターター装備である。もちろんタイヤレンチを兼ねた手動クランキングレバーによるエンジン始動も最終型まで可能であった。これは、バッテリーの消耗した状態や寒冷地での始動に非常に役立った。

* 1948年当初はボア×ストロークが62mmのスクエアで、375cc(9HP/3,500rpm)の極少出力に過ぎなかった(それでも最初の2CVは最高55km/hに到達した)。

* 1955年以降ボアを66mmに広げて排気量425ccに拡大され、出力は12HP/3,500rpmとなった。最高速度75km/h。更に1963年には圧縮比を上げて16.5HP/4,200rpm、最高速度90km/hとなる。

* 1968年 「AMI」など上級モデル搭載の602cc(ボア×ストロークは74×70mm)を移入、28HP、最高110km/hに強化される。税法上は3CV級となるが、車名は2CVのままであった(「2CV 6」と称した)。小排気量型もしばらく「2CV 4」の名称で生産され、こちらは435ccで21HPを発生した。

* 1970年 602ccに強力型設定、32HPに。

* 1979年 602ccは29HP/5,750rpmに。燃費を改善。

変速機
4段式シンクロメッシュギアボックス(1速・後進のみノンシンクロ)。このクラスでの4段変速かつシンクロメッシュギア装備は、1948年当時、望外の高度な設計である。

開発中、ピエール・ブーランジェは「農民の妻に複雑な4段トランスミッションは扱いきれない」として3段ミッションとするよう厳命したが、ワルテル・ベッキアは超低出力のエンジンパワーを最大限に有効利用するため4段式ミッションを採用した。

「4速はあくまでもオーバードライブギアである」というベッキアの主張で、ブーランジェはしぶしぶ納得したという。この「言い訳」のためか、初期形2CVの4速ギアは「4」ではなく、高速を意味する「S」と表記された。

トランスミッションが運転席よりかなり前方に配置されているため、ギアボックス真上にロッドを立ち上げて、ダッシュボード中央から突出したシフトレバーに連結した。トラクシオン・アバン同様の手法で、至って簡潔かつ作動確実な構造であった。フロアシフト、コラムシフトのいずれでもない変わった形態である。

シフト操作も独特で、ニュートラルからレバーを左に倒し前に押すと後進、そのまま手前に引くと1速、ニュートラルでレバーを起こし前方に押すと2速、そのまま手前に引くと3速、ニュートラルでレバーを右に倒し押すと4速である。

のちには遠心式自動クラッチを装備したモデルも出現しているが、自動変速機は導入されなかった。

# ボンドカーとしてロータス・エスプリターボが使用されたが、本格的なカーチェイスを行うのは、シトロエン・2CVである。本作に登場する2CVは、撮影用に、本来の水平対向2気筒エンジンの代わりに上位車種のGS用の水平対向4気筒エンジンを搭載している。 * ロータス・エスプリ・ターボの一台目は、「盗難防止装置」のため、ガラスを割られただけで自爆してしまう。

* 二台目は当初Qの研究室に置かれており、後の場面でボンドが同乗したフェラーラにボタンをさわらないよう注意することからも、何らかの特殊機能は備えていたものと思われるが、活躍はせずに終わる。

[ 2009/04/06 13:05 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

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カウンタック(Countach)はイタリアの自動車メーカー、ランボルギーニ社が製造していた自動車である。

いわゆるスーパーカーに分類される自動車である。車名に用いられているCountachはピエモンテ州の方言で、クンタッシッという「驚き」を表す感動詞である。1971年に発表されたマルチェロ・ガンディーニによる近未来的なウェッジシェイプを体現したデザインは、文字通り世界中に驚きを与えた(当時はランチア・ストラトスのショーカーなど似たようなアプローチの車種がいくつか登場している)。販売車種では、特殊なエアインテーク機構やターボ無しで400馬力をも超えるV型 12気筒5000cc前後のモンスターエンジンを搭載していた。コンセプト、デザイン、システム全ての点において異彩を放ち、1970年代後半から 1980年代の日本におけるスーパーカーブームの火付け役となり、スーパーカーを代表する車種であった。現在でも高い人気を誇っている。

なお、日本で定着している「カウンタック」は日本国内でのみ通じる呼称であり、「クゥンタッチ(クンタッチ)」が原語にもっとも近いとされる発音である。

スーパーカーブーム時には「最高時速300km/h」という公称値が話題となり、これが人気の一端を担っていたが、実際には当時のLP400の最高速は300km/hまで届いてはいなかった(最終モデルである25thアニバーサリーでも295km/h)。また、低く設計されたデザインとは裏腹に、そのボディは空力的に問題が多い。例えば、V12エンジンを冷却するための巨大なエアスクープの問題が挙げられる。ここから導入された気流によって、後輪のトラクションが低下し、高速走行時の直進安定性が大幅に悪化してしまう。この対策として、LP400以降のモデルにはエアロパーツやリアウイング(オプション)が装備されるようになったが、このリアウイングによるリアのダウンフォースの強さのあまり高速走行時にはフロントの接地感が薄れるという欠点もあり、それを補う為のフロントウイングまでもが登場すると言う顛末であった。

開発の経緯
カウンタックは、ミウラを凌駕する次世代のミッドシップ・スーパースポーツカーとしてパオロ・スタンツァーニを中心に開発された。ミウラは横置きミッドシップのV型12気筒エンジンを導入して大成功を収めたが、極端に後寄りの重量配分に起因する高速走行時の不安定性、複雑なミッション系に起因するシフトフィールの悪さなど、横置きエンジン固有の欠点が課題として残された。

とはいえ巨大なV12エンジンを縦置きにすると、理想的な重量配分は得られるものの、ホイールベースが長くなるために旋回性能が低下してしまう。スタンツァーニはこの問題を解決すべく、革新的なアイデアを導入した。エンジンを縦置きとするものの、エンジンの前方にギアボックスを置くという、通常とは前後を反転した配置を採用したのである。エンジンから前方のギアボックスに駆動力が伝達され、更にそこから折り返されたシャフトはオイルサンプを貫通し、後輪のデファレンシャルギアに伝達される。これにより縦置きエンジンにも関わらず、ミウラよりさらに短い2450mmというホイールベースを確保した。また、コクピット下にギアボックスがあるため、ワイヤーを介さずギアボックスに直接シフトレバーを取り付けることが可能となり、良好なシフトフィールも実現した。車体はセミモノコック、サスペンションは、前後ともダブル・ウィッシュボーン式とした。これにマルチェロ・ガンディーニのデザインによるボディを組み合わせ、カウンタックLP500は誕生した。初登場は1971年のジュネーブショー。革新的なデザインは大反響を呼んだ。しかしながらエンジンの冷却効率が悪く、オーバーヒートが頻発するという問題が露呈したため、量産化には至らなかった。

LP500の改良は難航した。ランボルギーニ社が経営危機に陥ったこともあり、市販モデルのLP400が登場したのは3年後の1974年である。1971年発表の黄色いLP500はクラッシュテストの後に廃棄され現存しないものの、このモデルと市販のLP400の間に別のプロトタイプが存在し、緑色の1台はランボルギーニ博物館に展示されている。LPとはLongitudinale Posteriore(ミッドシップ縦置き)、「500」、「400」は10倍でそれぞれの排気量を示す。 LP400では、ヒート対策のためボディに多数のエアインテーク、アウトレットが設けられた。LP500のエンジンは5リッターであったが、より扱いやすい4Lに換装された。また、車体構造はテストドライブの際に剛性不足と判断されたため、セミモノコックからバードケージ(鳥かご)フレームにアルミボディを載せるデザインに変更された。これにより、剛性の向上と軽量化を同時に果たしている。マルチェロ・ガンディーニのオリジナルデザインに一番近い生産型であるLP400は、わずか150台しか生産されなかった。

LP400の改造車として有名なのがウォルターウルフ・カウンタック(初代)である。カナダの石油王でF1チームのオーナでもあったウォルター・ウルフは、購入したLP400の性能向上を図るため、エンジンをプロトタイプのLP500のものに換装し、最高出力447psを得た。さらに、タイヤを極太のピレリP7とし、これを収めるためにオーバーフェンダーを装着するとともに、リアウィングも装着した。

1978年には、ウォルターウルフ・カウンタックを基にした改良型のLP400Sが登場し、1982年には5リッターの市販車種であるLP500Sが登場した。1985年には、フェラーリ・テスタロッサに対抗すべく、5000クアトロバルボーレ(5000QV)が登場した。V12エンジンを4バルブ化、排気量を5200ccまで拡大し、最高出力455psをマークした。この値はテスタロッサより75ps上回るものであった。1988年にはランボルギーニ社創立25周年記念モデルである25thアニバーサリーを発売。リアバンパーの装着や細部の形状変更などの外観上の変更はなされたが、大幅な改良はされなかった。25thアニバーサリーは、カウンタックの各モデルの中で最大となる657台を生産した。本モデルがカウンタックの最終モデルとなり、1990年に生産を終了。後継車種のディアブロにフラッグシップモデルの座を譲り渡した。

最後にラインオフしたカウンタックは、当初デザイナーのガンディーニに寄贈される予定だったが、氏は「過去の(自分の)作品には興味がない」との理由でこれを辞退した。 シルバーのアニバーサリー、シャシーナンバーZA9C005AOKLA12085は現在ランボルギーニ・ミュージアムに展示されている。

キャノンボール (映画)
『キャノンボール』(英題:The Cannonball Run, 中題:炮彈飛車)は、1981年に公開された米20世紀フォックスと香港ゴールデン・ハーベストの合作によるカーアクション映画。

北アメリカ大陸を市販車でどれだけ速く横断できるかを競う非合法レース(en:Cannonball Baker Sea-To-Shining-Sea Memorial Trophy Dash)をモチーフにしている。この映画を製作するために監督のハル・ニーダム、および本作の脚本を書いた自動車ジャーナリストのブロック・イェーツ(en:Brock Yates)自らこの大陸横断レースに参戦した。

オールスターキャストで、至る所にスターたちの見せ場がある。アメリカ東海岸のコネチカット州ダリーンから西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルス郊外にあるレドンドビーチ(en:Redondo Beach, California)までの至る所で待ち構える警察の取り締まりをどうやって突破するか、各エントラント(参加者)の作戦も見どころである。

米国映画業協会のMPAAレートではPG(パレンタルガイダンス:子供の視聴は保護者同伴)に設定されている。

キャストと車
救急車コンビ(ダッジ・トレードマン改)
* J.J.マクルーア:バート・レイノルズ
* ビクター・プリンズム:ドム・デルイーズ
* ニコラス・ヴァン・ヘルシング(ドクター):ジャック・イーラム
J.J.は自動車レーサー、相棒のビクターはメカニック。モーターボートで事故を起こし、救急車で搬送されたことで、自らのチームを救急隊に仕立てることを思いつく。このシナリオは1979年にニーダム&イェーツがキャノンボールに参戦したときに実施したものだった。レース前には飛行中にビールが飲みたくなってセスナ機で町中に降り立つシーンもある。(但し飛行中の飲酒は禁則)
劇中に登場する「キャプテン・カオス」(日本語吹き替えでは「キャプテン・ケイオス」と発音)はビクターが変身したものである。
レース出走直前にビクターがスカウトしたドクターは肛門科の教授。

牧師コンビ(フェラーリ・308GTS)
* モーリス・フェンダーバーム:サミー・デイヴィスJr.
* ジェイミー・ブレイク:ディーン・マーティン
J.J.の対抗。ブレイクは元F1ドライバー。神の加護で勝利を手にすべくメソジストのニセ牧師になる。

007(アストンマーチン・DB5)
* シーモア・ゴールドファーブ・ジュニア:ロジャー・ムーア
劇中でも芸名をロジャー・ムーアと名乗り、レースではボンドカーの特殊装備を活用するシーンが見られる。

日本人コンビ(スバル・レオーネ)
* ジャッキー・チェン
* Mr.BOO!:マイケル・ホイ
赤外線ゴーグルやロケットエンジン、カーナビゲーションなどを搭載したハイテクマシンでエントリー。ジャッキーが自動車レーサー、Mr.BOO!がコ・ドライバーとシステムエンジニアという設定で、ハイテクマシン同士という点ではボンドカーの対抗。ナンバープレートも日本形式だったが実際には存在しない「東京」ナンバーだった。

ファラフェル王家(ロールス・ロイス・シルバーシャドウ)
* シーク:ジェイミー・ファー
「世界最速の王家」の名誉をかけて参戦。最高出力非公表のロールス・ロイスを220km/hで走らせる。

ランボルギーニ・カウンタック
* ジル・リバーズ:タラ・バックマン
* マーシー・サッチャー:エイドリエン・バーボー
レーシングスーツをまとったセクシー美女コンビ。男性警官に「お色気作戦」で無罪放免にしてもらう作戦。オープニングではネバダ州南部でパトカーとのカーチェイスが繰り広げられる。

NASCARストックカーレプリカ(シボレー・モンテカルロ)
* メル・ティリス
* テリー・ブラッドショー
1979年のドニー・アリソンのマシンを模して日焼けローション「ハワイアントロピック」(en:Hawaiian Tropic)のロゴが車体に大書されていたが、警察の追跡から逃れようとしてホテルのプールに水没させてしまい、レースでは銀一色に改めて出走した。 ハーレーダビッドソン

* ブラッドフォード・コンプトン:バート・コンヴィー
* シェーキー・フィンチ:ウォーレン・ベルリナー
会社重役と旧友のコンビ。飛行機からバイクでスカイダイビングするのはこの人。レースではシェーキーが変装して後ろに乗るが、シェーキーが肥満のためウィリー走行が長距離で続く。 GMCピックアップトラック

* マッドドッグ:リック・アヴィルス
* バットマン:アルフィー・ワイズ
ホテルの駐車場に車を止めるつもりがブレーキの故障で建物に突っ込み、レースではスタート直後近道しようと森の中へ突っ込む。踏切で貨物列車を飛び越えて横断するシーンやウォーターゲート事件に関して弁解するリチャード・ニクソン元大統領のモノマネもある。

安全推進委員会
* アーサー・フォイト:ジョージ・ファース
* パメラ・グローバー:ファラ・フォーセット

制限速度を超過して走るキャノンボールを阻止し、参加者を交通違反で処罰させようと躍起になる。 レースには不参加
* イージーライダー:ピーター・フォンダ
アクシデントで足止めされているキャノンボーラー達に絡む。ジャッキーとの格闘シーンも。

* オーガナイザー:ブロック・イェーツ
キャノンボールの主催者。ホテルでの開会式に登場。

* 救急隊員:ハル・ニーダム
モーターボートで事故を起こしたJ.J.とビクターを乗せた救急車に添乗。

[ 2009/04/07 13:37 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

The Gumball Rally 1976 Trailer 2'24"

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邦題:激走!5000キロ
ニューヨークからロスへの公道レースの手に汗握るスピード・カーアクション作品。製作・監督はスタントマン上りのチャック・ベイル、ベイルの原案に基づき、脚本はレオン・カペタノス、音楽はドミニク・フロンティアが各々担当。出演はマイケル・サラザン、スーザン・フラネリー、ラウル・ジュリアなど。日本語版監修は高瀬鎮夫。テクニカラー、シネスコ。1976年作品。

ニューヨークの若い会社重役バノン(マイケル・サラザン)は毎日会議の連続でうんざり。そろそろやるか、とばかり会議を打ち切り、親友スティーヴに電話した。『ガムボール!』。レース開始の合言葉で、年に1度大陸横断レースだ。たちまちカーキチは集まり、バノンはレース・プランを説明。このレースは法律を度外視、警察のあらゆる難関を突破するのが第1条件、その法律の封鎖網の役割にロスコー警部が選ばれた。翌日、出発の合図と共に法律違反ノンストップ・レースが開始される。運よく成功すれば、約30時間後にはカリフォルニア州ロングビーチのクイーンメリーにゴールインするのだが。参加者の顔ぶれはアリス(スーザン・フラネリー)とジェーン姉妹、フランコ(ラウル・ジュリア)とスティーヴ等。これらのレーサー達は、ただ巨大なガムボール・マシンを獲得する為だけに、法律を無視し突っ走る。車輪がまわるたびの一触即発。一方、ロスコーが逮捕の機会を狙っている。悪天候にもめげず、レーサー達は西へ西へと轟音を響かせていくが、果して最後の栄光は誰に。(ワーナーブラザース配給1時間48分)

[ 2009/04/08 23:38 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Gone In 60 Seconds Trailer 1'21"

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バニシング in 60 (Gone in 60 Seconds)は、1974年に公開されたアメリカ合衆国のカーアクション映画である。H・B・ハリッキー製作、監督、脚本、主演。どんな車でも60秒で盗む(原題)という車の窃盗団を題材にしている。 ちなみに「ばにしんぐ・いん・ろくじゅう」が正しい読み方。現在はリメイク版(後述)にならって「ばにしんぐ・いん・しくすてぃ・せかんず」と読まれることが多い。

原題の「Gone in 60 Seconds」は「60秒有ればあなたの車は走り去っている」つまり盗まれていると云う意味。カーチェイスの派手さを誇示するように、当時のキャッチコピーは「“ぶっ壊した車93台”」であった。

主人公・ペースは元カーレーサーで、今は交通事故や車両窃盗を取り扱っている保健会社の属託調査員であるがそれは表の顔。本業は依頼を受けて目的の車を非合法に入手 つまり窃盗によって取りそろえる窃盗団のボス。

ある日某国のディーラーから高価で希少な車の手配を頼まれる。その依頼を着々とこなしていたが、ある時ルールをめぐって諍いのあった仲間の裏切りにあい、警察が追われる羽目になる。ペースは最後の一台・黄色いマスタング『エレノア』を駆ってロス全土を舞台に一大カーチェイスを展開する。

* 上映時間の半分を割いた約40分にわたる前代未聞のカーチェイスは語りぐさとなっている。製作から30年以上を経ても、このロングカーチェイスの記録は破られていない。

* 作品中のテロップでは主役は “ELEANOR(エレナ エレノア又はエレナーとの記載もあり)” とだけ記されている。これは主役はあくまで「車」なのだ、というハリッキーのメッセージである。

* カーチェイスは、ロケーションも含めて、ドキュメンタリータッチで撮影されており、主人公の車が通過後の被害処理にあたる警察やヤジ馬などの描写など、独特の雰囲気をもっている。

* ペースの車が鉄柱に激突するシーンが出てくるが、これは、アクシデントによる実際の事故ショット。ハリッキーは負傷しながらも、カメラマンに「おい、ちゃんと撮ったか?」と聞いたというエピソードは有名。

続編
監督第2作『ジャンクマン』ののち、冒頭のカーアクションシーンや未使用カットなどを使用した『バニシングin60 デッドライン』(原題:デッドラインオートシフト)」を製作。日本国内では未公開だがも『デッドライン』としビデオ販売された。内容としては、本編冒頭に『ジャンクマン』の冒頭カーチェイスシーンを付け加え、追跡する警察側のシーンを増やした他はストーリーラインもほぼ『バニシングin60』そのものである。

ちなみに『ジャンクマン』は、『バニシングin60』(とおぼしき作品)を撮影した監督がトラブルに巻き込まれる、という内容となっている。もちろん、創作ではあるものの、ハリッキー自身のオフィス、カーコレクション、プライベートショットが満載の半自伝的内容となっている。

正式の続編『バニシングin60 PART2』撮影中、スタントでの事故によりハリッキー本人が不慮の死をとげてしまい、作品自体は未完となってしまった。フィルムの一部は公式サイト上で見られる他、現在でもDVDで観られる。(日本でも2008,11、DVDーBOXとして発売される)

『新バニシングin60 スピードトラップ』という邦題の作品がある(ビデオ化もあり)が、日本の配給会社がヒットに便乗してつけたタイトルで、 続編ではなく,ストーリー、製作スタッフに関連性はまったくない。

リメイク
2000年にニコラス・ケイジ主演で『60セカンズ』としてリメイクされた。 両作の顕著な相違点は後者には暴力的な銃器犯罪が色濃く絡むのに対して、前者にそのカラーは殆ど存在しない。また『60セカンズ』ではアクションシーンに一部CGが使われている。短期間で大量の車を盗む窃盗団、盗んだ車で包囲網を突破することこれ以外、ストーリーは全く別物。期待と不安半分だった「バニシング」ファンの失望と批判を呼んだ。

『クエンティン・タランティーノ監督作品『デス・プルーフでは、黄色いムスタングや、劇中登場人物のセリフに、リメイク版ではなくオリジナルを支持する内容のものがでてくるなど、本作へのリスペクトが見られる。

ソフト
「60セカンズ」公開に合わせて、ビデオ、DVDが発売されたが、著作権の関係から音楽を全面的に差し替え、エンディングをカット(代わりにハリッキー夫人が劇中で使用されたマスタングを運転するメモリアルシーンを挿入)した、ファンからすれば改悪版ともいえる内容となっている。 ちなみに日本でもハリッキー作品が全作DVDとしてリリースされたが、同様にハリッキーファンへのメッセージクレジットの挿入、音楽差し替え版となっている(パッケージ表記はオリジナル版表記に準拠)してあるので要注意)。

[ 2009/04/09 01:01 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Bad Boys 2 - The Chase 10’03”

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『バッドボーイズ2バッド』(バッドボーイズツーバッド、原題:Bad Boys II)は、2003年に公開されたアメリカ映画。映画『バッドボーイズ』(1995年)の続編である。ソニー・ピクチャーズ作品。
日本では、R-15指定(15歳未満の入場禁止)を避けるため、いくつかのシーンをカットして劇場公開された。このためPG-12指定(12歳未満は成人保護者の同伴が適当)となっている。

アメリカのフロリダ州にある都市、マイアミでは麻薬シンジケートによる麻薬の密輸が後を絶たないでいた。マイアミ市警の2人の刑事、マーカスとマイクは麻薬密輸ルート破壊のために麻薬の取引きが行われていると思われるKKKの集会に乗り込むも手掛かりは得られなかった。次に2人は麻薬王が現れるとの通報を受けて出動するがそこでマーカスの妹、シドと鉢合わせする。彼女は連邦麻薬取締局(DEA)の捜査官でしかもマーカスとマイクと同じく麻薬王の接近のためのおとり捜査を行っていた。さらにシンジケートから入手した金を横取りしようとハイチ人ギャング団が襲い掛かり、壮絶なカーチェイスの末、彼らを蹴散らすが多大な犠牲を払う羽目に。だが、2人は麻薬王の正体を掴み、上司から強制捜査の許可を得て犯人検挙に出るが麻薬王に接触していたシドの素性がバレてしまい、彼女は彼にキューバへと拉致されてしまった。2人は国際問題になることを覚悟して彼のアジトへ突入するのだが……。

[ 2009/04/10 00:57 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

バニシングin60デッドライン DEADLINE AUTO SEFT 10'48"

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バニシングin60デッドライン DEADLINE AUTO SEFT

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 保険調査員でありながら裏で自動車泥棒をやっている男が大口の発注を受けて仲間とともに高級車を盗みまくる。最後の一台であるムスタングを盗みだした彼は裏切った仲間の通報で警察に追われる羽目になる。と、物語を辿ってゆくと「バニシングIN60”」とまったく同じだがそれもそのはず、じつはこの映画は「ジャンクマン」の未使用場面を「バニシングIN60”」に加えて再編集したもの。全体の約七割ほどが「バニシングIN60”」そのままで使われている。車好きがこうじて映画製作に乗り出したH・B・ハリッキーだから、編集で切ってしまったカーチェイス場面を捨てることが出来ず再利用を考えた結果出来上がった作品だと思ってまず間違いない。素材となった二作品の画質の違いがもろに出てしまい、決して褒められた代物ではないが監督本人は満足だったろう。H・B・ハリッキー監督の遺作でもある。

[ 2009/04/11 01:09 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Bullit Famous Car Chase 10'36"

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bullit_famous_car_chase
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『ブリット』(BULLITT)は、1968年のアメリカ映画。1968年度アカデミー編集賞受賞。

サンフランシスコ警察の敏腕刑事ブリット(スティーブ・マックイーン)は、野心的な政治家チャーマス(ロバート・ヴォーン)から裁判の重要証言者の護衛を命じられる。その証言者とは、ジョー・ロスというマフィアを裏切った男。ところが、ロスはブリットが目を離した隙に何者かによって射殺されてしまう。チャーマスに叱責されるブリット。しかし、その叱責など意に介することなく、ブリットは黙々と事件の背後に潜む男を追い詰める…。

イギリスの監督ピーター・イェーツのハリウッド第1回作品。マックイーンのクールな演技と、イェーツのシャープな演出が絶妙なコラボレーションを奏でている。

マックイーンが運転する1968年型フォード・マスタングGT390と敵の1968年型ダッジ・チャージャーによるサンフランシスコの急斜面を利用したカー・アクション、クライマックスの空港での追跡劇が印象的。

エピソード
プロデューサー岡田晋吉は「太陽にほえろ!」の製作にあたり、この映画を参考にしたと述べている。(黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年7月、p209)

マックイーンが運転するマスタングGT390とカーチェイスを演じているこの初代チャージャーは、ダッジが当時大人気を博していたフォード・マスタングなどのマッスルカーに対抗するために開発された。当時、ダッジのラインナップに存在したコロネットというセダンのシャーシ(Bプラットフォーム)をベースにV型8気筒エンジンを搭載。グレードは幾つか存在したが最上級のモデルには426Hemiという高性能なレース用エンジンのストリートバージョンを搭載した。このモデルは400馬力を超えるパワーを持ち、停止状態から時速60マイル(約 96km)まで6秒弱で加速するという当時としては強烈なパワーを誇った。翌1967年には排気量440キュービックインチ(=7210cc)のマグナム V8エンジンを搭載するチャージャーR/Tが登場、独特な外装が与えられたモデルだが、今でもチャージャーを特徴付けるものとして人気が高い。また、チャージャーはスーパー・ビーというマッスルカーのベースにもなった。

強力なエンジンを積んだチャージャーはレース関係者の目も留まることとなり、NASCARなどのアメリカンレースでの使用を意識したモデルチェンジがなされるようになる(当時、NASCARは本当の意味でストックカーレースであった)。特に 1969年に登場したチャージャー500はレース指向が強く、これをベースにダッジ・ディトナが(兄弟ブランドのプリマスからもプリマス・スーパーバードとして)発売された。これらがダッジに「レースと市販車の距離が近い」というイメージを付けていく。この初代チャージャーはモデルチェンジを繰り返しながら1978年まで生産された。

一方マックイーンが運転する1968年型フォード・マスタングGT390は、1959年に発売されたフォード車初の小型車で、大ヒットモデルとなっていたフォード・ファルコンをベースとしたスポーティカーとして、1964年にコンバーチブル及びハードトップのラインナップで登場した。バランスのいいスタイリングや巧みなマーケティングで発売当初から高い売れ行きを記録し、アメリカの自動車史に残る大ベストセラーとなった。

「フルチョイスシステム」と呼ばれる、オートマチック・トランスミッションやビニールレザーシート、ホワイトリボンタイヤなど多彩なオプションの選択肢を用意したことで、幅広い年齢、収入層に受け入れられることとなった。

1965年にファストバックが追加。トップモデルは「GT」で、マスタングのシンボルマークが車体の左右につけられていた。

[ 2009/04/12 03:11 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Gone In 60 Seconds - Eleanor GT500 Car Chase

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60セカンズ(Gone in Sixty Seconds)は、2000年に公開されたアメリカ合衆国のカーアクション映画である。ドミニク・セナ監督。1974年の映画『バニシングin60″』のリメイク。

STORY
超高級車の窃盗のエキスパートだったメンフィスが窃盗の世界から手を引き地元を離れて生活をしていた。ある日、昔の仲間のアトレーがやってくる。彼はメンフィスの弟キップとその仲間たちが、闇の窃盗組織に雇われ高級車を盗む途中で、アジトに隠していた盗難車を警察に押収されてしまい命の危機が迫っていることを伝えに来たのだった。メンフィスは単身地元に戻り、組織のボスであるカリートリーと話をつけようと訪れるが、キップの命と引き換えにメンフィスに後始末を迫る。弟の命を守るため、二度と窃盗をしないという母親との約束を破り、後始末をつけることを決意する。しかしその後始末の内容は、超高級車 50台を時間内(4日後の午前8時まで)にすべて集めろというものだった。

メンフィスはかつての仲間で、修理工場を営んでいるオットーの元を訪ね仲間を集めようとするが、そのほとんどは死んでいたり捕まっていたりで、実際に集まったのは今は足を洗い車の教習官をしているドニーと、解剖医をしているスフィンクスのみだった。そこで、メンフィスはかつての仲間で元恋人のスウェイを誘うが彼女は足を洗ったからと断られてしまう。仕方なく4人で決行しようとしている所に、キップが仲間を連れて自分たちも手伝うと言ってきた。メンフィスは弟が加わる事に難色を示すが、「今回の仕事には4人では時間も人手も足りない」と、オットーに説得されて彼らが仲間になる事を認めた。

一方そのころ、キップたちが盗んだ盗難車の事件を捜査していたキャッスルベック刑事は偶然町でメンフィスを見かけたという警官の話を聞き、メンフィスが事件にかかわっているのではとメンフィスの周りを捜査し始め、押収したメルセデスの線から手掛かりを割り出しはじめる。そしてオットーの工場を訪ねてメンフィス達が集まっていることや、警察無線の暗号などを調べていることを知る。

メンフィス達は一晩で50台盗む事を計画、ターゲットの車それぞれに女の名前を付け、それらを入念に下見し、綿密な作戦をたてた。決行直前スウェイが仲間入りして作戦を開始、順調に車を次々に集めていくが、ターゲットの中の3台のメルセデスを盗む際に警察が張っていることに気づき計画を一旦中止せざるを得なくなってしまう。オットーの工場に集合して皆で試行錯誤しているそんな時、トビーの持っていたメルセデスの鍵から押収されたメルセデスの事を思い出し、彼らはそれを取り返す事を計画。作戦を再開し、それらを見事取り返す事に成功した。その後もいくつかのハプニングを乗り越え、残り2台となったところで、キャデラックを盗みに行ったキップ達はトビーの失態によって警備員に追われ、その際の銃撃でトビーが傷を負ってしまう。アトレーの知り合いの病院に連れて行くこととなり、キップはそれに同行、期限の時間が迫りキップを逃がすことを考えようとするアトレーに対しキップは、「自分は兄のように仲間を見捨てて逃げはしない」と言った。そんなキップにアトレーは、メンフィスが窃盗から足を洗い仲間達を捨てた理由が、このままではメンフィスと同じ車泥棒になってしまうと心配した母親がキップのために足を洗ってくれと頼んだからだと教えた。

その頃メンフィスは、最後の1台であるエレノア(1967 SHELBY Mustang GT500)を盗む。この車はメンフィスのユニコーン(伝説上の動物で、捕まえることができない意味から来ており、いつも何か起き今迄に唯一盗むことができなかった車という意味)であった。盗難車のリストを探し当て、メンフィスのジンクスを知っていたキャッスルベック刑事はこの車が近隣に一台しか登録がない事から、その1台にターゲットを絞り込みそこに向かう。メンフィスがエレノアを持ち去ろうとした所にキャッスルベックが到着し、壮絶なカーチェイスが始まった。1度はうまく撒く事に成功したメンフィスだが、パトカーの姿を見たメンフィスは隠れようとバックしたところ、今まで凄まじいカーチェイスでも傷一つ付ける事のなかったエレノアのミラーを駐車中の車にぶつけて壊してしまい、そのことで不機嫌になったエレノアはエンストを起こしてしまう。そのせいで隠れて避けようとしていたそのパトカーに見つかってしまった。何とかエンジンが動き再びキャッスルベック刑事らの激しい追跡を受けているうちに、事故を起こし渋滞が起きている橋にさしかかる。身動きが取れず立ち往生かと思われたその時、荷台が空であったキャリアカーに向かって発進し、その荷台をジャンプ台に使った荒業で並んでいる車を飛び越して逃亡に成功した。メンフィスはなんとか車をカリートリーの許に届けるも、 12分のオーバーで約束は果たせてないと殺されそうになる。そこに駆けつけたアトレーとキップにより難を逃れ、組織のボスであるカリートリーと対峙するが銃を向けられカリートリーの工場へ逃げ込んだ。メンフィスの逃亡を許してしまったキャッスルベック刑事は唯一の手がかりであるカリートリーのアジトにやってきたが、カリートリーに殺されそうになってしまう。危機一髪のところをメンフィスがキャッスルベック刑事を助け、その拍子にカリートリーは転落して、下にあった自分が作ったメンフィス用の棺桶の上に落ちて死んでしまった。命を助けられたキャッスルベックはメンフィスを逃がし、メンフィスは盗んだ車の所在を教えるのだった。

それから、数日後オットーの工場の庭で皆でバーベキューをしているとキップがメンフィスに今回の礼として受け取ってくれと鍵を渡す。その鍵は、キップが自分のバイクのパーツなどを売った金で購入したボロボロのエレノアの鍵だった。メンフィスとキップは兄弟の絆を取り戻し、スウェイとの関係も再び始まりエレノアに乗り込んで工場を出るが、エレノアはまたしても止まってしまうのだった。

[ 2009/04/13 10:58 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Mad Max Subtitulada 10'46" + 10'11"

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Mad Max first scenes_0001.jpg

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マッドマックス(Mad Max)は、1979年公開のオーストラリアのアクション映画作品である。

スピード感のあるアクションやバイオレンス・シーンによる世界観が話題を呼びシリーズ化された。監督のジョージ・ミラーと主演を務めたメル・ギブソンの出世作品。

劇場公開後、後々まで国内外の多くの物語作品・映像作品に多大な影響を与えた。

時は荒廃した近未来。巷では暴走族による凶悪事件が多発していた。

事件は、暴走族でもあり警官殺しの凶悪犯ナイトライダーが、暴走族専門の特殊警察「M.F.P」(Main Force Patrol)から、追跡専門に改造されたパトカー「インターセプター」を奪って逃走することから始まる。それを「M.F.P」のメンバーたちが乗ったパトカーが追走するが、ナイトライダーはことごとく振り切っていった。「M.F.P」に所属する警官マックス・ロカタンスキーは、無線に入ってきた情報を聞きつけ、おもむろに黄色いインターセプターを発進させていく。そしてマックスはナイトライダーを発見し追いつめるのだが、マックスが操るインターセプターに恐怖を感じたナイトライダーは運転操作を誤り、事故現場に突っこんで即死してしまった。

これによりマックスは、ナイトライダーの復讐を企むトーカッター率いる暴走族に命を狙われる身となってしまう。僚友のジム・グースが彼等に焼き殺された事にショックを受けたマックスは、上司のフィフィ・マカフィーに辞表を出し家族と共に逃亡する。しかし、妻のジェシーと息子スプロッグは逃亡先に現れたトーカッター達に轢き殺されてしまう運命を辿る。

全てを失ったマックスの怒りは、その身を復讐へと駆り立てた。マックスは、車体全体を漆黒に彩り、スーパーチャージャーを搭載して、600馬力にまでチューンナップされた特殊追跡車「V8インターセプター(ブラック・パーシュート・スペシャル)」を無断で持ち出してしまう。トーカッターの一味を怪しく狙う漆黒のインターセプターが600馬力の唸りをあげて、やつらを葬りさっていく。そして、ついにトーカッターとの復讐をかけたチェイスの火蓋が切られた。

エピソード
* 監督のジョージ・ミラーは元々医学生だった為、ケガ人を乗せた救急車に同乗した事があり、バイオレンスシーンの参考になったという。だが、実際に劇中では直接的なバイオレンス描写は殆ど無く、代わりにそれを暗示させる映像効果を挿入することにより効果的にバイオレンスシーンを表現している(例:マックスが焼死したグースを見た瞬間に画面が不気味に揺らめく、等)。

* 主演のオーディションに現れたメル・ギブソンはボロボロの服装だった。前夜に喧嘩をして、そのまま来たという。これをミラーが気に入って主演が決まった。ちなみにメルは当時演劇学校に通う学生だった。

* オーストラリアの俳優はオーストラリア特有の訛りがあるため、劇場公開時にはアメリカ人による吹き替えの英語版に差し替えられた。

* 予算の大半はフォード・ファルコンXB(Ford Falcon)を改造したV8インターセプターを始めとする車輌の改造に費やされたが、それら以外にはあまり費用を掛けられない程の、かなりの低予算映画だった。撮影に使われたロケーションも殆どが既存の建物を使っており、MFPが入っていた司法省のビルは昔の水道局の建物を、「インターセプター」が停めてあった地下駐車場はメルボルン大学のものを使っていたという。それゆえ、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」に抜かれるまでは、制作費と興行収入の差が最も大きい映画としてギネスブックに載っていた。

* スタントマンによるアクション・シーンが最大の見所で、無謀な撮影により2名の死者が出たと噂された。DVDのコメンタリーでも「死者が出た」となっているが、グース役のスティーヴ・ビズレーや元撮影スタッフ等のインタビュー等では否定されている。

* 暴走族のリーダー・トーカッターを演じたヒュー・キース・バーンはキャストが決まった当時バイクの免許を持っていなかったため、撮影時は免許を取得したての初心者の状態で臨んだという。また、映像に出てくる暴走族はセリフのあるキャラやスタントマンを除けばほとんどが本物を使っていたため、現場には不穏な空気が流れていたらしい。当時オーストラリアで社会問題となっていた暴走族を登用する事で、映画の真実味を持たせようとの計略があり、それは成功したと言える。素人を登用する事で、予算を安く仕上げる思惑もあった。

* セリフの無い暴走族には本物を登用したと言われるが、トーカッターの片腕でもあり副リーダーのババ・ザネッティにはセリフがある。しかしセリフといっても数える程であり、演技もお世辞にも上手いとは言えず、その容姿も「悪のオーラが全身から漲っている」こと等から、本物だとの噂が絶えなかった。その後、登用した暴走族グループの親分がこのザネッティであるとされた事があるが、現在は日本のファン達の調査により、俳優であった事が判っている。

* ロックさせた前輪を軸に後輪をパワースライドさせ、路上に円を描くようにタイヤ痕を付ける技「マックスターン」の呼び名は、この作品に由来する。和製英語であり、海外では単に「ドーナッツ」と呼ばれている。


* この作品に登場するバイクは、現在でも名車とされるカワサキの「Zシリーズ」やCB等古き良き時代の人気車種が多く、コアなファンの心を今でも掴み続けており、人気車種ゆえ買うとなると古い割りに高額である。又劇中で使われたバイクのカウル等のパーツも、未だに海外サイトのネット通販で見かける事があり、主役カーであるV8インターセプターさえもレプリカが製造されている等、この映画の人気の高さが窺え、年月を経ても尚、多くのファンの心を掴んでいる。

* この映画の根強い人気の秘密は、良くも悪くも登場するマシーンにあると言っても過言ではない。それ故、シナリオの「暴走族の被害で苦しめられる市民」や「家族や友を暴走族に殺された男の復讐」といった、暗く悲しい荒んだ世界観や、当時のオーストラリアで社会問題とさえなっていた暴走族撲滅のテーマ等は軽視されていると言ってよい(暴走族撲滅というテーマのために、予算の一部は国から出ていた)。ファンの多くは、その登場するマシーンのカッコ良さにのみ夢中であった。そのマシーンとはSFメカのような非現実的な物ではなく、あくまで日常的に存在し得る「現実的な車とオートバイ」という点が、より一層ファンの夢を刺激した。使用されたオートバイも当時バイク好きには憧れの車種ばかりであったが、その中でも特にカワサキのZシリーズの頂点であった900SUPER4(Z1:ゼットワン・900cc)は有名であり、750RS(Z2:ゼッツー・750cc)と並んで人気が高い。当時はメーカー自主規制により750cc以上の大排気量車の国内販売が無く、また逆輸入も珍しい時代であり入手は容易くはなかった。又、限定解除という制度上の大きな壁もあり、金さえ出せば誰でも乗れるというものではない雲の上の存在であった。

* 当時外車といえば「お金持ち」と見られる時代でもあり、アメ車と言えば「トランザム、カマロ、インターセプター」と言われた程、若者に人気があった。その外車が更に600馬力にもなる改造をほどこした怪物マシーンとして劇中に登場し、特にスーパーチャージャーを搭載し漆黒に彩られたV8インターセプターが、シフトレバーに付けられた赤いコックを引くと金属音を発しながら過給をはじめ猛烈な勢いで加速していく姿に、多くの人が熱狂した。この「現実的ではないが頑張れば実現出来るかも知れない乗り物」という淡い夢が、人気に拍車を掛けたと言えるだろう。

[ 2009/04/14 02:15 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

The Car Trailer 2'03"

トップページMOVIEカテゴリーThe Car Trailer
THE CAR _1977, trailer_ James Brolin_0001.jpg

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ザ・カー(原題:The car)は1977年に制作された、自動車とホラーを結びつけた史上初めての映画である。

舞台はユタ州の田舎町サンタ・イネス。ある日、サイクリングをしていた学生やヒッチハイク中の出稼ぎ労働者が連続で轢き逃げされる事件が発生。地元の保安官事務所のリーダー格であるウェイドは、この事件に使われた漆黒の車を断定し捜査に乗り出すが、殺人車の行動は次第にエスカレートし、保安官達までが襲われる。パレードの予行演習をしていた子供達と、引率の教師でウェイドの恋人であるローレンも狙われるが、必死に墓場へ逃げ込んだ。なぜか墓場内には入らない車を、現場へ駆けつけたウェイドが銃撃するが、ビクともしない。車はその場から立ち去り、帰宅したローレンだが自宅で再び襲われ殺される。怒りに燃えるウェイドと仲間達は、爆破のプロであるエイモスの協力を得て、車の破壊を計画する。ところが決行日当日、ウェイドのガレージに突如として車が出現。窮地に立たされながらも、ウェイドは爆弾を仕掛けた崖へとバイクを走らせる。

本作の主役とも言える殺人自動車は、1971年式リンカーン・コンチネンタルマークIIIをベースに改造された。製作を担当したのは、テレビシリーズ版『バットマン』(1966年)でバットモービルの製作も手がけたジョージ・バリス。殺人自動車は6週間で計6台が製作され、撮影期間内にすべてクラッシュしたが、後に展示用に7台目が製作された。7台目はユニバーサル・スタジオで一時展示された後、バリスに返還され、1980年代にコレクターに売却された。

本作の冒頭でチャーチ・オブ・サタン(悪魔教会)の司祭長、アントン・ラヴェイの文句が引用される。後にラヴェイは、本作の「テクニカルアドバイザー」としてクレジットされた。

ストーリーは『ヨハネの黙示録』をなぞらえており、黙示録のキーワードである『ラッパ』『風』『荒れ野に逃げ込む女』などが要所に織り込まれると同時に、殺人自動車の正体を暗示している。 ラストの殺人自動車の落下シーンは、後にテレビドラマ『ナイトライダー』で、K.A.R.R.(カール)の転落シーンに流用された。

[ 2009/04/15 16:42 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

FAST AND FURIOUS MAX OPENING 7'04"

トップページMOVIEカテゴリーFAST AND FURIOUS MAX OPENING
FAST AND FURIOUS MAX (1)
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監督は前作に引き続き『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』のジャスティン・リン。キャストは1作目『ワイルドスピード』の主要キャスト、ポール・ウォーカーとヴィン・ディーゼルが復帰し、1作目のコンビが復活。シリーズの時間軸は、1作目→2作目→4作目(本作)→5作目→3作目の順となっている。

ドミニクは南米でガソリン運搬車を強奪するグループのリーダーを務めていたが、警察の捜査の手は彼にジワジワと伸びてきていた。それを感じ取った彼は仲間に解散を促し、一緒にいればレティを危険な目に遭わせることに悩み、黙って彼女の元を去ってしまう。その後、ドミニクは妹のミアからの衝撃的な報せにより、ある男への復讐のために危険を承知で再びアメリカへ舞い戻るのだった。 一方、ブライアンはマイアミでの活躍によってFBI入りを果たし、職務を果たす日々を過ごしていた。彼はとある麻薬密輸組織の捜査をしていたが、ドミニクが国境を越えて戻って来た事を知る。ブライアンにはその理由がわかっていた。複雑な思いを胸に彼は捜査を続けるが、その先で計らずもドミニクと再会することになる。 追っている相手が同じだったのである。 以前の経緯と立場の違いから、二人は手を組むこと無く別々に相手を追い始めるのだった。

登場する車たち
NISSAN スカイラインGT-R BNR34(青。ブライアンがFBIの押収品より自らチューンして使用していたが途中で爆発させられている)
NISSAN スカイライン25GTターボ ER34(白。上記の車とともにブライアンが選んでいる。)
NISSAN GT-R R35(赤。上記の車とともにブライアンが選んでいるが劇中では使用されていない。)
スバル インプレッサWRX STI(銀。ブライアンがドミニクよりGT-Rの替わりに手に入れてもらう)
シボレー・カマロ(ドミニクがラストのカーチェイス中に乗り換える)
シボレーシェベル(ドミニクが使用、初めはレッドのボディーカラーだがレースに出る為にボディーカラーを塗り替える)
NISSAN シルビア S15
クライスラーダッジ・チャージャー(ドミニクが後半で使用。実は初代に登場したチャージャーと同一である事を思わせるシーンがある。)
クライスラー プリムスロードランナー(レティが使用)
ビュイック グランナショナル GNX 1987(ドミニクが冒頭で使用,こちらも本物のGNXではない)
フォード グラントリノ 1972(フェニックスが使用)
BMW M5 E39(黄色。中盤のレースシーンで登場するが途中でクラッシュ)
NISSAN シルビア S14(中盤のレースシーンで登場するが途中でクラッシュ)
HONDA NSX(ミアが使用)
ポルシェ ケイマン(ジゼルが使用)
Ford RS200(白。メインタイトル後のレースで登場)
MAZDA RX-7 FC3S(レティの葬式時に登場)
HONDA シビック EG6(上記のRX-7と一緒に駐車されていた)
ハマーH1(ブライアンとドミニクが組織より奪い逃走する際に使用)
Ford クラウンビクトリア(FBIの捜査車両ブライアンが職務中に使用する)
TOYOTA スプリンタートレノ AE86(カラーはシルバー・ブラックのツートンで上述のRS200とバトル)

備考
NISSAN スカイラインGT-R BNR34が登場する撮影には、RB25DET型を搭載する「25GT-t」をベースとして製作したレプリカ車両が使われた。これは実際のGT-Rはアメリカ国内においては8万ドルもする為である(DVDの特典映像より)。実際に劇中でフロントバンパーの違いで見分けることができる。(リアにはGT-Rエンブレムがついているが、フロントは25GT-tのままになっている)

俳優のドライブシーンの多くが、グリーンスクリーンでの合成撮影である。ハリウッドでは、俳優は各種の制約がある為に危険なシーンは全てスタントマンが行う。(DVDの特典映像より)

本作ではワイルドスピードのシリーズではあまり使われないSUBARUの車両が主に後半でよく使われている。

[ 2009/04/16 17:10 ] MOVIE | TB(0) | CM(1)

Christine Trailer 1983 1'17"

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『クリスティーン』(Christine)は、1984年に公開されたアメリカ合衆国のホラー映画。110分、カラー。スティーヴン・キングの同名小説の映画化作品。

呪われた'58年型プリムス・フューリーを手に入れた気弱な少年アーニー。クリスティーンと名付けられたその真っ赤な車は、自らの意志を持ち、自分や所有者に危害を加えるものたちを次々と殺していく。

あらすじ
1957年、デトロイト。プリマスの自動車工場で真っ赤なプリマスが完成されようとしていた。工員がエンジンをチェックしようとした時、ボンネットがひとりでに降りて、工員の腕を激しくうった。そして車のシートに煙草の灰を落とした別の工員は、死体で発見された。

1972年、カリフォルニア。ロックブリッジ高校の自動車整備教室で、内気なアー二ー(キース・ゴードン)がバディ、ムーチー、ヴァンデンバーグら不良学生にからまれる。アーニーの唯一の友人デニス(ジョン・ストックウェル)が割って入り、なぐりあいとなり、結局、バディは退学処分に。帰宅途中、アーニーは野ざらしにされているおんぼろプリマス・フューリーを目撃、一目惚れしてしまう。デニスが止めるのも聞かず、アーニーは気味の悪い持ち主ルベーから250ドルも出してフューリーを買う。ルべーは車を彼女と呼び、名曲はクリスティーンだという。アーニーの両親は、クリスティーンを買ったことに大反対した。アーニーは、ドゥー・イッツ・ユアセルフのダーネル・ガレージにクリスティーンを持って行く。

学校一の美人と評判のリー(アレクサンドラ・ポール)とアーニーが、新品同様に甦ったクリスティーンから降りたのを目撃して呆然とするデニス。たまたまそれがフットボールの試合中だったので、デニスはタックルされて負傷し入院する破目に。

雨のドライヴ・イン・シアターで、アーニーとリーが抱き合っていた。アーニーが車から出ると、ダッシュ・ボードが緑色に光り、リーが息をつまらせて苦しむ。やっとのことで救出されたリーは、あの車を捨ててというが、アーニーが聞くはずもない。

バディらがダーネル・ガレージに忍び込みクリスティーンをめちゃくちゃに破壊する。翌日、これを見て呆然とするアーニー。やがて、クリスティーンは自ら復讐を始めた。深夜、道路を歩いていたムーチーがクリスティーンにひき殺され、ガンリン・スタンドで働いていたヴァンデンバーグも、バディもやられてしまう。ガレージの主人ダーネルも殺された。ジャンキンス警部(ハリー・ディーン・スタントン)が、アーニーを尋問するが、アーニーにはアリバイがあるし、第一、クリスティーンには傷一つないので、追求のしようがない。

年が明けて退院したデニスのもとヘリーが尋ねて来て、アーニーのことについて話し合った。ガレージでクリスティーンと対決することにしたデニスはパワーシャベルでクリスティーンをつぶそうとするが、クリスティーンはなかなかやられない。事務室にいるリーを狙ってクリスティーンが激突。ウィンドシールドをぶち破って、アーニーの身体がとび出す。やっとのことでクリスティーンを押しつぶすことに成功。翌日、機械で圧縮されて箱状になったクリスティーン。その箱が息でもするかのように動く。

[ 2009/04/17 19:24 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Junkman 5'50"

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自動車解体業者であり独立プロの映画監督でもある男が、何者かに生命を狙われ、必死で抵抗する姿を描くカー・チェイス映画。製作総指揮はリチャード・ミューズ製作。脚本・監督・主演は「バニシング IN 60”」(74)のH・B・ハリッキー。撮影はトニー・シスロ、音楽はホイト・アクストンが各々担当。出演はハリッキーの他にクリストファー・ストーン、スーザン・ショウ、ラング・ジェフリーズなど。

ストーリー
ロサンゼルスの南、ロングビーチの観光名所の一角で「バニシング IN 60」という映画の撮影が行われていた。ハーラン・ホリス(H・B・ハリッキー)はこの映画の脚本・監督・主演をこなす、カー・アクション映画のスーパー・スターだ。彼は撮影が終了した翌日、パソロブレスに愛車のキャデラック・エルドラドを駆って向かった。そこで若くして自動車事故で逝ったジェームス・ディーンの記念祭が行われるからだ。

一方、「ホリスを殺せ」との依頼を受けた暗殺団も秘かに彼のあとを追っている。草原の丘が続く田舎道で、ホリスは自分の車を備考する車に気づいた。並行して走る車から彼を狙う銃口。わけのわからないまま、ホリスは身の危険を察してアクセルを踏み込んだ。曲りくねった田舎道で、殺し屋たちの車に追われながらフルスピードで疾走するキャデラック・エルドラド。ホリスは持てるドライビング・テクニックを全て駆使して、追撃をかわしながらパソロブレスへの道をひた走った。殺し屋たちはホリスのテクニックについていけず、小型飛行機を使って、空から襲う計画を実行した。そして、記念祭の会場に突入したホリスの車めがけて、次々と手榴弾が落とされた。これにはさすがのホリスもよけきれず、会場近くの農家に突っ込んだホリスの車は大音響とともに、農家もろとも、ふっとんでしまった。

ホリスは寸前のところで助かり、ロサンゼルスへ戻ると、逆襲に転じた。実はホリス殺害の依頼人は、ホリスの独立映画プロの重役だったのだ。身近にいた敵を知ったホリスはオフィスへ向かうが、そこでも敵はまちぶせていた。丁度そのころ、ホリスの新作「バニシング IN 60」のプレミア・ショーがサンセット大通りにあるシネラマ・ドームで開かれようとしていた。暗殺団の手によって、その駐車場に爆弾が仕掛けられたことを知ったホリスは、飛行船に乗って現場へ急行。間一髪のところで爆弾をとり除いたホリスは犯人を追いつめ、倒すのであった。

[ 2009/04/18 20:41 ] MOVIE | TB(0) | CM(0)

Honda 1300 CM 0'32"

トップページHONDAカテゴリーHonda 1300 CM
Honda1300CM
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マイナーチェンジで1,450cc水冷エンジンを得て「ホンダ・145」という名称に変わったが、基本的には同じ車である。 駆動方式はフロントエンジン・フロントドライブ。

  • 左右に分かれたフロントグリルなど、クセのある顔つき(スポーツ・グレード系)
  • 本田宗一郎のこだわりとして、DDAC(デュオ・ダイナ・エア・クーリング)と呼ばれる強制空冷の直4 SOHC 8バルブクロスフローエンジンが採用され、77 SEVENTY SEVEN シリーズ(シングルキャブ仕様:100PS/7,200rpm)と99 NINETY NINE シリーズ(4連キャブレター仕様:115PS/7,500rpm)とが設定された。搭載されたエンジンは当時の1,300ccエンジンとしては驚異的な馬力を発生し、DOHCエンジンに匹敵する高回転設計を誇っていた。それらは、ファミリーカーにも関わらずオールアルミ製のドライサンプ構造であった。その結果、構造があまりにも複雑で重く、フロントまわりの重量がかなり重くなり、アンダーステアが強いハンドリングを持った車となっていた。
  • 後に発売となるクーペモデルは、coupe 7(シングルキャブ仕様:95PS/7,000rpm)とcoupe 9(4キャブレター仕様:110PS/7,300rpm)との2車種。
  • PCDが120.0mmという特殊な規格のホイールハブを採用(ちなみに初代シビックおよび初代アコードもこのホンダ・1300用のホイールハブを流用していた)。
1300開発時にあった有名な出来事は、エンジンの冷却方法について対立したことであった。「水でエンジンを冷やしても、その水を空気で冷やすのだから、最初から直接空気でエンジンを冷やしたほうが無駄がない」という宗一郎の主張と、「水冷のほうがエンジン温度を制御しやすい」という若手技術者の主張がぶつかり合い、当時技術者だった久米是志(後の3代目社長)は辞表を残して出社拒否をしたほどであった。あくまで空冷にこだわる宗一郎に対して技術者達は、副社長の藤沢武夫に、宗一郎に水冷エンジンにしてくれるよう説得を頼み、藤沢は電話で宗一郎に「あなたは社長なのか、技術者なのか、どちらなんだ?」と問いただされ、宗一郎は自分が社長ということを改めて認識し、若手技術者の主張を認めることとなり、145では水冷エンジンが搭載されることになった。

[ 2009/04/19 16:12 ] HONDA | TB(0) | CM(0)

Qashqai CM Roller Skates 0'45"

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日産・デュアリス (DUALIS) は、日産自動車から2007年5月に発売された小型クロスオーバーSUVである。まず、主たる市場となる欧州でキャシュカイ (QASHQAI) の名で発表された。北米ではプラットフォームを共有する同クラスのローグが販売される。中東諸国、中国ではキャシュカイの名称で、オーストラリアではデュアリスのまま販売される。車台を共有しているエクストレイルはオフロードやアウトドアアクティビティ、デュアリスは都市やパワードスーツをイメージした訴求方法を採り、棲み分けを図っている。

モデル概要
日産の欧州戦略車種として位置付けられており、欧州市場をメインに販売が行われる。スタイリングは英国の日産デザインヨーロッパ (NDE) 、および、日産テクニカルセンターヨーロッパ (NTCE) が手がけている。生産は英国日産自動車製造会社 (NMUK) のサンダーランド工場で行われているが、日本向けに関しては2008年初頭から日産九州工場に移管されている。欧州においては、2006年11月に生産が終了したアルメーラの後継車種としての役割も担う。

プラットフォームは、日産・セントラや、ルノー・メガーヌ、ルノーサムスン・QM5などで使用されている、日産・Cプラットフォームを採用。エンジンは全て直列4気筒でガソリンが1.6L(HR16DE型)と2.0L(MR20DE型)、ディーゼルは1.5Lと2.0Lが設定されている。トランスミッションは、5速MT、6速MT、6速AT、CVTが用意されているが、国内では2.0Lガソリン+CVTの組み合わせのみである。駆動方式はFF、または、4WDで、4WDはエクストレイルと同じ、オールモード4X4を採用する。フロントストラット式、リアマルチリンク式のサスペンションには、減衰力特性に優れたザックス社製ハイスピードコントロールショックアブソーバーが組み合わされている。

キャシュカイ+2
欧州で販売されるキャシュカイの派生車として3列シート7人乗りモデルのキャシュカイ+2があり、2008年1月から英国日産自動車製造会社で製造され、同年10月から欧州での販売が開始された。ベースのキャシュカイに比べ、ホイールベースが135mm拡大され、全長が211mm延長され、全高は38mm高められている。また、フロントグリルはキャシュカイとは別形状のものが採用されている。現在は、このモデルの日本国内市場への導入予定はないが、日産は日本の国内市場の動向次第で導入を検討中とコメントしている。

日本での販売
発売当初は日本仕様車も英国からの輸入販売であったが、ポンドならびにユーロ高の影響と欧州市場の好調によるサンダーランド工場における生産稼動率の向上に伴う日本国内への納入が遅れることを避ける(=日本国内における早期納車を実現させる)という2つの理由で国内販売分に関しては2008年から日産九州工場での生産に移管されている(同工場でのエクストレイルやローグの生産に伴う生産稼働率の向上させる目的でもある)。エンジンは、中・低回転域のトルクを重視したMR20DEガソリンエンジンのみで、トランスミッションは無段変速機#エクストロニックCVT(6速マニュアルモード付き)で、2WDと4WDが設定される。グレードは20G、20Sの2種類が用意され、20Gには標準でグラスルーフが装着される。

また、九州工場への生産拠点の移管のため、2008年9月からはオーテックジャパン扱いの特装車であり、同時にカスタマイズカーの新シリーズとなる「クロスライダー (Cross Rider) 」を販売している。これは「20S」ならびに「20S FOUR」をベースに専用デザインのエクステリア(フロントグリル、17インチアルミホイール、前後バンパー、FUJITSUBO製センター出しマフラーなど)ならびにインテリア(アルカンターラ / トリコットシートなど)を装備している。

* 2004年3月2日 - ジュネーブモーターショーに「キャシュカイ」コンセプトモデルを出展。
* 2006年9月6日 - 「キャシュカイ」市販モデル発表。
* 2006年9月28日 - モンディアル・ド・ロトモビル(パリサロン)に出展。
* 2006年12月5日 - サンダーランド工場で生産開始。
* 2006年12月12日 - 神奈川県厚木市の新デザインセンターの公開にあわせて「デュアリス」を日本初公開。
* 2007年2月 - 欧州で販売開始。
* 2007年5月23日 - 日本で販売開始。
* 2008年5月28日 - 内装色にカカオとアンバーを使用した特別仕様車「アーバンフレア」登場。同年11月末までの期間限定販売(台数制限なし)。
* 2008年9月4日 - カスタマイズカー「クロスライダー (Cross Rider) 」を発表。同年9月29日発売。
* 2008年12月19日 - ブラウン色の本革シートを装備した特別仕様車「アーバンブラウンレザー」発売。同時に、全グレードの装備見直しにより運転席・助手席SRSサイドエアバッグとSRSカーテンエアバッグが全車標準装備に。

車名の由来
「DUALIS」はラテン語で「2元の - 」とか「2つの性質をもつ」という意味。また、英語の「DUAL」からの造語で、乗る人にONとOFFのデュアルライフでの充実を提供したいという意味も込められている。

ちなみに欧州仕様である「QASHQAI(キャシュカイ)」はイランの遊牧民「QASHQAI(ガシュガイ)族」から来ている。イラン語を由来とする車名という点ではきわめて珍しい。語感としては、羊の群れを連れて山岳地帯をどこまでも移動する力強さをイメージしている。

補足
* 広告モデルのパワードスーツDUALISのデザインはアニメ『超時空要塞マクロス』(主にバルキリー等のデザインおよび劇場版等の監督)およびアニメ『創聖のアクエリオン』(アクエリオンデザインおよびシリーズ監督を担当)等のメカニックデザイナーで知られる河森正治である。

* デュアリス発売以降から、日産の車名のカタカナ書体も一新されている(1983年の日産創立50周年を機に、米ペンタグラム社作成のカタカナ書体に一新されて以来、24年振り)。

[ 2009/04/20 16:35 ] NISSAN | TB(0) | CM(0)

Nismo 370Z 2009 Image Show 1'50"

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ノーマル車に比べ、足回り、マフラー、そして空力を見方につけるべく専用のスポイラーが設けられる。

詳しくはNISSAN FAIRLADY Z VERSION NISMOのサイトを見てほしい。

[ 2009/04/21 17:10 ] NISSAN | TB(0) | CM(0)

Video Divertenti - Fiat 500 Parodia Spot Fiat Stilo 0'50"

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フィアット 500(イタリア語、Cinquecento:チンクェチェント)はイタリアの自動車製造会社 フィアット(Fiat)が製造・販売する小型自動車である。

「500」の名称を用いた車両は、期間を置いて3つの系統(初代、二代目、三代目)が存在する。またこれとは別に「500」のイタリア語読みである「Cinquecento(チンクェチェント)」を車名とし、アルファベットで記載したモデルも存在する。本項目ではそれら全てについて記述する。

概要
初代「500(チンクェチェント)」は1936年から1955年まで製造された。「500A」とその改良による系列型番車両(500Bと500C)が該当する。水冷エンジン、フロントエンジン・リアドライブ方式を採用した。ハツカネズミを意味する「トポリーノ」の愛称で呼ばれた。

二代目は、1957年から1977年まで生産された空冷エンジン搭載のリアエンジン・リアドライブ車である。正式名称は「FIAT NUOVA 500(新フィアット500)」であるが、一般にはイタリア語で「500」を意味する「チンクェチェント」(Cinquecento)の呼称で知られている。

派生型として2代目「500(チンクェチェント)」を車名の後に「トポリーノ」の名称をつけた前輪駆動車モデルが、1991年から1998年にかけて生産された。

2007年3月、NUOVA 500発売50周年にちなんで、3代目となる「Fiat 500」の名を冠した新型車が登場している。1,200ccと1,400ccのガソリンエンジンまたは1,300ccのディーゼルターボエンジンを搭載した前輪駆動車で、デザインはNUOVA 500を踏襲したものとなっているが、中身は「全く別の車」となっている。

2代目 NUOVA 500(チンクェチェント)
ダンテ・ジアコーザを主任技術者として開発され、1957年に発売、以後1977年まで20年間の長期に渡り生産された、空冷エンジン・RR方式・4人乗りの小型自動車である。

旧500(愛称トポリーノ)との区別のため、NUOVA 500(新500)と称される。初代500の後継モデルではなく、異なるコンセプトで設計からやり直した同クラス・別系統車種である。

NUOVA 500には先行して発売されていた600のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのRR(リアエンジン・リアドライブ)車とされた。

開発経緯
NUOVA 500の登場に先行し、新型車「600(セイチェント)」が、1955年に製造終了した初代500の後継車としてジアコーザの手で開発されていた。600は500とほぼ同等の全長ながら、リアエンジン・リアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な5人乗り乗用車として設計されていた。

ジアコーザは600の開発にあたり、「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできないのだから」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時前輪駆動車実現には等速ジョイントの実用性が不十分だったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。

600は500にも劣らぬ人気車種となったが、フィアット社はこの成功に満足していなかった。

当時のイタリアでは戦後の代替生産として航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の「足」として大きな成功を収めていた。フィアットではこれらスクーターを代替する乗り物として、600より更に安価な乗用車を投入することが次なる需要につながると見込んでいた。

このような背景から、NUOVA 500は基本的に600を一回り縮小したモデルとして設計された。600に比べるとスペース的にかなり窮屈ではあるが、5人乗りを実現していた点も見逃せない。2人乗りだったことで競合車種に顧客を取られてしまったトポリーノ時代の反省点と、スクーターとの差別化を図るという点から重要視され、実現されたものである。

一方、ジアコーザはこれを理解しながらも、更なる小型車の開発にはあまり気乗りはしていなかった。その理由は、600こそが自身最良の回答であり、それ以下の構成では、従来車種に対して走行性能での「進化」が見込めない、と考えていたからである。それでも度重なるフィアット側の説得に折れるかたちで設計に着手したが、エンジンを空冷直列2気筒とすることには最後まで抵抗し続けた。実際にはコストや開発期間の関係から、それに変わるエンジンの調達は難しく、最終的にはジアコーサもこの条件を飲まざるを得なかった。フィアットの大々的なキャンペーンや、廉価な価格設定などの効果もあり、ふたを開けると販売が非常に好調であったことから、いつしかエンジン形式の変更の話は立ち消えとなった。そればかりか、その拡大版が126やパンダにまで使われ続ける、大変な長寿エンジンとなった。生前ジアコーザは日本の自動車趣味誌のインタビューに対し、NUOVA 500が多くの人々に愛されたことに感謝しながらも、「あのエンジンを許したことだけには悔いが残る」と語っている。

メカニズム
独立懸架機構はフロントが横置きリーフスプリングをアーム兼用としたシングルウィッシュボーン、リアがダイアゴナルスイングアクスルとコイルスプリングという組み合わせで、600の縮小コピーである。

ただしエンジンは600同様の水冷直列4気筒では高コストになるため、簡素でコンパクトなパワーユニットとして479cc・13psの空冷直列2気筒OHVエンジンが開発され、縦置き搭載されていた。最高速度は軽量なボディと相まって85km/hに達した。スプリング利用のマウントなどの配慮はあったが、やかましく振動の激しいエンジンであったため、乗り心地には悪影響であった。NUOVA 500シリーズ最大の欠点でもある。遠心分離式のオイルフィルターを持っている。

車体を全鋼製としたが、空冷2気筒エンジンの騒音が屋根板のせいで車内にこもってしまうため、対策として屋根をオープンにできるキャンバストップを標準装備していた。これにより騒音は車外に発散され、居住性を改善できた。NUOVA 500のキャンバストップは機能的に必須とされたものである。

古い車なので現在の車とは使い勝手が異なる部分が多数ある。
キー:
ON/OFF/パーキング。

セルモーターはワイヤー式でレバーを引いて動作させる。シフトノブ後方に設置されている。

ワイパー:
ON/OFFのみ。

動力はエンジンのバキュームやスピードメータケーブルではなく、電気モーターにて駆動される。

初期型から最終型まで同じ仕様である。

ウインカー:
最初期型以外はハンドルのコラムスイッチにて操作する。

ガソリンタンク:
タンク容量は21リットルあり、フロントフード内に設置されている。給油時にフロントフードを開ける必要がある。

フロントフード下はトランクだがガソリンタンクとスペアタイヤで占領されており物を入れるスペースはほとんどない。

燃料計:
残量5リットルで警告灯が点灯。Lタイプには残量計が付く。

チョークレバー:
エンジン始動時に使用する。セルモーターレバーの横にある。

ハンドスロットル:
エンジン暖気のための装備。オートクルーズにならないこともないが危険なので走行中使用しないこと。

スタイリング
NUOVA 500のころころとした丸みのあるユーモラスなデザインフォルムは、設計者のジアコーザ自身が手がけたものである。もともと愛嬌のあった600のデザインを更に縮小して仕上げたような雰囲気を持っている。

ジアコーザが晩年、カーグラフィックTVのインタビューに答えて述べたところでは、自らクレイモデルを毎日撫で回すように手作業で削り出していたら、自然に出来てしまったのだという。また、独特の丸みを帯びた形状は、少しでも軽く仕上げるために、使用する鉄板を減らすべく表面積を減らす意図もあったとも語っている。

同時代の日本の軽自動車スバル・360も同様であるが、これらの小型車では、ボディの表面積を減らしつつ丸みを持たせることで、軽量化と強度を両立させる、という意図があった。鋼板は薄くても丸みを帯びたプレス加工を行うことで、補強や工程の追加なしに必要な剛性を持たせられたためである。

ジアコーザと同時代の卓越した自動車設計者であるイギリス・BMC社のアレックス・イシゴニスが、やはり自らのラフスケッチで著名な小型車「ミニ」のスタイリングを仕上げてしまい、デザイナーのピニンファリーナをして「いじる必要がない」と絶賛させた事例がある。機能性に優れた自動車の作り手として知られるジアコーザとイシゴニスが、共に同様なセルフデザインのエピソードを持っているのは興味深い。 

バリエーションと市場
1957年の発売初期には、スクーターを高価下取りするという荒業の販売施策でスクーターユーザーの乗り換えを促し、それまで2輪車に乗っていたイタリアの大衆を、続々と4輪車に乗り換えさせた。

1959年、排気量を500ccギリギリにまで上げ21.5psに向上させたスポーツモデル版の「スポルト」が登場している。

1960年、「スポルト」のエンジンを17.5PSにデチューンしたマイナーチェンジ版の「500D」が発売。また、水平直列2気筒エンジン搭載で荷室を確保したワゴンタイプの「ジャルディニエラ」が追加された。

1965年、「500F」を発売。新しい交通規則に対応する為、これまでの前開きドアを廃止し後ろ開きドアを採用する。これに伴い大幅に手が加えられ、フロントウィンドウの大型化・キャンバストップ開閉レバーを2ヶ所から1ヶ所に変更・キャンバストップ後方の金属屋根部を他の部との一体成型に変更(これまでは分離可能だった)・テールランプの大型化・ドライブシャフトのジョイントを強化・クラッチをコイルスプリング式からダイアフラムスプリング式に変更・ボディパネルの変更。こうした変更により、D以前の前期型とF以降の後期型と分けられる。

1968年、デラックスモデルの「500L」を発売。バンパーを補強するフロントバーが特徴だった。

この他にも数多くのバリエーション(一部にはディーラーが改造した物もあった模様)が発売された。

また、NUOVA 500をベースとしてエンジンやシャシーに改良を施した高性能版が、販売当時アバルトから複数種リリースされている。

1972年 低価格版の「500R」が発売。 この年より500F及び500Lは生産を終了し、最終型である500Rが発売された。同じ年に後継車種FIAT126が発売されたが、500Rはこれの下位モデルとして位置づけられた。500Rは126と同じエンジンである126.000型エンジンを搭載。このエンジンの基本的構造は500F、500Lが搭載していた110F.000型と変わらないものの、排気量は499.5ccから594ccへと大きくなり、馬力もネット18馬力から23馬力へと強力になった。しかし、コスト削減のため、トランスミッション部分はこれまでと同様のシンクロ機構の無いものを搭載した。内装についても500Fと同様にシンプルになり、リアシートは固定式の取り外せないものとなった。車体構造に変化は無いが、唯一フロントエンブレムがFIATの文字のみになり、トレードマークであったヒゲのようなフロントグリル風インテリアはなくなった。 最終的に500Rは30万台以上が生産された。

NUOVA 500はイタリアの国民車として人気を博したほか、ヨーロッパ全土にも輸出され、決して乗り心地は良くなかったが、価格の安さ、経済性の高さと、路地裏にまで入り込める機動性から、各地で好評を得た。少数は当時の自動車大国であったアメリカにおいても販売されている。

1977年の生産終了までに通算で約400万台が製造されている。  

世界中の愛好家の存在
イタリアやヨーロッパだけに留まらず、世界各国に熱心なファンが存在しており、現在でもNUOVA 500をレストアして愛用する者も多く見られる。日本にもオーナーズクラブが存在する。

イタリア本国でも「500」は広く国民に愛されており、同国内で排気ガス規制と国内産業活性化の推進により旧車の扱いが厳しくなる中、「排気量1,000cc未満で25年以上経っている自動車」に以下の特典を与える法案が検討されている。内容は次の通り。

* 自動車税の免除
* 車検期間を2年から4年に
* 自動車通行規制区域内への乗り入れ許可

排気量と経過年数はNUOVA 500に見事に合致するもので、同法案は一部では「フィアット500保護法」とも呼ばれている。なお、これに対しては既に与党を含む超党派の支持団体まである模様で、「同車は歴史遺産のひとつだ」とするコメントも寄せられている。

また、日本ではNUOVA500の車体にレストアでスバル・サンバーのエンジン周りを搭載した車両が販売されたこともあり、愛らしいスタイルの同車種への人気の高さが伺われる。

登場する作品
日本ではアニメ映画『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督 1979年)がきっかけで、ルパン三世の愛車の一つとして広く知られることになった。

作中では後部にスーパーチャージャーを搭載し、100HPを発生させる(設定集より)という無茶な改造が施されており、猛ダッシュでの逃走や崖を駆け上るなどの活躍を見せるが、いきなり映画序盤でパンク、直後に手榴弾の爆発に晒され、森に突っ込み、作中を通して「タイヤは丸坊主のスペアタイヤを使用され、フロントガラスは割れっぱなし、ボディーは傷だらけでヘッドライトは片方無くなり、山のような荷物を積まれた状態」で酷使された(ただし、劇中のラストシーンでは元通りの状態に修復されている)。

カラーはこの「カリオストロの城」の知名度ゆえに黄色の方がよく知られているが、他にもTV第1シリーズのようなライトブルーがある。ナンバープレートは基本設定として、黒地に白字で「R-33」と書かれたものであることが多い。

ルパンの愛車はその初期には戦前のメルセデス・ベンツSSKにフェラーリの水平12気筒エンジンを搭載したスペシャル、といういかにもヒーロー然とした設定であった。そのような派手な大泥棒ではなく、もっと冴えない「おじさん」としてルパンを描くためのリアルな小道具として、宮崎駿はフィアット500を用いたのである。

なお、『ルパン三世』のスタッフの一人であり、かつてこの車の所有者でもあった大塚康生は、メルセデス・ベンツSSKより描きやすい事なども理由に、カリオストロ~の監督である宮崎駿からこの作品においてルパンの車に設定するよう指示を受けたと話している。ちなみに、劇中のカーチェイスシーンでヒロイン・クラリスが駆ったシトロエン・2CVは宮崎の当時の愛車である。

海外では、ピクサーのCGアニメ作品となる『Cars(カーズ)』に登場し、目や口などがついたコミカルな姿で登場。 設定としては1959年型の車体を持ち、熱狂的なフェラーリのファンである。 ジャック・マイヨールの伝記的映画グラン・ブルーではフロントガラスを取り外し可能でそのまま走行しているものもある。同作のフランス本国における大ヒットで、イタリア国内にあったフィアット500の中古が、表裏様々なルートで大量にフランス国内に流入したとも言われている。

[ 2009/04/22 13:07 ] FIAT | TB(0) | CM(1)

Women Driving 1'09"

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駐車場にて順番を無視して入り込んだ車を強引に押してでも入る車。かなり強引です。

[ 2009/04/23 14:02 ] その他の動画集 | TB(0) | CM(0)

Honda Avancier ad 0'30"

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アヴァンシア (Avancier) は、本田技研工業が生産していたステーションワゴン型乗用車である。

外観やコンセプトはかつてのアコードエアロデッキを彷彿とさせるものである。このスタイリングはアーチキャビンフォルムと呼ばれ、車種においてもワゴンとは呼ばず4ドアクラブデッキと呼んでいた。前席をウォークスルーとし隣席や後席とのアクセスを容易にする一方、後席には専用の送風口や天井のボックスが装備され、さらにはメーカーオプションの「Gパッケージ」を選択するとリヤ座面格納式センターテーブル&リヤシートスライド(スライド量70mm)と同時に角度が変化するシートバック&リヤプライバシーガラスなどのアイテムまでもが備わり、まさに後席主体のリムジンライクなパッケージとなっていた。

エンジンは、オデッセイに搭載されていた直列4気筒 2.3L VTECとV型6気筒 3.0L VTECとで、FFと4WDがラインナップされた。このデザインとIHCC(インテリジェントハイウェイクルーズコントロール)、ゲート式インパネシフト、5速ATの搭載など、ホンダ初の技術を搭載。これらは後に登場するホンダ車にも搭載されていく。

当初はワゴンとは呼んでいなかったが、マイナーチェンジの際「ヌーベルバーグ」が登場するとそのCMで「Hondaはワゴンに何をしたか。」というキャッチコピーを使っていた。

初代(1999-2003年 TA1/2/3/4型)
* 1999年9月13日 - 発表。当初はF23A型(直列4気筒 SOHC VTEC 2.3L)搭載のFF「L」/4WD「L-4」とJ30A型(V型6気筒 SOHC VTEC 3.0L)搭載のFF「V」との3バリエーションがクリオ店で発売された。

* 2000年2月3日 - V6エンジンの4WD「V-4」追加。

* 2000年9月28日 -「L」と「L-4」をベースに専用プレミアムサウンドシステム、本革巻ステアリングホイール、ボディ同色フロントグリル、専用車体色(インディゴブルー・パール/ファイアーレッド・パール)などを追加した「フリーウェイ」を追加。

* 2001年9月2日 - マイナーチェンジ。専用チューニングのサスペンションにより車高を15mm下げ、専用16インチアルミやブラックインテリアなどを装備しスポーティーさを強調した2.3Lの「ヌーベルバーグ」(Nouvelle Vague)を追加。ヌーベルバーグ専用色としてオデッセイ・アブソルートにも用意された「ミラノレッド」と「レイズンモーブパール」も選択可能だった。同時に、シリーズ全体にリアシートに読書灯を標準装着して後席の快適性の向上さを強調。なお、「ヌーベルバーグ」以外のFFモデルにも同様のアンダースカートが装着され、空力性能が向上している。

* 2003年2月6日 - 「ヌーベルバーグ」、「L-4」にプライバシーガラスを装備し、ベース車に対して20万円値下げした特別仕様車「プライベートスタイル」追加。

* 2003年10月 - 商業的には成功しなかった事と、オデッセイのフルモデルチェンジに伴い、車種整理・統合の対象となり、生産終了。下記にもあるようによく似たコンセプトの車は日欧で多数登場したが、結局販売不振になってしまった事まで同じである。

車名の由来
* アヴァンシア(Avancier) - フランス語で「前進する」という意味を持った「avancer」からの造語。

* ヌーベルバーグ(Nouvelle Vague) - フランス語で「新しい波」という意味。

[ 2009/04/25 01:39 ] HONDA | TB(0) | CM(1)

TOYOTA 2000GT 16'20"

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2000GT(にせんジーティー)は、トヨタ自動車とヤマハ発動機が共同開発し、ヤマハへの生産委託で1967年から1970年までトヨタブランドで限定生産された高級乗用車である。形式名MF10。

日本のモータリゼーションの発展途上期において、トヨタが自社の技術力を国内外にアピールすべく、ヤマハ発動機の強い協力を得て開発したハンドメイドの高性能スポーツカーであり、本格的な「グラントゥーリズモ(グランド・ツーリングカー)」としては日本最初の存在と考えられている。1960年代の日本製自動車としては異例の、高度なメカニズムと流麗なデザインを兼ね備えた画期的存在であり、性能面でも世界水準に達したことで、日本車の歴史上、一種の記念碑と言える伝説的な名車である。

その存在は一般大衆にも後年に至るまで強烈な印象を与え、東京タワー、東海道新幹線、大阪万博の「太陽の塔」などと並び、高度経済成長期における日本の躍進を象徴するアイコンの一つにすらなっている。

開発時の状況
1960年代前半の日本におけるモータリゼーション勃興期、トヨタ自動車にとって最大の競合メーカーである日産自動車はフェアレディ、また四輪車メーカーとしては新興の本田技研工業はSシリーズをそれぞれ市場に送り出し、いずれも軽快なオープンボディのスポーツカーとして日本国内外で人気を集めた。これらのスポーツカーは自動車レースなどでもメーカーの技術力をアピールし、メーカーのイメージアップに大きく貢献する存在であった。

一方のトヨタ自動車は、日産自動車と並んで日本を代表する最大手自動車メーカーでありながら、1960年代前半にはスポーツカーを生産していない状態だった。クラウンのシャーシを利用して浜素紀のデザインしたボディを架装したスペシャリティ・クーペの試作などは為されていたが、そのシャーシやエンジンなどはスポーツカーと呼ぶには非常に未熟なもので世に出ることはなく、自社のイメージリーダーとなるようなスポーツモデルが存在していなかった。

トヨタ自動車のスポーツカーには、1962年から大衆車パブリカのコンポーネンツを用いて系列会社の関東自動車工業で試作を進めていた「パブリカ・スポーツ」があり、1962年以降の原型デザイン公開を経て、トヨタ・スポーツ800の名で1965年から市販された。しかしこれは1000cc未満のミニ・スポーツカーであり、2000cc超の乗用車を生産する自動車メーカーであるトヨタのイメージリーダーとしては格が不足していた。

このため、輸出市場やレースフィールドで通用する性能を持った、より大型の本格的なスポーツカー開発が考えられるようになったのである。開発は1964年9月から開始され、シャーシやスタイリングの基本設計はトヨタ自社によって短期間で進められている

ヤマハ発動機の技術供与
同時期、オートバイメーカーとして既に日本を代表する存在となっていたヤマハ発動機では、日産自動車と提携してクローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発を進めていた[1]。日産との協力で開発コード「A550X」と呼ばれる試作車も作られたが、この計画は日産側の事情により、1964年に開発途中で頓挫した。

そこでヤマハでは、スポーツカー開発のあらたなパートナーとして、トヨタ自動車工業にアプローチした。既にスポーツカー開発に着手していたトヨタ側もこれに応諾し、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一の4人を中心に1964年末から共同開発が開始された。この際、同年12月末にはトヨタ側の開発メンバーがヤマハに赴き、A550X試作車を実見している。

翌1965年1月、トヨタ側の関係者がヤマハ発動機に出向。ヤマハのエンジニアと共に詳細な設計を行い、4月末に最終設計図が完成。計画開始から僅か11ヶ月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られたのである。

当時のトヨタは実用車主力のメーカーで、高性能エンジン開発や高級GTカーの内装デザインなどには通暁しておらず、2000GTの高性能エンジンや良質な内装には、ヤマハの技術が大いに役立てられている。

ヤマハ発動機は戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた技術・設備を活用するため、1950年代中期からモーターサイクル業界に参入して成功、高性能エンジン開発では10年近い技術蓄積を重ねていた。また1950年代後半以降のモーターサイクル業界では、四輪車に先駆けてSOHC・DOHC弁配置の高効率なエンジン導入・研究が進んでいた。このような素地から、ヤマハはトヨタ製の量産エンジンを改良して、DOHCヘッドを備えたエンジンを製作することができた。

またヤマハは楽器メーカーが前身で、楽器の材料となる良質木材の取り扱いに長けていたことを活かし、インストルメントパネルとステアリング(ともにローズウッド製)の材料供給・加工までも担当した。

その後の実車生産についても、ヤマハおよびその系列企業に委託されたこともあり(後述)、(しばしば前後に、自社技術のアピールを目的として 2000GTを市販したトヨタへの侮蔑的言辞を伴って)「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする辛辣な評、更には「日産・2000GT試作車=トヨタ・2000GTの原型」とまで断じる極端な説も流布している。

このような批評や風説が生じた背景には、トヨタ側単独でのシャーシ開発期間がわずか数ヶ月間ほどで、あまりに短すぎるのではないかという現実的疑問、およびA550XとトヨタGTの開発時期がほぼ前後していて、ヤマハが日産からトヨタへと提携先を変えたという経緯の不明朗さがあり、自動車マニアや自動車ジャーナリズムが元々抱いていたトヨタの技術水準への疑念[3]と相まって、トヨタへの不信となって表れたものと見られる。ただしこの種の評で、確たる一次文献や当事者の直接証言によって「丸投げ」の確固たる論拠を明確に示している事例はなく、伝聞か推測に留まっている。

このような経緯から、両社の開発分担が厳密にどのようなものだったのかについてはなお諸説紛々としているが、2000GTの開発・生産にヤマハが果たした役割が多大であったことは事実と言える。ヤマハ発動機側は2000GTの開発についての公式な言及で「ヤマハの技術供与」という表現を用いている。

生産
市販車の本格生産は、ヤマハ発動機に委託された。

鈑金・溶接・車体組立・エンジン組立・塗装の工程は、ヤマハ発動機が静岡県磐田市に新設した9号館工場で手作業によって行われ、FRPパーツ類は新居工場(浜名郡新居町)が製造し、内装パネル関係は日本楽器製造、ボディのプレス関係は1950年代にバイクメーカーとして活躍し、ヤマハの傘下に入った北川自動車工業(後のヤマハ車体工業、1993年4月にヤマハ発動機に吸収合併)が担当した。

発売価格
当時の2000GTの価格は238万円で、トヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高価であった。1967年当時の日本における大卒者の初任給がおおむね26,000円前後であったから、21世紀初頭における1,500万円から2,000万円程度の感覚にも相当する、一般の人々にとっては想像を絶する超高額車であった。

それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、全生産期間を通じて常に赤字計上での販売であった。トヨタ自動車にとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。

マイナーチェンジ
市販開始から2年後の1969年8月に、マイナーチェンジが行われた。2000GTは、このマイナーチェンジより前の前期型(1967年5月から1969年7月生産)と、その後の後期型(1969年8月から1970年10月生産)に大別される。

2300GT
2300GTと称する、SOHCエンジンを採用した車輌も開発された。この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められ、アメリカ市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようであるが、結局はトヨタ自動車内部での反発に遭いお蔵入りとなってしまった。

生産台数
赤字生産が続いており、イメージリーダーとして十分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了した。

2000GTは、1967年5月から1970年8月までの3年3ヶ月で337台が生産された。

2300GTは試作車が市販直前の状態まで完成しており、アメリカに10台前後存在していることが絶版車雑誌で紹介されたことがある。なお、こうした試作車は2000GTの生産台数337台には含まれていない。

ほかに、リトラクタブル・ヘッドライトが固定式ライトに変更された車も試作されたが、市販されなかった。

生産終了後
生産終了後、希少価値もあり、2000GTの存在は日本国内外で後年まで伝説的に語られるようになった。熱心な愛好者によるクラブも日本国内外に存在する。日本車における絶版車の人気車種として筆頭に上げられる車種の一つになり、中古車市場では多くの場合プレミア価格が付いて、良好な状態の2000GTは2000万円を超える価格で取引される事もある。また近年では、新車時に日本国外に輸出された2000GTを日本に逆輸入する例も多数生じている。

DOHCエンジン、4輪独立懸架、5段フルシンクロメッシュ・トランスミッション、4輪ディスクブレーキ、ラック・ピニオン式ステアリング、リトラクタブル・ヘッドライトは、トヨタ自動車ではこの車から本格採用された。これらは1980年代以降、量産自動車において珍しくない装備となっているが、1960年代中期においてこれらを全て装備している自動車は、当時としては最上の高性能車と言えた。軽量化のために専用デザインの鋳造マグネシウム製ホイールを用いたことも異例である。

ボディ
当時のスポーツカーデザインの基本に則って長いボンネットと短い客室部を低い車高に抑えつつ、全体に流麗な曲線で構成されたデザインは、先行して開発されていたジャガー・Eタイプ(1961年)などの影響を指摘されることもあるが、当時の日本の5ナンバー規格の枠内でコンパクトにまとめられながら、その制約を感じさせない美しいデザインとして評価が高い。ヘッドライトを高さ確保のため小型のリトラクタブルタイプとし、固定式フォグランプをグリルと併せて設置したフロント・ノーズの処理も、独特の魅力があった。

このデザインは発表当時トヨタ自動車の社内デザインであるとのみ公表されたが、トヨタ自動車のデザイナーであった野崎喩(のざき さとる)を中心にデザインされたことが21世紀に入ってから明らかにされ、野崎本人によってスケッチやデザイン過程についての談話も公表されている。野崎は2000GTのデザイン以前の1963年に、デザインを学ぶためアメリカのアートセンター・スクールへ留学した経験があり、その当時のスケッチが2000GTのモチーフになったという。

ただし特に日本国外では(ヤマハ発動機が日産自動車とのスポーツカー共同開発を目論んだ経緯から)、それ以前にシルビア(初代)のデザインを監修した[5]とされるドイツ系アメリカ人デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツが、2000GTのデザインも手がけたという説が、広く流布している。もっともゲルツ自身は晩年、日本の自動車雑誌『オールドタイマー』誌の直接インタビューで、トヨタ・2000GTへの関与を明白に否定している。

ゲルツ・デザイン説の正確な出所は不明だが、日産へのアドバイザー関係が風説の原因と見られる。前述の「ヤマハへの開発丸投げ・買い取り」評の存在や、当時のトヨタ自動車に自社で(もしくはさらに広い意味で、「当時の日本人のセンスでは」)このようなデザインを行える筈がない、という先入観も、ゲルツ・デザイン説が広まる要因となっているようである。

内装はヤマハ製のウッドステアリングとインストルメントパネルをはじめ、回転計などを追加した多眼メーター類や豊富なアクセサリーの装備で、2人の乗員に十分な居住性を確保しながら「高級スポーツカー」らしい演出を図っている。この時代の日本車としては、異例の高級感がある良質な仕上がりであった。ハンドブレーキがダッシュボード下部配置の「ステッキ型」であることが、やや古風な点と言える。

ボディーカラー
ボディーカラーは、前期型では次の3色である。
* ペガサスホワイト
* ソーラーレッド
* サンダーシルバーメタリック

後期型では次の3色が新たに採用され、計6色となった。
* ベラトリックスイエロー
* アトランティスグリーン
* トワイライトターコイズメタリック(ブルーメタリック)

シャーシ・パワーユニット
古典的スポーツカーらしくボディとは別体となるシャーシは、ジャガーやロータスなどでの先行例に倣ったX型バックボーンフレームで、低重心・高剛性を実現した。

サスペンションについては、トヨタ車としては初めての本格的な四輪独立懸架となり、前後輪ともコイル支持によるダブル・ウィッシュボーンとして操縦性と乗り心地の両立に成功している。

また、操縦性に配慮してステアリング機構はラック・アンド・ピニオン式とし、高速域からの制動力確保を企図して日本初の4輪ディスクブレーキ仕様とした。

エンジンは、クラウン用として量産されていた当時最新鋭の直列6気筒7ベアリングSOHCエンジンである「M型」(1988cc・105PS)のブロックを流用し、ヤマハの開発したDOHCヘッドに載せ替えるなどして強化した「3M型」を搭載した。3M型は三国工業(現・ミクニ)がライセンス生産したソレックス型ツイン・キャブレターを3連装され、150ps/6600rpm(グロス値)という、当時の日本製乗用車の中でも最強力クラスの性能を得た。これにフル・シンクロメッシュの5速マニュアルトランスミッションを組み合わせた2000GTは、0 - 400m15.9秒の加速力と、最高速度220km/h(最大巡航速度は205km/h)を実現、当時の2リッター・スポーツモデルとしては世界トップレベルに達した。

しかし、ベースが量産型実用エンジンということもあり、ノーマル状態では極限までの高性能は追求せずに、公道用のGTカーとしての実用性をも配慮したチューニングが為されている。このため3M型は、その外見的なスペックの割には低速域から扱いやすいエンジンであったという。

前期型と後期型の違い>
前期型と後期型では、次の点が異なる。

* フロントマスク部のデザイン変更(フォグランプのリムが小型化され、グリルとの一体感を増し、よりモダンな印象を与えるデザインとなった。)
* フロントウィンカーランプカバー及びリアサイドリフレクターの形状変更・大型化
* インパネ部のデザイン変更
* ステアリングホイールのホーンボタンの形状変更・大型化
* ヘッドレストの追加
* カークーラーの追加
* トヨグライド(AT)タイプの追加
* ボディーカラー種類の追加

トヨグライド(3速オートマティック)タイプの追加は、主にアメリカでのイージードライブ需要を考慮しての措置である。

アメリカでのレース参戦
アメリカのレースには、1968年にSCCAクラスCシリーズに参加。

第1戦 2月25日 2/4位
第2戦 3月10日 失格
第3戦 3月31日 3/4位
第4戦 4月21日 1/2位
第5戦 6月24日 2位
第6戦 7月7日 2/3位
第7戦 7月21日 3/5位
第8戦 8月4日 3位
第9戦 8月26日 失格
第10戦 8月31日 1/2位
第11戦 9月9日 1/2位
第12戦 9月15日 2/5位
最終戦 11月23日 4位
※最終成績は4位であった。

* ドライバー デイブ・ジョーダン(23番、シャシーNo.10001)、スクーター・パトリック(33番、シャシーNo.10005)

尚、シャシーNo.10006は里帰りし、スピードトライアル車のレプリカとして作り直された。この車両は現在、トヨタ博物館で見ることができる。レースのマネジメントはキャロル・シェルビーに依頼。

シャシーNo.10001及びNo.10005は、米国で個人のコレクターが所有している。

スピード・トライアル
市販前年の1966年10月1日から4日には、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場(現在の日本自動車研究所)にて、国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦した。

種目はスポーツ法典Eクラス(排気量1500~2000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1000マイル、2000マイル、5000マイル、10000マイル(排気量無制限)、2000km、 5000km、10000km、15000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。当時はポルシェ、クーパー、トライアンフ等、ヨーロッパの錚々たる一流メーカーがこれらの記録を保有していた。樹立した記録は次のとおり。

6時間 210.42km/h
72時間 206.02km/h
1000マイル 209.65km/h
10000マイル 206.18km/h
15000km 206.04km/h

なお、このトライアルは途中で台風に見舞われるなど、非常に過酷なものであった。

その他
* 発売開始1年前の1966年には、サントリービールのキャンペーン「スコール・クイズ」の1等賞品にもなっていた。ビールの薀蓄にまつわるやや難解な30問のマニアックなクイズが出題され、応募総数46万6,259通のうちの全問正解者13万2,745名の中から厳正な抽選が行われた。1等賞品(サントリービール博士賞)のトヨタ2000GTを獲得したのは、新潟県に住む女性であった。
,br> * 印象的かつ魅力的なデザインに収められた丸型テールランプレンズは、実は当時のトヨタのマイクロバス用のパーツを流用したものであった。2000GTに限らず、多くの有名な少量生産スポーツカーには、外装パーツにも量産車からの流用品を用いるケースが見られる。

* タカラトミーで発売されているミニカーブランドのトミカでは、1970年の発売開始と同時にラインナップに登場し、実車の製造中止以降も人気が高く、1981年まで発売が継続された。その後も特注品や復刻品が数多く発売され、メーカーで実施した人気投票でも一位になるなどの人気を誇ったが、金型の消耗が激しくなり途中で生産不可能となってしまった。ところが2002年にトミーは2000GTの新規金型を製造し、トミカリミテッドで『新発売』された(ただし当時の製品が後期型なのに対し、前期型となっている)。トミカで同一車種の金型を再製造、発売したのは現時点ではこれが唯一であり、実車の人気の高さが伺える。

* トヨタ自動車の工場見学に行くと、おみやげとしてもらえるモデルカーは長らく2000GTであった。しかし近年、プリウスのモデルカーに交代したらしい。このモデルカーは実際にバネ動力で走行することが可能。一般向けの販売はされていない、非売品である(トヨタ博物館で2006年12 月に開催された特別展「プラモデルとスロットカー」で、一日限定200個という数ではあるが、小中学生向けの体験工作イベント用として無料配布された。工場見学の際にもらえるものはもっともポピュラーな実車の色である「白」なのだが、このイベントで配布されたものは水色だった)。

* 現在は流通している数(タマ数)が非常に少なく、価格は程度の良いものでは1500万円~2500万円以上である。

* 当時純正として装着されていた「マグネシウムホイール」は販売から40年程経過し「腐食」に悩む所有者が多いことから、ある有名ホイールメーカーからデザインは変えずに材質だけを「アルミニウム」に変更して販売されていた。

* 一般発売前に撮影された映画『007は二度死ぬ』(1967年)に登場してカーチェイスを披露、日本車で唯一ボンドカーとなった自動車とされている[8]。この際は試作車をベースとしてオープン仕様で制作された。工場関係者の証言で2台が製作されたとの説もあるが、撮影車と予備車が同時に撮影された資料は見つかっておらず、改造台数が1台か2台かは確定していない。

* 2009年の東京オートサロンではフェアレディZ (S30型)ベースの2000GTが展示されていた。

脚注
1. ^ ヤマハには四輪自動車開発への意欲もあったが、実際の四輪車に関する基礎研究・開発は、二輪業界で同業であった本田技研に比べると立ち後れており、これが日産やトヨタとの提携に繋がったと言える。ヤマハ自体は後年に至るまで自社ブランドの本格的四輪自動車は製造・販売に至っていない。

2. ^ 「日産・2000GT」とも通称される。後のトヨタ・2000GTとは異なるデザインを持ち、エンジンもヤマハが関与した2リッター直列4気筒DOHCで、6気筒のトヨタとは相違する。

3. ^ 1960年代から1970年代にかけてのトヨタの量販車種販売スタンスは、競合メーカーよりも保守的で堅実な設計を採り、技術的失敗を避けながら価格を抑えつつ、オプションをも充実させることで市場競争力を確保するものであった。これは当時の日産自動車のキャッチフレーズ「技術の日産」と対比され、巷間「販売のトヨタ」と評されたが、この表現は、製作可能であるか否かはともかく、生産車両に最新テクノロジーを導入することには慎重・消極的な企業である、という当時のトヨタへの一般的評価をも示唆するものと言える。

4. ^ 実際は、日産A550X=4気筒のモノコックボディ車、トヨタ2000GT=6気筒のバックボーンフレーム車、と基本構造からして大幅にかけ離れている。これに限らず、日産・ヤマハの試作車は未公開のプロトタイプという事情から一般にそのスペックや成立過程が十分周知されておらず、トヨタ・2000GTと絡めた様々な推論・憶測を生じさせる原因となっている。更に、トヨタ側プロジェクトリーダーの河野二郎は、後にトヨタのレース監督を務めた際、試作レーシングカーによる死亡事故の詳細事情隠蔽などの問題を起こした。このため、トヨタ2000GTの開発経緯に「丸投げ」疑惑を抱く人々は、企業の体質に対する不信もあって、開発関係者の直接証言や公になった関係資料に対してまでもその信憑性を疑問視しがちで、実相は各車の開発から半世紀近くを経てますます解明困難な状況にある。 5. ^ 実際のシルビアのデザインは日産社内デザイナーによる。

6. ^ 自動車評論家の山口京一は、生前のゲルツから日産・A550Xのデザインに携わったという証言を得ているといい、これを引いてやはり評論家の福野礼一郎も日産経由のゲルツ・デザイン説を推しているが、トヨタ・2000GTそのものを指してのゲルツ自身によるオールドタイマー誌証言の存在から、推論として飛躍していることは否定できない。

7. ^ トヨタではこれ以前の1947年にトヨペットSA型で前輪ウィッシュボーン、後輪スイングアクスルの四輪独立懸架を導入していたが、当時は技術が未熟で実用上耐久性不足な失敗に終わっていた。

8. ^ 但しジェームズ・ボンドの愛車(イギリス情報部の与えた特別仕様車)ではなく、丹波哲郎演じるタイガー・田中率いる日本の諜報部の所有車という設定で(運転したのは若林映子演じるアキ)、厳密には「ボンドカー」の範疇には含まれない。

[ 2009/04/26 09:45 ] TOYOTA | TB(0) | CM(0)

Sports 800 4'25"

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トヨタ・スポーツ800(トヨタ・スポーツはっぴゃく)とは、トヨタ自動車が1965年から1969年にかけて製造した小型のスポーツカーである。車体型式はUP15。

超軽量構造と空気抵抗の低さで、非力ながら優れた性能を発揮したことで知られる。愛好者からはヨタハチの通称で呼ばれる。

本田技研工業が1963年から生産した、ホンダ・S500に始まるSシリーズとは好敵手として並び称され、1960年代の日本製小型スポーツカーの秀作として評価が高い。

当時トヨタが生産していた最小のモデルである大衆車パブリカのエンジンとシャシーを流用することを前提に、1962年からトヨタの系列会社である関東自動車工業で開発に着手した。開発には、パブリカ開発時の主査で、後に初代カローラの開発でも主査を務めた長谷川龍雄が携わっている。

当初は「パブリカ・スポーツ」の名称で開発が進められ、非力なパブリカ用エンジンで高性能を確保するため、航空機さながらに徹底した軽量化と空力抵抗の抑制が図られた。このためオープンボディながら難易度の高いモノコック構造を採用し、市販型でも重量は僅か580kgに抑えられている。

ボディスタイリング
関東自動車工業の回流水槽で研究を重ねるなどして空気抵抗軽減を重視したデザインを企図した結果、徹底して丸みを帯びた全長3585mm×全幅1465mm×全高1175mmという小さな2シーターボディは、凄みは皆無だが大変愛嬌のある形態となった。空力対策としてヘッドライトをプラスチックでカバーしたその造形は同社の2000GTでのフォグランプ処理を彷彿とさせるが、実際には相似を狙った訳ではない。

原型のスタイリングデザインについては、日産自動車出身で当時関東自動車工業に移籍しており、ダットサン110/210やブルーバード310 をデザインした佐藤章蔵が手がけた、と一般に伝えられている。だが長谷川龍雄が後年語ったところによれば、現実のスポーツ800のデザインの大部分は長谷川と関東自動車社内スタッフとが手がけたもので、どちらかといえば直線的デザインを好んだ佐藤が寄与した部分は少ないという。

長谷川は元航空技術者で、第二次世界大戦中は軍用機開発に携わっていた。航空機的な発想は、試作車においてドアの代わりにスライド式キャノピーを採用したことからも伺える。しかし、さすがに乗降や安全性の面で問題があり、市販車では通常型ドアと、より現実的な着脱式のトップとの組み合わせを採用した。ポルシェ・911での同例に用いられていた呼称を流用して、後年「タルガトップ」と呼ばれるようになったが、実はポルシェよりも採用は早い。

エンジン・シャーシ
ほとんどの機器類をパブリカからの流用もしくは強化で賄っている。フロントを縦置きトーションバー式ダブルウィッシュボーン独立、リアをリーフ・リジッドとした基本レイアウトもそのままである。ブレーキもまだ前後ドラムではあったが、さすがにシフトレバーはフロアシフト化されていた。

パワーユニットは、当初、パブリカ用のU型(空冷水平対向2気筒OHV・ 700cc)エンジン流用が考えられていたが、150km/h以上を企図した性能確保には非力であり、約100ccの排気量拡大とツイン・キャブレター装備によって、790cc,45ps(エンジン形式は2U型)とした。それでもまだ非力としか言いようがなかったが、超軽量空力ボディの効果は大きく、 155km/hの最高速度を達成した。同時期に高回転高出力エンジンを700kg級の車体に搭載したホンダのS600とは、対極的な発想に位置する。

販売
1965年3月から市販された。東京地区標準発売価格は59.5万円で比較的廉価に設定されていた。ホンダS600の56.3万円と大差なく、当初から競合モデルとして考えられていたことが伺われる。

しかし、小型といえど2シーターのスポーツカーが大量に売れる程の情勢には至っておらず、日本国外への輸出もほとんど行われなかった。1969年の生産中止までの総生産台数は、3131台に留まっている。

レース活動
日本で自動車レースが盛んに成りつつあった時期の出現であり、好敵手と言えるホンダ・S600の存在もあって、「ヨタハチ」は日本国内の自動車レースで多くの逸話を残した。

高性能エンジンを搭載してとにかく速いが、重く曲がりにくく燃料を食うホンダS600に対し、「ポロポロポロ…」あるいは「バタバタバタ…」と気の抜けた2気筒エンジンの音を立てながら走るヨタハチは、その軽さによって操縦性が良かったことに加え、燃料消費やタイヤ摩耗が少ないため、結果としてピットイン頻度を他車より少なくできるという意外な強みがあった。ことにピットインによるロスタイムが勝敗に大きく影響する長距離レースでは、その「経済車」たる長所が大いに役立った。

「ヨタハチ」による名勝負として伝説的に語られるのは、1965年7月18日の船橋サーキットにおける全日本自動車クラブ選手権レースでの浮谷東次郎の優勝である。 1300CCまでのカテゴリーGT-Iレースの序盤に、雨中決戦で生沢徹のS600のスピンに巻き込まれ、クラッシュによって少破しピットインした浮谷のヨタハチは一時16位にまで後退しながら、その後驚異的な追い上げによって順位を一気に取り戻し、ついには先頭を走る生沢のS600を抜き去り、さらに2位以下を19秒以上引き離し優勝した。

その他
トヨタが1965年から研究を進めていたハイブリッドカーの試作車両として、1977年の東京モーターショーにこのスポーツ800のボディとガスタービンエンジン及び電気モーターによるハイブリッドシステムを組み合わせた「トヨタスポーツ800・ガスタービンハイブリッドカー」を出展している。外観上ではボンネットに大型のエアスクープを備える点でノーマル車と異なっており、ミッションも2速しかない。

[ 2009/04/27 18:02 ] TOYOTA | TB(0) | CM(0)

Skyline 2000GT-R KPGC10 9'08"

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GT-Rは、C10型(通称:ハコスカ)から続くスカイラインの中でもサーキットでの使用を主眼にして開発(メーカーチューン)された車両である。乗用車ベースでありながらレースで勝つことを使命とし、スカイラインの他のグレードと違った装備やエンジンを搭載し、他の国産スポーツカーにも影響を与えるほどの車である。それゆえに熱狂的なファンが多く、エンジニアにも特別のこだわりがある。そのためにGT-Rの名を冠することが許されなかったモデルもあり、それがGT-Rの存在をより特別のものとしている。

「世界的に有名な3つのアルファベットがあります。G, T, Rです。私はここでお約束いたします。必ずGT-Rは復活します。」と2001年東京モーターショーのプレス・カンファレンスでカルロス・ゴーンCOO(当時)が“GT-Rコンセプト”を前に、プレゼンテーションの冒頭で発言した。徹底した合理化戦略ばかりが取り上げられることが多いゴーンにこのような内容を託したことからも、この車に懸ける日産の姿勢が伺える。この約束をカルロス・ゴーンは果たし日産・GT-Rを2007年10月24日第40回東京モーターショーで量産型が発表され2007年12月6日に販売される事となる。 特にR32型からではあるが、海外のレースで大いに活躍した功績から、Rの評判は国内のみならず世界にもその名を知られており、ゴジラ(Godzilla)と呼ばれる程浸透している。それ故に、スカイラインはほぼ国内販売専用車であるが、R32、R33、R34のGT-Rが輸出業者の手により海外へと渡っている。評判は非常に高く、正規輸出としてもR33GT-Rはモデル末期に100台限定で、さらに、R34GT-Rも同じくV-specが100台限定ながらイギリスで販売された。

これは日産自動車側に「海外でも販売して欲しい」と言う要望が強かったことと、ル・マン24時間耐久レースに、「NISMO GT-R LM」として出場した事によりヨーロッパでの知名度が上がった事を受けてのことである。イギリスでは関税の影響で、日本円に換算すると1080万円する(国内仕様のV-specIIの新車価格は 574.8万円)事で、高所得層しか購入出来なかったが、フェラーリ以上の価値(希少性)やステータスがあると言うユーザーもあり、「スポーツ走行が出来る程高性能なのに、家族も乗せられる」と、実用面に対しての満足度も非常に高い。英国の自動車誌では、「パフォーマンスとテクノロジーは最高だが、見た目は東京タクシーのようだ」と評されたが、この書き方は英国流のジョークであり、むしろ「外見が普通の乗用車的なのに中身はスポーツカー」というコンセプトが、新鮮なものとして受け入れられている事の裏返し的表現である。現に「カーガイ(クルマ好き)」には好感を持って迎えられた。なおこの計200台はいずれも数日で完売している。

その他、ドイツ、フランス、スイス、アメリカ、香港、UAEなどへは個人輸出された(アメリカでは州によっては基準に適合していない車を入れることは法律違反となる場合もあり、業者が警察当局に拘束、収監されてしまったケースもある)。また、SUPER GTで活躍するミハエル・クルムも日本国内でR34GT-Rを2台購入し、モナコへ輸送している。

英国仕様は、国内仕様とは特に大きな差異はないが、R34型は現地の法規に合わせた対応(セキュリティの強化やヘッドライトのハロゲンバルブ化(保安基準に適合しなかったための変更)、スピードリミッターを欧州の自主規制値である250km/hへ引き上げ、及び200マイル/hスケールスピードメーターの採用等)や、後に国内仕様のMスペックにも採用された本革シートが装備されている(英国仕様の本皮はコノリー社により手作業で張られたもので、日本のラインナップには無かった赤色表皮も選択出来、一応日本でもNISMOから20脚限定で発売されていた)。

ハコスカ時代、初代GT-Rが発売される前年の1968年東京モーターショーには市販直前型のプロトタイプが参考出品されているが、この時点ではまだGT-Rの名は明かされておらず、2代目スカイラインのホットモデルに付けられたGT-AおよびGT-Bの流れを汲み、市販時にはGT-Cとなるとの噂もあった。

GT-Rはストックの状態で、既にチューニングカーとしての完成度が高いことから、無闇に手を入れることを嫌うオーナーが多い。また、標準モデルに GT-Rのエンブレムをつけたりバンパーを移植するなどして、GT-Rっぽく見せるチューニングも多く行われることからGT-Rのスタイルの人気が伺える。もちろんコアなチューニング好きに、内に秘めるエンジンパワーをしっかり受け止めるために外装に大幅なモデファイが加えられることも多い。

モータースポーツ活動
スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦しているが、本格的に参戦したのはS54型による第二回日本グランプリが最初。ホモロゲーションモデルであるGT-A、GT-Bから「スカG」の歴史が始まった。

3代目PGC10型/KPGC10型GT-R は国内レースで、マツダのロータリー勢に苦しめられながらも50勝を達成したほか、数々の伝説を残す。

その後、R30シルエット・フォーミュラ、R31・GTS-RでのグループA全日本ツーリングカー選手権参戦を経て、 グループAの頂点を目指すべく、GT-R(BNR32型)が復活、デビューからレース終焉まで29連勝の新たな伝説を築く。

全日本GT選手権では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてタイトルを獲得している。

※5代目(C210型)については排ガス規制の対策に追われたため、特にモータースポーツ活動はない。

3代目(C10型)
1969年5月 「'69JAFグランプリレース大会」クラブマンレース・特殊ツーリングカークラスでGT-R(PGC10型)がデビュー。1位でゴールしたトヨタ1600GTが走路妨害と判定され、1周減算された結果、GT-Rが優勝となる。※このときの優勝車(39号車)をエブロが1/43ミニカーとしてモデル化している。

同月 「JAF公認700キロ ノンストップラリー」にて「スポーティデラックス」が優勝を飾る。

1969年8月 「第5回モーターファン&AUTO SPORTラリー」にてGT-Rが総合3位を獲得。

1969年10月 「'69日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースにてGT-Rが1-3位を独占。

1970年3月 「JMCマウンテン・サファリラリー」に1800が参戦。1970年5月 「'70JAFグランプリレース大会」特殊ツーリングカーレースにてGT-Rが1位、2位、4位を獲得する。このときの優勝車(58号車)をエブロが1/43ミニカーとしてモデル化している。

1970年6月 「ツール・ド・ニッポン」に2000GTが出場。同月 「全日本富士300マイル」100マイルBレースにて、長谷見昌弘のドライブするGT-Rが優勝。長谷見はスペアカーで決勝に臨み、最後尾スタートであった。

1971年5月 「'71日本グランプリレース大会」ツーリングカーbレースにてGT-Rが1-3位、5位を獲得する。

1971年9月 マイナーチェンジ。1500、および1800の出力を向上。1500シリーズにハードトップ、およびGTシリーズ「ハードトップ2000GT-X」を追加された。 1971年12月「第6回富士ツーリスト・トロフィーレース」で50連勝をかけたレースで、GT-R勢にトラブルが相次ぎサバンナとの戦いに敗れる。

1972年3月 「'72富士GCシリーズNo1 富士300キロスピードレース」スーパーツーリングレースにて、GT-Rが豪雨の中、高橋国光が全車を周回遅れにして1位、プライベートの久保田洋史が2位、同じくプライベートの河原伸光が6位を獲得し、通算50勝を達成する。

1972年5月 「'72日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースbにGT-Rが出場。表彰台をマツダのロータリー勢 サバンナ、カペラに独占され、GT-R勢は4-6位。

1972年9月 「'72GCシリーズ 富士インター200マイルレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースにてサバンナとこれまでに無いほどの熾烈な戦いを制し、北野元が駆ったGT-Rが1位、プライベートの久保田洋史が3位、同じくプライベートの正谷栄邦が6位を獲得し、通算52勝目を飾る。

1972年10月 「'72GCシリーズ第4戦 富士マスターズ250キロレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースに黒沢元治と長谷見昌弘の駆るGT-Rが出場。サバンナとすさまじいトップ争いを演じていたが、ラップ14で周回遅れのサバンナとともにクラッシュし、優勝を逃す。GT-Rの最高順位は4位。9月にC110型にモデルチェンジしたこともあり、徐々にKPGC10型GT-Rのレースへの出場は減っていった。

[ 2009/04/28 13:59 ] NISSAN | TB(0) | CM(0)

Nissan Skyline 2000 GT-R KPGC110 6'15"

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GT-Rは、C10型(通称:ハコスカ)から続くスカイラインの中でもサーキットでの使用を主眼にして開発(メーカーチューン)された車両である。乗用車ベースでありながらレースで勝つことを使命とし、スカイラインの他のグレードと違った装備やエンジンを搭載し、他の国産スポーツカーにも影響を与えるほどの車である。それゆえに熱狂的なファンが多く、エンジニアにも特別のこだわりがある。そのためにGT-Rの名を冠することが許されなかったモデルもあり、それがGT-Rの存在をより特別のものとしている。

「世界的に有名な3つのアルファベットがあります。G, T, Rです。私はここでお約束いたします。必ずGT-Rは復活します。」と2001年東京モーターショーのプレス・カンファレンスでカルロス・ゴーンCOO(当時)が“GT-Rコンセプト”を前に、プレゼンテーションの冒頭で発言した。徹底した合理化戦略ばかりが取り上げられることが多いゴーンにこのような内容を託したことからも、この車に懸ける日産の姿勢が伺える。この約束をカルロス・ゴーンは果たし日産・GT-Rを2007年10月24日第40回東京モーターショーで量産型が発表され2007年12月6日に販売される事となる。 特にR32型からではあるが、海外のレースで大いに活躍した功績から、Rの評判は国内のみならず世界にもその名を知られており、ゴジラ(Godzilla)と呼ばれる程浸透している。それ故に、スカイラインはほぼ国内販売専用車であるが、R32、R33、R34のGT-Rが輸出業者の手により海外へと渡っている。評判は非常に高く、正規輸出としてもR33GT-Rはモデル末期に100台限定で、さらに、R34GT-Rも同じくV-specが100台限定ながらイギリスで販売された。

これは日産自動車側に「海外でも販売して欲しい」と言う要望が強かったことと、ル・マン24時間耐久レースに、「NISMO GT-R LM」として出場した事によりヨーロッパでの知名度が上がった事を受けてのことである。イギリスでは関税の影響で、日本円に換算すると1080万円する(国内仕様のV-specIIの新車価格は 574.8万円)事で、高所得層しか購入出来なかったが、フェラーリ以上の価値(希少性)やステータスがあると言うユーザーもあり、「スポーツ走行が出来る程高性能なのに、家族も乗せられる」と、実用面に対しての満足度も非常に高い。英国の自動車誌では、「パフォーマンスとテクノロジーは最高だが、見た目は東京タクシーのようだ」と評されたが、この書き方は英国流のジョークであり、むしろ「外見が普通の乗用車的なのに中身はスポーツカー」というコンセプトが、新鮮なものとして受け入れられている事の裏返し的表現である。現に「カーガイ(クルマ好き)」には好感を持って迎えられた。なおこの計200台はいずれも数日で完売している。

その他、ドイツ、フランス、スイス、アメリカ、香港、UAEなどへは個人輸出された(アメリカでは州によっては基準に適合していない車を入れることは法律違反となる場合もあり、業者が警察当局に拘束、収監されてしまったケースもある)。また、SUPER GTで活躍するミハエル・クルムも日本国内でR34GT-Rを2台購入し、モナコへ輸送している。

英国仕様は、国内仕様とは特に大きな差異はないが、R34型は現地の法規に合わせた対応(セキュリティの強化やヘッドライトのハロゲンバルブ化(保安基準に適合しなかったための変更)、スピードリミッターを欧州の自主規制値である250km/hへ引き上げ、及び200マイル/hスケールスピードメーターの採用等)や、後に国内仕様のMスペックにも採用された本革シートが装備されている(英国仕様の本皮はコノリー社により手作業で張られたもので、日本のラインナップには無かった赤色表皮も選択出来、一応日本でもNISMOから20脚限定で発売されていた)。

ハコスカ時代、初代GT-Rが発売される前年の1968年東京モーターショーには市販直前型のプロトタイプが参考出品されているが、この時点ではまだGT-Rの名は明かされておらず、2代目スカイラインのホットモデルに付けられたGT-AおよびGT-Bの流れを汲み、市販時にはGT-Cとなるとの噂もあった。

GT-Rはストックの状態で、既にチューニングカーとしての完成度が高いことから、無闇に手を入れることを嫌うオーナーが多い。また、標準モデルに GT-Rのエンブレムをつけたりバンパーを移植するなどして、GT-Rっぽく見せるチューニングも多く行われることからGT-Rのスタイルの人気が伺える。もちろんコアなチューニング好きに、内に秘めるエンジンパワーをしっかり受け止めるために外装に大幅なモデファイが加えられることも多い。

モータースポーツ活動
スカイラインは初代モデルからモータースポーツに参戦しているが、本格的に参戦したのはS54型による第二回日本グランプリが最初。ホモロゲーションモデルであるGT-A、GT-Bから「スカG」の歴史が始まった。

3代目PGC10型/KPGC10型GT-R は国内レースで、マツダのロータリー勢に苦しめられながらも50勝を達成したほか、数々の伝説を残す。

その後、R30シルエット・フォーミュラ、R31・GTS-RでのグループA全日本ツーリングカー選手権参戦を経て、 グループAの頂点を目指すべく、GT-R(BNR32型)が復活、デビューからレース終焉まで29連勝の新たな伝説を築く。

全日本GT選手権では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてタイトルを獲得している。

※5代目(C210型)については排ガス規制の対策に追われたため、特にモータースポーツ活動はない。

1973年6月 「JAF公認・JMC主催 第10回北海道周回ノンストップラリー」にて、「セダン1800(PC110型)ラリーバージョン」が総合優勝を飾る。

1975年6月 「北海道周回ラリー」にて「セダン1800」が総合優勝を飾る。

1975年7月 「第3回JMCオーバーナイトラリー」にて「セダン1800」が優勝を飾る。

1976年11月 「JMC中部ラリー」にて「セダン1800GL」が優勝を飾る。

この年、「オーストラリア トタル エコノミーラン」にオーストラリア向けスカイライン「ダットサン240K」が出場。優勝を飾っている。

4代目 C110型(1972年-1977年)
1972年10月
第19回東京モーターショーに「ハードトップ2000GT-Rレーシング仕様」を出品。

1973年1月
「ハードトップ2000GT-R」(KPGC110型)を追加。先代同様S20型エンジン(1989cc 160ps/7000rpm、18.0kgm/5600rpm)を搭載し、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラー等を装備する他、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている。排出ガス規制の影響もあり、わずか197台が生産され、うち195台が市販されたのみで終了している。残りの2台はレースカーの試作車である。レースに出場することはなかったが、旧車趣味界においても希少なGT-Rとして知られている。この後、R32型までGT-Rは設定されていない。

製造台数が197台となった理由には、三国工業から購入したS20エンジン用ソレックスキャブレターが、 197台分だけ残っていたためである。ただし、生産台数には諸説あり、試作車も含めて少なくとも200台以上が生産されたと思われる節が見受けられる。その根拠としては旧車専門ショップ「ガレージ石坂」よりカーメイキングマナブスの社長、近藤学が購入した日産が放出した車両に刻印されていたフレームナンバーが今迄公にされてきた番号より若い上にフロントメンバーの形状が通常市販車と違い、マウントも異なっていたことから日産がロータリーエンジンを開発する際のテストベッドであった可能性も指摘されている。なお、この車両は近藤が購入後、日産から正式に生産証明を与えられ、ナンバープレートを取得して公道走行可能な状態にされている。

[ 2009/04/29 14:34 ] NISSAN | TB(0) | CM(0)

Skyline 2000GT Turbo ad 0'30"

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スカイライン (SKYLINE) は日産自動車が製造・販売している乗用車である。

1957年に富士精密工業(のちのプリンス自動車)の主力車種として生産を開始。1966年にプリンスが日産自動車と合併した後も車名が引き継がれ、長期に渡って生産されてきた。

車名は「山並みと青空を区切る稜線」に由来する。2007年3月21日、名付け親の桜井眞一郎がこの名を思いついた場所である群馬県草津町の山小屋「芳ヶ平ヒュッテ」に、生産50周年を記念して「スカイライン命名の地」のプレートが設置される。

ボディラインナップは|2009年4月現在4ドアセダンと2ドアクーペの2タイプである。また2009年夏にはクロスオーバーSUVが追加される予定となっている。過去には5ドアハッチバック、ステーションワゴン、ライトバンなども存在した時期もあるが、日産自動車の類似車種統一化政策等により、他の同クラスと統合されスカイラインとしての製造は廃止となっている。

ミドルクラスセダンに位置するが、自動車レースで用いられた過去があり、特に"GT-R"グレードは同クラスの他車に比べてレース色が強く、実際に製品としての性格付けもそのようになっている。

GT系は愛称として「スカG」(すかジー)と呼ばれることも多い。

長野県岡谷市には、単一車種の博物館としては異例ともいえる「プリンス&スカイラインミュージアム」がある。

C10型からR32型までは、型式ごとに他に例を見ないCMキャッチコピーなどに基づく愛称を持つ。

5代目 C210型(1977年-1981年)通称:ジャパン
1977年8月
C210型発売。プラットフォームは日産・ローレルと共通。ボディバリエーションはC110型と同様、4ドアセダン、2ドアハードトップおよびバンの3系列を設定し、セダンおよびハードトップには直列6気筒エンジン搭載車と直列4気筒エンジン搭載車が用意され、ホイールベースはそれぞれ2,615mm, 2,515mmとされた。バンは直列4気筒エンジンのみの設定であった。

搭載するエンジンは直列4気筒OHCがL16S型(1595cc)、L18S型(1770cc)、L18E型の3機種。直列6気筒OHCが L20S型(1998cc 115ps/5600rpm、16.5kgm/3600rpm)、およびL20E型(130ps/6000rpm、17.0kgm/4400rpm)の2 機種。

発売当初は自動車排出ガス規制の影響を受け、DOHCもターボも設定する事が出来ず、「牙を抜かれたGT」と揶揄された。

グレード体系は直列6気筒エンジンを搭載する「GTシリーズ」と直列4気筒エンジンを搭載する「TI(ツーリング・インターナショナル)シリーズ」の2系列となった。GTとTIとではラジエーターグリルおよびテールランプの意匠が異なる。GT系のヘッドライトは角目2灯式だが、TI系は丸目4灯式となる(後期型。前期型はGT系、TI系とも丸目4灯式)。テールランプは、GT系が丸型4灯式なのに対し、TI系は2段重ねの角形4灯式になる。サーフィンラインはエッジのあるブリスター形状となり、リアトレッド拡大に寄与している。足回りはフロント側がストラット式。リア側は4気筒モデルが4リンク式、6気筒モデルがセミトレーリングアーム式の組合せ。GTバッジは3種類となり、GTおよびGT-E・Lが青バッジ、GT-E・Xが金バッジ、GT- E・Sが赤バッジとされた。GT・LおよびGT-E・Xはデジタル時計が装備され、それ以外のグレードはアナログ時計が装備された。GT-E・Sにはリアワイパーおよびヘッドランプクリーナーが標準装備された。また、GT-E・SおよびTI-E・Sには4輪ディスクブレーキおよびリアスタビライザーが装備された。

1978年3月
2ドアハードトップ2000GT-E・Lおよび1800TI-E・Lに特別仕様車「ブラッキー」を設定。アルミホイール、70%扁平ラジアルタイヤ、オーバーヘッドコンソール、およびヘッドランプクリーナーを装備した。

1978年8月
L16/L18型エンジンを、急速燃焼方式(ツインスパークプラグ)を採用する直列4気筒OHC Z16/18型エンジンに変更。L20型エンジンについても一部変更が施され、昭和53年排気ガス規制に適合し、車両型式が211型となる。同時に「1800TI-E・X」を追加。

1979年7月
マイナーチェンジにより前後の意匠変更がなされる。GTシリーズは角型異型2灯ヘッドランプとされ、TIシリーズは丸型4灯ヘッドランプを継承したが、ラジエーターグリルが変更された。

1979年8月
ワゴン(WPC211型)追加。Z18型エンジンを搭載する。また、バンが昭和54年排出ガス規制対応及び一部車種にサンルーフ、本皮シート、テクニクスカーコンポがオプション設定される。

1979年11月
2000GT-Eに特別仕様車「スーパーGT」を設定。セダンはミケロッティマグネシウムホイール(クロモドラ製)、ハードトップはカンパニョーロホイールを装備した。

1980年3月
2000GT-E・Sおよび2000GT-E・Xに特別仕様車「ゴールデンカー」を設定。専用のゴールド塗装のほか、E・Sはパワーサンルーフ、カンパニョーロマグネシウムホイールを装備し、E・Xはミケロッティマグネシウムホイール、ミシュランタイヤを装備した。

1980年4月
ターボエンジンを搭載したモデルを追加。L20E型エンジンにターボがプラスされ、パワー&トルクは145ps/5600rpm、21.0kgm/3200rpmを搾り出した。発売当時の価格は165.8万円。「セドリック/グロリア」、「ブルーバード」に次ぐ日産において3車種目のターボ車であり、日産初のターボとATを組合わせた車種である。同時にノンターボの「2000GT-E」、「2000GT-E・S」が廃止となる。

1980年6月
直列6気筒OHC LD28型ディーゼルエンジンを搭載する「セダン/ハードトップ280D GTシリーズ」(EGC211型)、直列4気筒OHC Z20E型エンジンを搭載する「2000TIシリーズ」(UC211型)、100万円を下回る最廉価版「1600TI-A」(BC211S型)、およびバンに直列4気筒OHC LD20型ディーゼルエンジン搭載車を追加。280D GTはディーゼルエンジンの持ち味である低回転からのトルクをアピールされた。この当時の国産車におけるディーゼル乗用車としては最速を誇っていた。

1980年代、先代モデルのケンメリと同じく暴走族の改造車としても人気を得ていた。ケンメリ同様、ワンテール化やライト、グリルの移植が流行していた。

宮城県登米市にある警察資料館には実際に宮城県警察が使用していたC210型のパトカーが展示されており、現存する警らパトカーとしては最も古い。

[ 2009/04/30 14:52 ] NISSAN | TB(0) | CM(0)
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