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「GT by Citroën」アンヴェイル 2'07"

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GT by シトロエン '08とは、ポリフォニー・デジタルのグランツーリスモ5プロローグで登場する自動車である。 また、パリショーでのショーカーである。

グランツーリスモ5プロローグSpecIIIでのスペック

* エアロダイナミクス
o F:80
o R:145

* パフォーマンスポイント(タイヤF/R:R3)
o 943

* スプリングレート
o F:3
o R:3

* ダンパー
o F:2
o R:2

* トー角
o F:0.00
o R:0.00

* ネガティブキャンバー角
o F:1.5
o R:2.0

* 前後駆動力配分
o F:45
o R:55

グランツーリスモ5プロローグSpecIIIでの価格・カラー

* 価格
o Cr.100,000,000

* カラー
o 20色
+ ホワイト系2色
+ シルバー系2色
+ グレー系3色
+ ブラック系1色
+ ブルー系2色
+ ゴールド系3色
+ イエロー系1色
+ レッド系3色
+ グリーン系3色

加速 0~100km/h 3.6秒 1km走行(0km/h~) 20.4秒 最高速度 330km/h以上

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[ 2008/11/06 16:21 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

The New Citroën C5 - Unmistakeably German 1'31"

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シトロエン・C5はフランスの自動車メーカーシトロエンが生産する中型ファミリーカーで、2001年にエグザンティアの後継車種として誕生した。

2代目(2007年-)
2代目のC5はヨーロッパでは2007年10月に発表され、4ドアノッチバック及びステーションワゴン(ツアラー)ボディが用意されている。パワートレーンには2700ccV6HDI ディーゼルエンジンが追加されている。セダンがGSA以来続いた5ドアハッチバックではなくなったこと、C4・C6と続いたセンターメーターが通常の位置に戻され、ハイドラクティブではない通常のコイルサスペンション版も用意されるなど、最近のシトロエンの中でも比較的保守的な設計となっている。

日本ではプジョー・シトロエンの両日本法人が統合されて2008年に発足したプジョー・シトロエン・ジャポンから、2008年10月1日より発売された。従来通り2リッター直4・143psの「2.0」(399.0万円・ツアラー419.0万円)と、3リッター V6・215psの「3.0エクスクルーシブ」(479.0万円・ツアラー499.0万円)の4モデルが設定され、日本仕様は全てハイドラクティブサスペンション付きとなっている。旧型より全長で+55mm、全幅+80mm、ホイールベースで+65mm大型化され、価格も旧型2.0LEと新型2.0との比較で35万円上昇している。

[ 2008/11/07 16:59 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën C4 TransFormer CM 0'32"

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シトロエン・C4 (Citroën C4)とは、フランスの自動車製造会社シトロエンが製造する中型ハッチバック自動車である。

シトロエン・クサラの後継車として2004年から発売され、フォルクスワーゲン・ゴルフ、ルノー・メガーヌ、プジョー・307などと同じくCセグメントに属す車。PSA・プジョーシトロエンに属するプジョーのプジョー・307とプラットフォームやエンジンなどを共有している。フロントグリルにはダブルシェブロン(歯車の名称)をデザインモチーフに使っている。(同社フラグシップカーのC6やC5も同じ)

「シトロエンらしく」他の車にはあまり見られない装備を用いている。

* センターパッドが回転しない「センターフィックスステアリング」を採用。一般的な自動車のステアリングホイールは、センターパッドとリム(外周)部分が一体になっており共に回転するが、C4では両者が分割され、センターパッドは固定されていて回転しない。その事により、センターパッド部分に配置されているクルーズコントロールやオーディオスイッチが操作しやすく、衝突時のエアバッグの適正な展開が可能。

* 上級グレード車に装備される「ディレクショナルヘッドライト」は、ステアリングに連動してヘッドライトの光軸を車が曲がる方向に向け、曲がる先の視界を確保するというもの。シトロエンのかつての上級車種DSやSMを想起させる装備ではある。

* 室内の芳香のため「フレグランスエアフレッシュナー」を標準で装備する。専用のフレグランスをセンターベンチレーターの横のに挿入すると芳香剤がほのかに香る。専用芳香剤には、「バンブー」「スイートラベンダー」「ロータス」など九種類がある。

* メーターはセンターメーターを採用しており、表示はデジタル。また、パネル自体が透けている。タコメーターもデジタル式だが、センターメーターとは分かれており、ステアリングコラムの上に設置されている。

* 本国仕様には良燃費のディーゼルエンジンが存在し、車線逸脱防止装置などの先進装備もオプションで用意されている。

スタイリング面では、先代のクサラや先々代のZXと比べればシトロエン「らしさ」を取り戻しており、また、上記のような他では見られない機能、装備を用いている部分もあるが、全体の構成としては、現代のこのクラスの乗用車としてはごくごく一般的な機構を用いており、かつてのシトロエン車に見られたような、独創的、あるいは、独善的とも言える特異さは大分影を潜めている。

サスペンションも、シトロエンの代名詞とも言えるハイドロニューマチックや、それから発展したシステムは用いられておらず、スプリングは一般的な金属ばねを用いている。

008年7月にはマイナーチェンジが発表され、実車は同年8月モスクワ・モーターショーで公開された。主な変更点は、フロント周辺デザイン刷新(このため全長が15mm延長)、メーターレイアウト変更(ステアリングホイール前の小メーター廃止)、ガソリンエンジンのプジョー・308と同じドイツ・BMW社との共同開発の新ユニットへの換装、ディーゼルエンジンの出力アップ等である。車種名称も見直され、ガソリン1600ccモデルがVTi120、同2000ccはTHP150、ディーゼルはHDi 92、HDi 110 FAP、HDi 140 FAPなどと呼ばれる。

サルーンは5ドアで、1.6Lと2.0Lのエンジンを積み、トランスミッションは4EATのみ。また、2.0Lにはディレクショナルキセノンヘッドライトや前後パークアシスタンス等を追加した上級グレード「エクスクルーシブ」が選べる。また、2008年5月には、従来限定モデルとして売られていた、1.6Lモデルにディレクショナルヘッドライトや前後パーキングアシスタンス等を追加した 1.6EXが正規バリエーションとして発売された。Cd値は0.29。

クーペは3ドアだがリアデザインがサルーンとはまったく異なる点が特記される。 1.6LVTRと2.0LVTSの種類があり、トランスミッションは1.6VTRに4EAT、2.0VTSに5MTが装備される。また、2.0LVTSはサルーン2.0の「RFJ」エンジンよりもチューナップされている、「RFK」エンジンが装着されている。Cd値は0.28。

なお、サルーン、クーペの2.0Lのみ、ASR(アンチスケーティングレギュレーション)とESPが標準装備される。(2008年5月に追加された1.6Lモデル、1.6EXにも標準装備)またパノラミックガラスルーフが全モデルにオプションで設定される。

当初は「レザーパッケージ」(シートヒーター付きレザーシートと革張のフロントセンターアームレスト、サルーンにはメモリー付パワーシート、 1.6Lには電動格納ミラーも含まれる)もオプション設定されていたが、2008年5月の1.6EX追加と共に設定廃止された。なお、遠くない将来、マイナーチェンジ版に切り替えられる見通しである。

2007年より、クサラの後継マシンとしてWRCにクーペVTSをベースにした「C4WRC」がデビューし、開幕戦のモンテカルロ・ラリーでいきなりのデビューウィンを飾った。

また、参戦を記念して「C4 by LOEB(ローブ)」が特別仕様車として販売された。(日本仕様は32台限定であった)

[ 2008/11/08 17:23 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën DS Commercial 0'47"

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シトロエン・DS(Citroën DS)は、フランスの自動車メーカーであるシトロエン社が1955年に発表した前輪駆動の大型乗用車である。

宇宙船にも譬えられた流線型の未来的スタイリングに、エア・サスペンション(および変速機等の多くの附属機器類)を油圧遠隔制御する「ハイドロニューマチック・システム」を搭載した、野心的設計の自動車である。極めて優れた居住性と高度な走行性能を同時に実現し、あらゆる面で同時代の他の自動車から隔絶した存在であった。

あまりに常軌を逸したアバンギャルドぶりから、登場時には「10年後の車」「20年進んだ車」と言われたが、実際1955年から1975年までの約20年間、フランス車の最高級レンジを担うモデルとして第一線に在り続け、アップデートを繰り返しながら(派生形の「ID」等も含めた)合計で、約145万5,000台(うちフランス本国生産は約133万台)が製造された。

本項ではDSのほか、派生形である「ID」についても記述する。

出現以来、その度外れて大胆なボディ・スタイリングに起因する強烈な存在感と、自動車設計の理想を徹底追求した結果の極めて異例である複雑な機構によって、機械工学や工業デザインの面はおろか、社会文化面からも興味深い研究対象とされてきた。哲学者ロラン・バルトが、発表されて間もないDSについて一篇の批評を残したことはよく知られる逸話である。

車名「DS」は、フランス本国では「デ・エス」と発音される。その正確な語源は「開発コードの省略形」とも「Désirée Spéciale」(特別な憧れ)の略とも言われるが詳細は不明である。しかし「DS」が、全く同じ発音の「女神」という意味のフランス語「déesse」(デエス)を意味しているという説も根強い。その名に相応しく、この車は発表後50年、製造終了後30年以上を経て、なお世界各国に熱狂的な崇拝者・愛好者が多数存在する、伝説化したカルトカーである。

1999年には、全世界の自動車評論家・雑誌編集者等の意見を集めて選考された「20世紀の名車ランキング」であるカーオブザセンチュリーにおいて、1位のフォード・モデルT、2位のBMCミニに次ぐ第3位の偉大な自動車という評価を受けている。多くの名高いスポーツカーや高級車を尻目にこれほどの高評価を与えられた事実は、自動車史上におけるDSの存在意義を如実に物語っていると言えよう。

だがDSについて、あまり語られる事は無いが特に重要な点は、元々はDSが、一般社会と隔絶した「超高級車」としてではなく、いわゆる「マニア」と呼ばれる様な人向けでもなく、安価な大衆車ではなかったもののごくごく一般的なユーザー向けの実用車として企画され、少なくともフランス国内ではそのように受け取られて、タクシーにさえ使われたと言う事である。これをトヨタのラインナップになぞらえれば、DSはセンチュリーではなく、かつての2000GTでもなく、それらよりは、はるかに一般向けに量産されたクラウンのような存在であったと言えよう。そうした車に、このような理想主義的かつ高度な設計を用いたことこそが、実はDS、そして、シトロエン社の真に偉大な所なのかもしれない。

トラクシオン・アバン
シトロエン社は1934年に開発された7CV「シトロエン・トラクシオン・アヴァン」で、初めて前輪駆動方式を採用した。量産モデルへの前輪駆動導入は世界的にも早い時期の試みであり、以後のシトロエン社は、乗用車はもとより、商用車についても前輪駆動方式を積極的に導入していくことになる。

当時としてはウルトラモダンな設計の「トラクシオン・アバン」シリーズは、当初の4気筒1303cc形「7CV」に続き、1934年中に4気筒1911ccの「11CV」、更に1938年には6気筒2867ccの「15CV-six」が追加され、第二次世界大戦中の製造休止はあったものの、15CVは1955年、11CVは実に1957年まで生産されるロングセラーとなった。これを手がけた主任設計者は、ヴォワザン社出身の元航空技術者アンドレ・ルフェーヴルAndre Lefebvre(1894年-1964年)だった。前輪駆動のほか、モノコック構造やトーションバーによる独立懸架機構などの先進的なメカニズムを多数導入したことは大きな業績である。

ルフェーヴル技師は、早くも1938年、当時のシトロエン社社長ピエール・ブランジェの命令によって、「トラクシオン・アバン」の後継車となる中~上級クラスの乗用車開発を開始した。このニューモデルは「VGD」なるコードネームを与えられた。「Vehicle e Grande Diffusion」(大量普及自動車)の意で、トラクシオン・アバン同様に量産型乗用車として生産する意図ははっきりしていた。

VGDの開発
ルフェーヴルが打ち出した「VGD」コンセプトの趣旨は、おおむね次のようなものであった。

1. 安全性の追求
2. 居住性(乗員を路面の影響から隔てる)
3. 路面状況を問わないロード・ホールディングの能力確保
4. 空力面の追求

まもなく第二次世界大戦が勃発したため、開発はいったん中止された。本格的な開発作業は第二次世界大戦後に持ち越されることになる。

終戦後から本格的な開発が再開された。開発過程では、計画を推進してきたピエール・ブランジェ社長が1950年に事故死するアクシデントがあったものの、後継社長のロベール・ピュイズーは引き続きVGD計画の推進を支援し、ルフェーヴルら技術陣は開発を続行した。

この時点でルフェーヴルはさらに以下のような設計方針を提示していた。

1. 軽量・低重心かつモダンで個性的な空力ボディを用いる
2. 前後輪重量配分を2:1とする
3. トレッドは前輪を広く、後輪を狭くする(ルフェーヴルがシトロエン以前に在籍したヴォアザン社のグランプリカーに倣った手法である)
4. サスペンションに革新的なシステムを導入する

しかし、シトロエンの戦後型主力車の開発は遅れた。その間にも、プジョー203(1948)、フォード(フォード・フランス)・ヴァデット(1949)、ルノー・フレガート(1950)、シムカ・アロンド(1951)と、競合メーカーから1.2リッター~2.3リッター級の戦後型中~上級車が続々登場していた。それらフラッシュサイド・ボディ(車幅を広く取り、側面をフラットにして車内容積を広げたデザイン)の新車群に与して、独立フェンダーと外付けヘッドライトのオールドファッションなトラクシオン・アバンは、1950年代に入っても延々と生産され続けていた。

戦後型の大型シトロエンであるVGDが「DS」として発表されたのは1955年で、フランスの自動車メーカーでは戦後最後発の上級車であった。結果としてシトロエンはこの「DS」で、競合各社を突き放すことになった。

1955年10月5日、フランス最大のモーター・ショーであるパリ・サロンで発表されたDSは、文字通り「異次元の自動車」として観衆の異常な関心を集めた。公開直後わずか15分の間に743名が購入を希望し、その日一日で無慮1万2,000件のバックオーダーが押し寄せたのである。世界的にも注目されたこのモデルの成功は、スタート時点から半ば約束されたようなものであった。

1957年のトラクシオン・アバン生産終了に伴い、その代替としてDSの仕様を簡素化した廉価型「ID19」が登場した。「ID」は「イデ」と発音し、フランス語で同発音の「Idée」(イデアの意)とかけたネーミングである。基本的にはDSのエンジンをデチューンし、サスペンションシステム以外を一般的な手動変速機、通常型ブレーキ、パワーステアリング省略仕様としたものだった。この結果DS/IDシリーズはシトロエンの中~上級レンジを一手に担うモデルとなる。1958年にはワゴンタイプの「ブレーク」ほかも発売された。

最大のライバルであるプジョーの上級車種展開は進まず、1960年代前半まで1600cc級が上限で、2リッター級投入は1968年の「504」まで遅れた。こうした事情もあって、DS/IDシリーズは競合モデルのルノー・フレガート、シムカ・アリアーヌ8を斥けてフランスの上級車市場をリードした。ド・ゴール大統領以下政府首脳の公用車にも広く用いられた。

生産はフランス本国の他、ベルギー工場、およびイギリスのスラウ工場でも行われた。スラウ製DSシリーズはイギリス向けで右ハンドル仕様なのが特徴である。

1960年には従来の6V電装から12V電装へ強化された。1962年9月にはマイナーチェンジが行われ、ノーズ部分の形状を若干変更し、ベンチレーションを改良した。1964年には、内外装をグレードアップしたデラックスモデル「DS19パラス」が発売される。

1967年には、DSシリーズの最も大きなマイナーチェンジが行われた。最大の変化は、それまで埋め込み式の2灯(パラス仕様は外付け式の補助灯2 灯が追加)であった前照灯を、ガラスカバー付きの4灯式デュアルライトとしたことである。このデザインは、シトロエン傘下のメーカーであるパナール・ルヴァッソールが1963年に発売した850ccクーペ「パナール24c」に先行して用いられたモチーフであった。この「猫眼」型のライトのうち、内側2灯はステアリングに連動して機械的に首を振り、進行方向を照らした。首振りライトはタトラT77aやタッカーでの先行例があるが、DSでの採用は特に有名になった。

1970年にはマセラティ製の強力なV形6気筒エンジンを搭載した高性能クーペ「SM」がシトロエンの最高級車として開発されたものの、シトロエンの上級主力モデルはなおもDSであった。

アップデートを繰り返して長期生産されたDSであったが、基本設計自体が古く、スペース効率や生産性の制約が多かったこともあって、1970年代に入ると市場競争力の面で不利になってきた。1974年に、よりモダンで穏健な設計の後継モデル「CX」が発売されたため、DSは1975年に主力生産を終了、そして翌1976年には救急車などの特装形も生産中止されて、現役を退いた。

1973年に経営危機に陥ったシトロエン社は以後、生産モデルの設計の穏健化と、グループ企業となったプジョーとの部品共通化を進め、もはやDSほどエキセントリックでアバンギャルドな自動車を開発する事はなくなった。

構造
イギリスの作家ギャビン・ライアルが著した冒険小説『深夜プラス1』(1965)には、主人公たちのフランス横断隠密行の足として1961年型シトロエンDS19が登場する。この小説の主人公「カントン」ことルイス・ケインによる「非常に優秀だがたいへん変わった車――全てが油圧作動――この車には人体より多くの管がある――出血したら、おしまい」(大意)というコメントが、DSの性格を簡潔に要約している。実際にこの小説の中盤で、敵の襲撃を受けたケインたちのDSは、オイル漏れにより走行不能となってしまうのである。

ボディは全長4.81m、全幅1.8m、全高1.47mという、1950年代中期のヨーロッパ車としては異例の大型である。そのエンジンは初期形で 1.9リッター、最終形でも2.3リッターに過ぎないが、車重は1.2t~1.3tと意外なほどの軽量に抑えられているため、動力性能に大きな不足はない。そして、随所に意表を突くメカニズムが搭載されている。

ハイドロニューマチック・システム
シトロエンDSの最大の特徴は、油圧動力による一種のエア・サスペンション機構を中心とした「ハイドロニューマチック・システム」hydropneumatic system の採用である。

この種の用途に使える小型コンピューターなど無かった時代に、油圧バルブと機械的ポンプ機構の組み合わせのみによって、高圧オイルラインを介し懸架機構を自動コントロールするこのメカニズムは、乗用車用のエア・サスペンションとしては世界でも極めて早い実用例であり、非常に野心的なシステムであった。ロールス・ロイスやダイムラー・ベンツもその価値を認め、のちにライセンスを取得して導入したほどである。

気体では、体積と圧力が反比例するボイルの法則が成り立つ。体積が半分に圧縮されれば、圧力は2倍となり、体積が更に圧縮されれば、それに応じて反発する圧力も高まることになる。この特性をばねとして利用したのがエア・サスペンションである。

気体体積を0にすることはできないから、金属ばねと異なり、バネが縮みきってしまう「ボトミング」の状態は起こらない。また微細な振動の吸収力に優れ、更に適宜圧力を高めることでスプリングレートの調整も可能であるなど、複雑な機構ながらそのメリットは多い。

エア・サスペンションはバスや鉄道車両では第二次世界大戦後に実用化されつつあったが、これらは元々空気圧でブレーキを作動させる都合上、圧縮空気を供給するエア・コンプレッサーを車載していたことを利用したもので、エア・サスペンションも完全に空気圧のみで作動した。スプリングとなるゴム嚢から圧縮空気が抜ければ、自動的にバルブが開いて新たに圧縮空気が供給される構造である。

これに対し、シトロエンのハイドロニューマチックは、エア・サスペンションの気体に一定量を密封した窒素ガスを用い、加圧や車高調整についてはエンジン動力作動のオイルポンプによる油圧を利用した。スプリングユニットは、エア・サスペンションとオイル・ダンパーの2役を兼ねたような構造である。液体(hydro)と気体(pneu)を併用する構造が、その名前の由縁である。

開発過程
ハイドロニューマチック・システムを開発したのは、1925年以来シトロエンに在籍していた油圧技術の専門家であるポール・マージュであった。このメカニズムの基本的着想には、航空機の操舵機構・懸架機構に関わる油圧制御システムが背景として存在した。開発過程では、油圧回路に要求された1µm単位の加工精度を実現するには非常な困難が伴った。

1954年、トラクシオン・アバン「15CV-Six」ノルマルのリアサスペンションに、最初のハイドロニューマチック・サスペンションが採用され、このシステム開発の「テスト・ベンチ」となった。

そしてDSでは4輪のサスペンションの他、パワー・ステアリング、トランスミッション、ブレーキにまでそのオイルラインが活用されたが、これらは高度な乗り心地や操縦性を提供した一方で、その初期にはしばしば作動トラブルを起こし、ユーザーとメーカーの双方を悩ませた。

シトロエンではその後も一貫して中級以上のモデルにハイドロニューマチック・サスペンションを採用し続け、自社のアイデンティティとした。GS(1970年)、SM(1970年)、CX(1974年)、BX(1981年)等が該当する。

このハイドロニューマチック・サスペンションを基礎として、その後継モデルであるXM(1989年)、エグザンティア(1991年)、C5(2001年)、C6(2005年)などでは、油圧系統を電子制御することで操縦安定性を高めるハイドラクティブ・サスペンションへと進化しつつある。

基本構成
ハイドロニューマチックのサスペンションユニットは、油圧ショックアブソーバーに類似したシリンダー様で、下部はサスペンションアーム(ウィッシュボーンやトレーリングアーム)と結合されている。頂部には「スフェア」(球体)と称される金属球が取り付けられている。スフェアの内部はゴム膜で仕切られており、頂部側が窒素ガスを充填したガス室、下部側が高圧オイルを満たしたオイル室である。

走行中、サスペンションに突き上げの衝撃がかかると、オイルを介してスフェア内の窒素ガスが圧縮され、スプリングとして働く。また、乗客が新たに乗り込んだり、荷物を積んだりすることで荷重が増えると、ガス室体積が圧縮で減少するので、その分を補う体積のオイルをユニット内に送り込むことで車高とスプリングレートを維持できる。さらに、スフェアとシリンダー部との間には、一般的なショック・アブソーバーにおける小穴(オリフィス)と同様に抵抗部となるチェックバルブがあり、ここでショック・アブソーバーと同様な減衰効果を得ることもできる。

オイルタンクはボンネット内にあるが、このタンク自体は常圧である。ここからポンプで吸い上げられて加圧されたオイルは、「メイン・アキュムレーター」と呼ばれる蓄圧器に送られる。メイン・アキュムレーターの構造はサスペンションのスフェアに類似しており、一体化されているレギュレータにより 170bar~140barの間の油圧に保たれる。この油圧のレベルが非常に高いものであることは、タイヤの圧が2bar程度であることからも理解できよう。高圧を採用した背景には、高圧であるほど油圧作動装置が小型化できるという理由があった。170barに達するとレギュレータにより高圧ポンプからの送油はカットされ、蓄油タンクに接続されるので、この間を循環しているだけの状態となり、140bar以下になると再度ポンプは加圧を始める。

このようなシステムであるため、高圧油圧配管の接続でオイル漏れを生じさせないことが肝要であるが、1台のDSには100ヶ所では済まないほどの油圧接続部があり、実現には非常な困難があった。従って、実際にもオイル漏れの皆無なDSは稀な程である。

メイン・アキュムレーターから4輪それぞれのサスペンションにオイルが供給される。オイルラインは前輪用と後輪用があり、それぞれに車高調整を司る装置「ハイトコレクター」が設置されている。ポンプからハイトコレクターに至る間のオイルラインは、往路となる加圧配管と、復路となるリターン配管に分かれている。DSのスタビライザーは一般的なトーションバー方式を用いているが、このスタビライザーにハイトコレクターを連動させ、前輪分・後輪分それぞれに加圧・リターン配管を開閉させるのである。ハイトコレクターから先のサスペンション側オイルラインは左右輪とも一本化され、オイルの往復・左右移動いずれをも可能としている。

荷重がかかればサスペンションがストロークすることでスタビライザーが動き、ハイトコレクターにてポンプからの加圧配管が開かれ、左右両輪スフェアとシリンダー内にオイルを供給して車高を維持する。基準まで供給されればスタビライザーが定位置に戻るので、オイル供給がそこで止まる。逆に荷重が小さくなれば、スタビライザーが逆に動くことでハイトコレクターではリターン配管が開き、荷重が抜けただけオイルを抜いて、高くなった車高を低くする。この「自動車高調整機能」は、あくまで荷重の増減に対して若干テンポを遅らせてゆっくりと作動するので、メカニズムや乗員に大きな負担を掛けない。瞬間的なピッチングには特に反応しない。開発当時の技術ではピッチング即応は困難であったし、敢えて反応させるメリットもなかった。状況変化に対し、瞬時に反応して急作動するようではかえって危険である。

この結果、ハイドロニューマチック装備のシトロエンは、乗客・荷物が満載の状態であっても、車高や車体姿勢は空車状態とほとんど変わらない状態に維持されるのである。

前輪分・後輪分の油圧系統は、それぞれ左右輪がセットで繋がっている。このような構造のため、電子制御化以前のハイドロニューマチック・サスペンションにアンチロール性はなく、その機能は金属製スタビライザーで補っている。

シトロエン社も、アンチロール性確保には苦慮して対策を施した。フロントをワイドトレッド化して安定性を高めると共に、ハイドロニューマチック自体にも、左右フロントサスペンション・シリンダー間を連結する油圧配管内にワイヤーを入れ、オイルの流動抵抗(インピーダンス)を高めたのである。

運用法
ハイドロニューマチック・システムの全ては、エンジン動力による高圧オイルで作動する。従って、エンジン停止後数十分~数時間でオイル圧力が抜け、ハイドロニューマチック・サスペンションは縮んで、車高が低くなる。エンジンを始動すれば数十秒で通常走行用の車高まで持ち上がる。十分に車高の上がっていない状態で走行することは推奨されていない。

DS/IDでは、自動車高調整機能に加え、運転席足元にある車高調整レバーを用いて車高を5段階に調整できる。もっとも、最高段と最低段は走行用のレンジではなく、走行は推奨されない。パンク時のタイヤ交換では、最高段で車体を高く持ち上げ、ここで地面と車体との間につっかい棒を差し入れてから、最低段に切り替えてタイヤを地面から離してしまうことができる。通常人力で動かすジャッキが、ハイドロニューマチック車には不要なのである。この応用で、路面から1輪が脱輪しても、自力で脱出可能である。その他の段では、車高を適宜調整することで悪路の通過や高速走行時の車高低下を図ることができる。

ハイドロニューマチック用フルードは、1955年の発売時から1964年まで植物性オイルの「LHS」が用いられたが、1964年モデルからは部分合成の植物性オイル「LHS2」が採用された。これらの赤いフルードは植物油ベースであることに起因する吸湿性があり、作動油としての安定性には難点もあったことから、1966年以降のモデルからは緑色の鉱物性オイル「LHM」が標準となった。

これらは混用不能であり、互換性もない。各年式毎の指定と異なる仕様外オイルを用いると、オイルラインのシーリング・ゴムを冒す危険があり、オイル漏れや配管詰まりの原因となる。その修復は非常な困難を伴い、悪くすれば修理不能となって、配管と不可分な車全体を放擲せざるを得なくなる。緊急時の補充用として新品の低粘度のエンジンオイルを利用する事は可能であるが、その場合でもLHM仕様車については、極力速やかなLHMへの全交換を要する。

ハイドロニューマチック用の各種フルードは、現在でもフランスの大手オイルメーカーであるトタル(Total)ほかによって生産されており、フランス本国では容易に入手可能である。

ボディ
ボディ部分は応力を負担せず、最低限の強度骨格のみを構築して、その外側にパネルを装着する「スケルトン構造」としている。このあたりの手法は、当時まだ梯子形フレームを用い、ボディを別構造としていたアメリカ車などに似ているが、軽量化と剛性確保には十分に配慮されている。

屋根部分は強度部材である必要がないため、低重心化を狙って、当時最新の素材であったFRP(繊維強化プラスチック)を用いた。DSのすぐ後に出現したスバル360も同様な手法を用いた史実は興味深い。屋根部分は初期には色が薄く、日光を一部透過するほどであった。後には徐々に不透過性に改められている。

スタイリング
ボディデザインを手がけたのは、シトロエン社の社内デザイナーで、トラクシオン・アバンや2CVのデザインも行ったイタリア人のフラミニオ・ベルトーニである。DSのデザインは、多くの人々からベルトーニの最高傑作と目されている。

ベルトーニは、トラクシオン・アバンのスタイリングを更に徹底して流線型化することでDSのデザインを作り上げたとされるが、結果的には他のあらゆる自動車と隔絶し、「宇宙船」とまで評される、およそこの世のものとも思われないドリーム・デザインを実現した。それは1955年時点におけるもっとも進歩した空力デザインの一つである。

ボディは幅広なシャーシに合わせて下を広く、上を狭く取って安定感を持たせた。これは同時に空気抵抗軽減にも寄与している。

先端は低く尖ったグリルレス・スタイルで、半埋め込みのヘッドライト共々空気抵抗を抑制している。これを「牡蠣のような」と表現した小説もあった。スポーツカーでもこれほど思い切ったデザインは1960年代以降でないと一般化せず、権威を伴った装飾としてのラジエーター・グリルがないその外観は、 1950年代の人々にとっては驚嘆の対象であった。1953年のスチュードベイカー・スターライナー・クーペ(レーモンド・ローウィ事務所のデザイン)の影響を指摘する者もあるが、実際にはそれより遙かに未来的である。

ルーフおよびトランクは後方へと低く垂下し、テールは細く窄まって、テールライトがコンパクトに収められていた。ウインドシールドがかなり垂直に近い立て方になっているのが、数少ない「時代相応」な部分である。ドアは窓枠のないサッシュレスタイプとしてスマートに仕上げ、ドアを閉じた際の気密性は車体側のゴムシールで確保していた。これも当時としては大胆な手法である。幅広のCピラーは、横縞の入ったステンレス板で覆われ、デザインのアクセントになっている。

スケルトン構造を生かし、許容される隙間をやや大きく取ってゴムブッシュとメッキモールを適所に用いることで、チリ合わせが厳密でなくても差し支えないデザインに仕上げられているのは、巧みな生産性対策である。トランクフードが開いた状態でも運転席からの後方視界にほとんど支障がないように設計され、リアフェンダーは、整備時にはボルト1本を外すだけで簡単に脱着できるようになっていた。

フロントバンパーは大きな曲線を描いており、その先端に装備されたオーバーライダーが前方の駐車車両など障害物に接触していなければ、ステアリングの据え切りを一杯に行うことで、駐車位置からそのままバンパーを前方にぶつけることなく脱出することができるようになっていたという。外見よりもはるかに小回りが利いたのである。リアのCピラー上部に装備されたリアウインカーランプは、設置場所こそ風変わりだが、高い位置に付いているため後続車からの視認性が高かった。このウインカー外部は1960年までIDでは赤プラスチックであり、DSではステンレス製であったが、以降はDS・ID共に同一のステンレス製となった。

一見すると全体が奇抜なDSのスタイルであるが、このようにその実、機能面では地に足の着いた十分な合理性を備えていた。ルフェーヴルとベルトーニが、DSをあくまで「実用量産車」という視点から設計していたことの裏付けとも言えよう。

内装
1955年当時、まだ内装用の材質としては一般的でなかったプラスチックやビニールを多用していたのも特徴である。しかも白系統など、従来では考えられなかった大胆な色遣いを行い、材質の弱点を目立たせない工夫が為されていた点でも、インダストリアル・デザインとして高度であった。またダッシュボードには連続した曲面デザインを用い、1本スポーク支持のステアリングともどもモダンな印象を狙っていた。1969年以降の後期形は、黒系統・直線基調のビジネスライクなダッシュボードに移行してしまったのではあるが。

ステアリング・ホイールの1本スポークの位置には「厳密な指定」がある。これは正面衝突時、ステアリングにぶつかったドライバーを車内中心方向に逃すためである。直進時において標準の左ハンドル仕様車では、時計で言う「8時」の位置、英国製の右ハンドル車では「4時」の位置になる。

シートはウレタンフォームを大量に用い、ベロア系生地の表皮を与えた贅沢な構造である。ソファーのように身体が沈み込むゆったりとしたシートと、ハイドロニューマチック・サスペンションとの組み合わせによって、しばしば「雲にでも乗っているような」「船のような」などと形容される独特の乗り心地が実現された。車内には非常なゆとりがあり、そのままでもリムジンとして通用するレベルである。のちにシート生地にはビニールレザーも用いられ、「パラス」など中期以降の上級モデルでは、革張りシートもオプションで装備された。革の色は黒色とタバコ色の2色である。

1973年より北米仕様と日本仕様には、ヘッドレストの装備が義務付けられたので、シトロエン・オリジナルのヘッドレストが少数生産されて現存する。

シャーシ
初期のモノコックボディ車であったトラクシオン・アバンは、フロアパネルの構造を強固にすることでシャーシフレームの機能を果たす設計を用いていたが、DSはその手法を更に進め、プラットホームフレームを使用している。競合各社が戦後、ルーフ部分にも応分の強度を負担させる一般的なモノコック構造を採用していたのに比して、やや趣の異なる手法である。フレームの両サイドが、強度を大きく負担する大断面構造となっている。その剛性は非常に高かった。

レイアウトは特異である。第二次世界大戦後の一般的な後輪駆動車は前後に適度なオーバーハングがあり、ホイールベースも過大にならないよう配慮されている。ところがDSでは3,125mmと戦前のクラシックカー並みのロングホイールベースであり、ドライブトレーンの配置は「前方にトランスアクスル(トランスミッションとディファレンシャル)、直後にエンジン」で、トラクシオン・アバン等戦前の古典的前輪駆動車そのままなのである。当初はこのレイアウトの予定ではなく、後方トランスミッション配置の計画だったようだが、トラクシオン・アバンエンジン利用の段階でこうせざるを得なくなった。DS以後に、このレイアウトを採った自動車は少ない。これでは車が長大になり過ぎるからである。またこのレイアウトの制約から、DSの前席足元中央には、エンジンルームの隔壁が突出していた。

フロントトレッドを1,500mmと幅広く、対してリアトレッドを1,300mmと極端に幅狭としたが、これは直進安定性の確保のみならず、小回りを少しでも効きやすくするための工夫でもあった。フランス本国仕様では後輪のサイズを前輪の165より1サイズ小さくして155とし、内輪差の抑制を図ってもいる。

駆動ジョイント
駆動ジョイントは、前輪駆動車にとって最重要な部品の一つである。前輪駆動車のジョイントは、舵角の付いた状態でも滑らかに駆動力を伝えられる「等速ジョイント」が望ましいが、1955年当時はまだ完全な機能と強度を備えた等速ジョイントを低コストで量産できる時期ではなかった。従ってDSには不等速ジョイントが装備されていた。

DSのジョイントは、車輪側はトラクシオン・アバンと同じくダブル・カルダン型で簡単に済ませたが、車体側(差動装置側)は「トリポッド・ジョイント」を採用した。車体側には、三叉の凹みを内側に持つ壺状のジョイントケースがあり、ドライブシャフトにはここにはまり込む三叉のローラー付ジョイント部を装着する。これは厳密には不等速ジョイントであるが、従来のダブル・カルダンやトラクタ・ジョイントと違って、等速ジョイントとさほど差のない機能を得られた。

車輪側ジョイントについてはのちにダブル・カルダンをやめ、完全な等速ジョイントであるバーフィールド・ツェッパ型ジョイントに移行している。

サスペンション・レイアウト
前後サスペンションとも基部は、テーパー・ローラーで支持される非常に贅沢な設計である。金属スプリングの代わりに、ハイドロニューマチック・システムによるエア・サスペンション方式を用いている。ハイドロニューマチックの利点を生かし、ストロークは大きく取られている。そのセッティングは徹底した直進安定性重視になっている。

フロントサスペンションは変形ウィッシュボーン式である。支点が車室寄りからのカンチレバー構造で、このためリーディング・アームと見誤る者が多いが、アームが直角に曲がっている変形タイプなので揺動の構造から見ると軸は前後方向となり、明らかにウィッシュボーンである。

シトロエンではトラクシオン・アバン以降、伝統的に全車種のリアサスペンションにトレーリングアームを採用していた。これはコストよりもスペース利用を重視したシトロエン社のポリシーによるものである。後輪荷重を垂直に受ける方が強度上は有利なのであるが、サスペンション・ストラットが車内に突出せず、車内スペースを有効に利用できるトレーリングアームのメリットを優先したのである。DSでもこれは踏襲された。のちのハイドロニューマチック及びハイドラクティブ全車も後輪はトレーリングアームである。

トラクシオン・アバンでは、リア・トレーリングアームのスプリングには横置きトーションバーが使用されていたが、DS/ID系では金属スプリングに代わって、ハイドロニューマチックによるスフェア付きサスペンション・ユニットを前後方向へ水平に近い形で取り付けている。

フロントサスペンションは極めて凝っており、サスペンションアームとホイール部の接続を、ホイール中心の垂直線上に配置したセンターピボット式としている。これは、キングピンの地上オフセットと車軸上オフセットを無くしたいわゆる「ゼロ・スクラブ」であり、駆動力やブレーキ力がステアリング機構へキックバックを生じさせるなどの弊害を避けるための荒業であった。これはステアリングを軽くするメリットもあったが、一方でフロント・ブレーキの搭載スペースが無くなり、搭載位置をインボード化している。シトロエンは、DSの他、高級クーペのSMと、小型大衆車GS(共に1970年登場)にこの機構を用いた。

パワーステアリング
ハイドロニューマチックの高圧オイルラインは、サスペンション機構以外にもDSの機能の重要な動力に流用された。その一つはステアリングである。

DS/IDシリーズのステアリング機構自体は、シトロエンが多用してきたラック・アンド・ピニオン方式である。長いタイロッドをラック中央設置としたセンター・テイクアウト配置とし、ステアリング切れ角の確保と、トー角変動の抑制を狙っている。

トラクシオン・アバンの弱点として、前輪駆動ゆえの前輪荷重の大きさに起因するステアリング操作の極端な重さがあった。そこで「重さには力で対抗」とばかりに、DSではハイドロニューマチックのオイルラインを利用してパワーステアリング機構が採用された。ロック・トゥ・ロックは2.9回転と極めてクイックである。

パワーステアリングの乗用車への導入本格化は第二次世界大戦後の事で、アメリカ車では1953年のクライスラーに始まり、続いて1954年にはキャディラックが全車に標準装備するなど、大型高級車から採用が進んでいたが、ヨーロッパではDSが最初の採用例である。他社ならパワーステアリングのため新たに特別装備せねばならないオイルポンプと高圧オイルラインが、ハイドロニューマチック車のDSには元々装備されているのであるから、技術者が利用したくなるのも無理からぬ事であった。

ハイドロニューマチックのオイルライン圧力がほぼ一定に保たれているため、DSのパワーステアリングは他社のそれと違い、エンジン回転数や車速に感応したアシストの変化はあまりない。このため、あまりの極端な軽さで「指一本でステアできる」とまで言われた同時代のアメリカ車のパワーステアリングと違って、DSのパワーステアリングは低速ではさほど軽くない。従って操縦感覚を損なうようなことはなかった。

なお、IDではコストダウンのためパワーステアリングがない。これはなかなか過酷な差別化ではあった。DS・IDシリーズの車重は、実に7割が前輪に掛かっていたのである。

後期形のDSでは、ステアリングシャフトにカムとスプリングを組み合わせた原始的なセルフセンタリング機構を追加し、ステアリングの復元性を高める工夫が為された。

ブレーキ
ハイドロニューマチックは、DSのブレーキにも利用された。

DS/IDのフロントブレーキは、2CVでの先例があるインボードタイプとしてバネ下重量を軽減している。前述の通り、サスペンション機構の制約もその原因である。しかも当初からフロントディスクブレーキを標準装備した。これは量産型自動車としては世界初採用という快挙であり、高速域からの高いブレーキ能力を実現した。

DSのフットブレーキ機構は非常に独特である。ハイドロニューマチックの高圧な油圧ラインを流用し、フロントとリヤそれぞれに独立させた2系統ブレーキシステムを採用している。駆動輪で荷重も大きいフロントブレーキはブレーキ・アキュムレータからの配管に依り、リヤブレーキはリヤ荷重を保持するサスペンション油圧を利用している。さらにこのリヤの油圧を利用して、前後ブレーキシリンダーに加えられる踏力を分配した。すなわち後輪加重の大小により更に後輪ブレーキ圧を変えて、制動時の車体の安定性を増加させている。

なお、DSの「ブレーキペダル」は、バルブをゴムで覆った丸いキノコのような形状で、踏み慣れないと効き過ぎて急ブレーキになりがちであった。慣れればかえって扱いやすいとも言われたが、普遍性を欠くシステムであることは否めなかった。結局のちのシトロエン製ハイドロニューマチック車でこのキノコ状ブレーキ「ペダル」を踏襲したのは1970年の「SM」のみで、その他のモデルには引き継がれず、通常型のペダルとなった。

IDの当初のフットブレーキは、一般的な自動車同様に独立したブレーキ・ラインを備える通常型のロッキード式で、DSとは異なる構造であったが、のち1965年秋に DS/IDの全面改良に伴ってDS系と同一になった。この際、ブレーキ本体も1ピストンのフローティングタイプから2ピストンの固定式に改良されている。

なおDS/IDのパーキングブレーキは足踏みペダル式であるが、駆動輪である前輪のディスクブレーキに作動するので制動力が高く、メインのフットブレーキが作動不能になった時には即座に踏み換えることができる。

半自動式トランスミッション
DSには、自動式クラッチを使用した特殊な4速式マニュアルトランスミッションが標準で装備されており、クラッチペダルは付いていない。アクセルとブレーキの2ペダル仕様で、全体としては半自動変速機と呼ぶべきものである。この変速機は、クラッチ作動とトランスミッションのシフトチェンジが、共にハイドロニューマチックの油圧を用いて間接的に遠隔作動するようになっている。

イージー・ドライブを意図したシステムであり、クラッチ操作の必要はない。しかし操作や作動が一般の自動車に比して特異であり、故に扱いにくいというユーザーも存在したことから、1963年以降のDSにはID系同様の通常型マニュアル・コラムシフト仕様車も用意された。

基本構造
ステアリング上に直立したシフトレバーは、ニュートラル位置から左に倒すとスターターが作動する。ニュートラルから前方に倒すと1速、そのままゲートから右奥へ押し込んで動かすとリバースギアとなる。低速ギアで前後進せねばならない駐車場での切り返しなどでは、1速と後進を90度とはいえ同一平面上のシフトで切り替えられるのは、明らかに有利であろう。一方、ニュートラルから手前に引くと2速で、そのまま右へ直線的に動かす事で、順次4速までシフトアップできる。

クラッチは、基本的には通常の摩擦クラッチであるが、エンジンに直結したメカニカル・ガバナーによる遠心力制御で作動する。ブレーキを踏んでいる状態ではクラッチが切れている。これはブレーキ圧がキャブレターに作動してガスを絞ることで行われるので、ブレーキを離すと半クラッチ状態となり、アクセルを踏むことで完全に駆動力が繋がる。シフトレバーを動かすとクラッチは自動的に切れ、次のギアに切り替わったところで自動的に半クラッチを経て直結される。アクセルペダルから足を離しても、すぐにはクラッチは切られず、エンジンブレーキを効かせる働きをする。なお、半クラッチとなるタイミングは修理工場での調整によって変更可能であった。

油圧による半自動トランスミッションとはいえ、ギヤボックス単体のメカニズムはマニュアルトランスミッションそのもので、人力で直接動かさずに油圧ピストンでシフトしている違いでしかない。従ってギヤボックスは、IDや1963年以降のDSの通常型マニュアル車も含めて全車同一であった。

改良過程
1955年の発表当初から1965年までは、シンクロメッシュ・ギアは2~4速のみで、1速と後退はノンシンクロであった。1速のシンクロ化は1965年以降である。

長期の製造期間中に多くのシステム改良が図られている。1965年の改良では、ギヤボックスがフルシンクロ化されると同時に、エンジンのパワーアップによりギア比の適切化が図られた。新たなクラッチ断続機構clutch re-engagement correctorにより素早いギヤチェンジが可能になった。これに加えて、クラッチ系統にピストンを加え、この油圧によりスロットルの開きを抑えてエンジンのオーバーレブを抑えている(シトロエン社の広報誌「Le DOUBLE CHEVRON」No.2 1965年秋号による)。

マニュアル・トランスミッションほか
IDは通常のマニュアル・コラムシフト仕様である。当初は2,3,4速シンクロメッシュ4速ギアボックスであったが、1965年秋になりフル・シンクロメッシュになった。当然ながらクラッチペダルも付いた3ペダル構造である。通常型マニュアル車はDSも含めて末期には5速式となった。

また1970年代初期のDSにはボルグ・ワーナー社製の3段自動変速機を装備したモデルも投入されたが、少量生産に留まっている。

エンジン
DSの構成機器の中でもっとも旧式なものがあるとすれば、それはエンジンであった。中途での改良はあったものの、一貫してトルク重視の実用型直列4気筒エンジンのみが用いられた。

試作過程
VGD用エンジンの計画段階では、既存のトラクシオン・アバン15-Six用直列6気筒の横置き配置や、星形3気筒を複列とした6気筒など常識離れした突拍子もないエンジンも考えられていたが、さすがにこれらは実現しなかった。

現実的なDS用エンジンの開発は、シトロエン2CVのタフネスな空冷水平対向2気筒エンジンの設計者でもあったワルテル・ベッキアに委ねられた。ベッキアは、DS用エンジンについても2CV同様の空冷水平対向式を採用しようと考えた。このため2CVエンジンを3列並べたような、アルミニウム製の水平対向6気筒SOHCエンジンの開発が進められることになる。

当初3.5リッターの大排気量で計画されたものの、試作当初は1.8リッターエンジンの試験から始められた。ところがこの水平対向6気筒は試作途上でのトラブル続きで、必要とされる性能が発揮できず、DSの発売を遅らせかねない事態となった。

ベッキアはやむを得ず方針転換し、従来車のトラクシオン・アバン11CVに搭載されていた古い水冷直列4気筒エンジンを流用することにした。この直列4気筒1911ccエンジンは、1934年のトラクシオン・アバン開発時、モーリス・サンチュラによって設計されたもので、設計当時としては先進的な OHV型であったが、1950年代中期ともなるとさすがにかなり古くなっていた。ただしエンジンとしての信頼性は高かった。

トラクシオン・アバンのエンジンは、元来がボアよりもストロークの長い78mm×100mmの古典的ロングストローク型であり、トルクは稼げるが高速回転には不利である。クランクシャフトのメインベアリングも各気筒間を完全に埋めた5ベアリングではなく、中央部1ヶ所と両端のみで支える3ベアリングであり、これもさらなる高速化・高負荷化に有利とは言い難かった。吸排気弁レイアウトも旧式なターンフロー型で、どちらかと言えば低速向けである。 1954年型のトラクシオン・アバン11CVペルフォ用ではグロス値で最高出力56ch/3,800rpmであった。

前期形
ベッキアは次善の策として、トラクシオン・アバンエンジンを徹底的にアップデートすることで必要な性能を得ようとした。元々ベッキアは1941年にシトロエン入りする前は、高級車メーカーのタルボ社に在籍しており、高性能レーシングカーのエンジン設計も行っていた人物である。そのノウハウを活かしたアップデートの内容は、いかにも1930年代-1940年代の高性能車用エンジンを連想させるものであった。

すなわち、1911ccエンジンのブロックと排気量はそのままだったが、旧来のヘッドに代えて新しいアルミ製ヘッドを与えた。新しいヘッドは動弁機構こそOHVのままだが、ダブル・ロッカーアーム式として吸排気弁を対称配置したクロスフロー型にし、燃焼室を半球形状として燃焼効率を大きく高めた。更にウェーバーの2ステージ・キャブレターを装着した結果、DS19用エンジンの最高出力はグロス値75ch/4,500rpmにまで向上した。これはトラクシオン・アバン15CVの2900cc6気筒(77ch)に、ほとんど匹敵する性能であった。

このDS用エンジンは、既に長い実績のあるエンジンの改良であったため、完全新開発のエンジンよりトラブルは少なく済んだ。もっともそのキャラクターは、旧来からのロングストロークレイアウトの制約もあって、あくまで実用エンジンとしてのマイルドなものである。

最初のDS19の最高速度は、当初のエンジン出力がさほど大きくなかったこともあって、1955年時点では140~145km/hに留まった。それでも従来のトラクシオン・アバン15CV-sixや競合他社のモデルよりは高かった。

IDも同一のエンジンを用いたが、デチューンされており、廉価型「ノルマル」で63ch/4,000rpm・130km/h、上級形「ルクス」で66ch/4,500rpm・135km/hとややアンダーパワーであった。

DSは1961年式から83chに出力を強化し、最高速度は160km/hに達している。

後期形
1966年に新たなエンジンが新設計された。直列4気筒のクロスフローOHVレイアウトは同じだが、メインベアリングを5個に増やし、ストロークをボアより小さくしたショートストローク形となって、従来よりも高速化・高出力化を実現している(DS21用で90mm×85.5mm)。

排気量は1985cc(DS20)と2175cc(DS21)の二本立てとなり、前者は103ch、後者は109ch/5,500rpmを発生するに至った。DS21の最高速度は175km/hをマークした。のち1969年にはそれぞれ108ch、115chに出力を向上した。

シトロエンのエンジンについて解説した文献の中には、「DSの後継モデルのCX(1974~1989)にまでトラクシオン・アバン以来の古い設計のエンジンが50年以上も用いられた」と安易に記述している例がしばしば見られる。実際にはDSのエンジンがショートストロークの5ベアリング型エンジンへと完全刷新された1966年時点で明確に系譜が断絶しており、「水冷直列4気筒OHV」レイアウトのみが共通であるだけで全くの別物である。

IDは1966年に在来型3ベアリングエンジンのままで81chに強化しているが、翌年DS同様の新型5ベアリング・ショートストローク1985ccに変更、出力はDSに比して抑え気味の83chであった。

1971年、DS21には従来のウェーバーキャブレターに代えて、電子制御燃料噴射(ボッシュDジェトロニック)を装備したモデルが追加された。電子制御燃料噴射はフランス車で最初の採用である。これによってDS21は出力を139chに高める。

1972年登場の最終形DS23では、排気量を2347ccに拡大した。インジェクション仕様で出力141ch/5,250rpm、最高188km/hをマークしている。ID系(1970年以降は「D20」と改称)は最後までキャブレター仕様のみであった。

ワゴンモデル
1958年にIDをベースとして、ワゴンモデルが発表された。屋根を高めに取り、上下2分割式テールゲートと両側フィンにテールライトを縦並びにしたデザインは、当時のアメリカ製ステーション・ワゴンの影響が著しい。

座席バリエーションによって名称が分かれていた。2列5人乗りで後席折り畳み仕様とした商用メインの「コメルシアル」Commercial、コメルシアルの荷室に横向きのジャンプシート2座を追加した「ブレーク」、3列目の3人がけシートを装備して8人乗りとした大家族向けの「ファミリアール」の3 バージョンである。

これらのワゴンモデルはのちにIDのほかDSバージョンも追加されて1975年まで生産され、機能性の高さと長距離走行に適した性能から、その期間中を通じて高い人気を保った。イギリスでは「サファリ」Safari の愛称で販売され、イギリス車にはほとんど類例のないキャラクターから高級ワゴンとしてやはり人気があった。

大きな荷重に対しても自動的な車高調整で一定の姿勢を保てるDS/IDのメカニズムは、ワゴンモデルにはことに適していたと言える。車高調整機能を駆使することで、停車中には荷室床面を低くして荷物の積み卸しをしやすくすることも可能だった。

またコメルシアルをベースに後席を2:1可倒式として担架搭載可能とした救急車仕様の「アンビュランス」も作られ、患者搬送のような用途にもDSの優れた乗り心地が威力を発揮することになった。DSのスタイリング・デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニは1964年2月に脳溢血で急逝したが、このとき彼を病院に搬送したのはDSの救急車であったという。

DSデカポタブル
1958年頃から、フランスのカロシェ(ボディ架装工房。イタリアに於けるカロッツェリアと同義)であるアンリ・シャプロン等が、DSをベースにした豪奢なオープンモデル、デカポタブル Decapotable――コンバーティブルを注文生産するようになった。強固なフロアパネルによって剛性を確保しているDSは、屋根部の強度を度外視でき、またスケルトン構造によってデザインの自由度も高い事を生かしたアイデアである。

シャプロンの架装したデカポタブル・ボディは、フラミニオ・ベルトーニのオリジナルDSデザインの美点を巧みに生かした秀逸なものである。長大なボディ・ホイールベースはそのままに客室部を縮め、僅か2+2の座席を合わせた贅沢なレイアウトは、第二次大戦と戦後の高級車への禁止税的税制によって軒並み壊滅した往年のフランス車、すなわちブガッティ、ドライエ、ドラージュ、ヴォアザン、サルムソン、タルボ等々を彷彿とさせ、非常に魅力あるスタイルであった。シャプロンは戦前、フランス製高級車のボディ架装を多く手がけた名門カロシェである。

前述の高級車メーカーが過去のものとなった1950年代後半のフランス自動車界では、量産車とは別格なステータスのある国産高級車は唯一、クライスラーV8エンジンを搭載したモンスター的豪華車ファセル・ヴェガしか存在しなかった。故にDSデカポタブルはフランスの上流層から大歓迎された。ちなみに、そのファセルも1964年には倒産してしまう。

当初シトロエンの正規モデルではなかったものの、ほどなくその好評ぶりに対応するかたちで、1960年には正式なカタログモデルとなった。架装はシャプロンが担当し、DS21に移行した後も、後継車となるマセラティV型6気筒エンジン搭載の高級クーペ「シトロエンSM」が発売された直後の1971 年まで、合計1,375台が限定生産された。価格は通常型DSの2倍という超高額であった。

アンリ・シャプロンは、この他にDSのリムジン仕様とも言うべき「DSプレスティージュ」Prestigeを製作している。前後席間にガラスの仕切りを入れ、エア・コンディショニングやステレオを装備した特装形だが、価格は通常型DSの2~3割増程度でさほど高価ではなく、公用車やハイヤーなどに好んで用いられた。

大統領のDS
DS/IDはフランス政府機関の公用車として広範に用いられ、政治家にも常用する者が多かった。中でもフランス第五共和国大統領シャルル・ド・ゴールは、DSの愛用者の一人であり、あらゆる公式行事に際してDSを利用したことで知られる。

このクラス(2リッター級4気筒)の乗用車が先進国の国家元首専用車として用いられたのは世界的には珍しいケースであるが、実のところ、当時のフランスには他に適切な大型国産乗用車がなかったのである。

ド・ゴールのアルジェリア政策に反対する過激な右派軍事組織「OAS」は彼の暗殺を企て、1962年8月22日、パリ郊外の路上で、移動中のド・ゴール夫妻のDS19を短機関銃で襲撃した。弾丸はリアガラスを砕き、ボディに穴を開け、片方の後輪をパンクさせたが、DSはハイドロニューマチック・サスペンションおよび前輪駆動による無類の安定性と、運転手の優秀なテクニックによって、残る3輪で疾走を続け、速やかに現場を脱出した。ド・ゴール夫妻は無傷で、OASの襲撃は失敗に終わった。

このエピソードは、フレデリック・フォーサイスの小説をフレッド・ジンネマン監督が映画化した『ジャッカルの日』(1973)冒頭でリアルに再現されている。なお、本作冒頭では閣僚を迎えるため、官邸の車回しに漆黒のDSが並ぶ豪奢なシーンを見る事もできる。

プレジダンジェル(大統領用特装リムジン)
1968年11月には車体を大型化、防弾・装甲装備を大幅強化した大統領専用の特別型DS「プレジダンジェル」が作られ、任期末期のド・ゴールに続いて後継大統領のポンピドゥも使用した。

アンリ・シャプロンの架装になるこのスペシャルは、直線的ディテールを随所に取り入れた、一種独特のスタイルを持つ風変わりなリムジンであった。全長6,530mm、全幅2,130mm、ホイールベース3,780mmというアメリカ製リムジンにも比肩するサイズで、総重量は2,660kg に達した。厚い防弾ガラスを装備することから、一般のDSのようなサッシュレスドアは採用されず、サッシ付きドアとなった。

エンジンは同時期のDS21用の2,175ccで4速仕様であるが、この車の目的から低速での長時間走行を想定したギヤ比にしてある。発電機とバッテリーは2系統あり(35A×2)、一方は後席エアコン専用である。スペックの詳細は不明だが、運転席の写真からはマニュアルトランスミッションであると推定される(「Le Double Chevron」No 15 1966年冬号による)。

構造は本格的なリムジンのそれで、運転席と客席の間が曲面ガラスで区切られ、客席中央に随行員用の折りたたみシートを備えていた。後席にはバーとハッチが装備され、2個のボトルとグラスが用意されている。

車体先端両脇には装飾の国旗を立てることが可能で、これはバンパーから照明された。普段は右側に自国旗(フランス三色旗)を立てるのであるが、外国からの国賓乗車時には右に相手国旗を取り付けるため、フランス国旗は左側に立てられる。また、ボンネット先端部には同心円トリコロールの飾りが付く。

外装はド・ゴール夫人の趣味により、グレー系のツートーン(ボディ=Alize Grey、ルーフ=Silver Grey)に塗装されていた。

ラリーでの戦績
アンダーパワーで巨大な図体のため、ハイパワーや小回りを活かした機動性などとは無縁なDS/IDシリーズであるが、実は多くのレースやラリーに出場して好成績を収めている。前輪駆動と低重心構造によってもたらされる高い操縦安定性と、ハイドロニューマチックによって確保されるサスペンションのしなやかさは、特にラリー・フィールドにおいて大きな長所となった。

プライベーターたちの手で早くも1956年からモンテカルロ・ラリーに出場、1959年にはポール・コルテローニの、ほとんどノーマル状態に近かったID19が優勝した。1960年からはシトロエン社のワークス・チームが DSで活動を開始、優勝こそ多くなかったが多くのラリーで上位入賞する好成績を挙げた。1963年のモンテカルロで総合2位、1964年のアクロポリス・ラリーで2位など、より強力な競合チームと互角の戦績を残したことは特筆に値する。

1966年には高速型の新型エンジンを搭載したDS21が登場、ラリーにも投入された。この年のモンテカルロ・ラリーでは、パウリ・トイポネンの DS21が総合優勝しているが、実は1位から3位を独占したイギリスのBMCミニ・クーパーSが「灯火レギュレーション違反」という理由で失格となり4位のDSが繰り上げ優勝となったものである。

この時期になると競合チームの性能向上も著しかったことから、シトロエンではDSのラリー・フィールドを、北アフリカ等での耐久レースに移行させることにした。もともと長距離走行を得意とするDSは、モロッコ・ラリーなどの過酷な環境でタフネスさを発揮した。

1969年には、DSの全長をホイールベースともども強引に大幅短縮し、低いルーフのクーペボディを与えた軽量なスペシャルが製作された。このDS クーペは、1969年のモロッコ・ラリーでデビューし、従来型DSと共に4位を除く1位から6位までに入る成功を収めた。DSによるラリー活動は、生産期間最終期にあたる1970年代中期まで続けられた。

影響
DSは、1955年の時点において想像を絶する先進性を備えた自動車だった。「エンジニアのあらゆる理想を具現化した驚異の存在」として、競合メーカーの技術者たちにも強い感銘を与え、畏敬の念すら起こさせた。そして多くの自動車メーカーが研究用車両としてDSを購入した。それは日本のメーカーも例外ではない。

しかし、あまりに進歩しすぎ、そしてあまりに当時の常識を逸脱していたがために、DSを模倣するようなメーカーは現れなかった。このようにアブノーマルな自動車を自社で生産することは、ほとんどの自動車メーカーにとって技術・販売の両面から明らかに無謀きわまりなく、競合各社は従来の後輪駆動方式を堅持しつつDSを追撃することになった。アバンギャルドな手法への包容力があるフランスの国情と、シトロエンというメーカーの強烈な個性によって、DSは成立し得たとも言える。

従って、DSのエピゴーネンといえる自動車はほぼまったく存在しなかった。強いて挙げるならば、DSに強いシンパシーを抱いたイギリス・レイランド社の技術者スペン・キングやディヴィッド・ベシェらによって設計された高速中型セダンの名作「ローバーP6」(1963年)が該当するであろう。しかし、工場所在地にちなんで「ソリハル・シトロエン」とまで言われたこのP6は、実のところ、試作車のデザインこそDSに類似していたものの、剛性の高いシャーシと長いホイールベース、大きなサスペンションストロークとによって優れた操縦性や乗り心地を確保しようとするDSの思想のみを継承したもので、複雑な金属サスペンション機構を持つ3ボックスの後輪駆動車であり、外見やメカニズムは相当に異なる。

ハイドロニューマチックは、ロールス・ロイスやメルセデス・ベンツにおいて、高級車のサスペンションシステムに一時採り入れられたが、世界的に一般化することはなかった。むしろ技術的な大勢は、通常の金属スプリングとショックアブソーバーの組み合わせで良好な特性を追求しようとする方向に流れた。数少ない例として、「ミニ」を生み出したイギリス・BMC社のアレック・イシゴニスと彼に協力した技術者アレックス・モールトンが、ポンプ等の一切ない「簡易ハイドロニューマチック」とも言うべき「ハイドロラスティック・サスペンション」を考案し、BMC系列の一部車種に採用した事実が挙げられる。

日本の富士重工は同社初の小型車スバル・1000(1966 年発売)の開発にあたり、研究用に所有していたDSを大いに参考にしたものとみられ、その影響はセンターピボット式のステアリングや、それを実現するためにインボード化したフロントブレーキ、トレーリングアーム式のリアサスペンションなど顕著に表れているが、その他にも有形無形のさまざまな影響を受けている。駆動方式も前輪駆動であったが、日本の国情を考慮し前輪の加重を増やす為にエンジンはDSとは逆にフロントオーバーハングに搭載していた。

変速機についても、DSの半自動式は一般化しなかった。ギアの選択操作を強いられる点では前世代の半自動変速機であるプリセレクタ・トランスミッションの発想の延長に過ぎず、発展性に限界があった。イージー・ドライブ化の手法としては、DSの半自動式よりも更にイージーなフル・オートマチックの自動変速機が、アメリカからの技術導入で1950年代後半以降ヨーロッパにも広まり、上級車種についてはオートマチックが当然となった。やがてはシトロエンもこの流れに屈することになる。一方、乗用車におけるスケルトン構造は、モノコック構造主流な風潮の中では一般化しなかった。

DSの要素の中でも普遍性を備えた技術であったパワー・ステアリングとディスクブレーキは、1950年代後半にヨーロッパ各国の上級車種で採用例が続出した。競合各社のパワー・ステアリングについては、対米輸出の過程でアメリカのユーザーのニーズに応えたという面も大きかったが、DSで先行して採用されたことは大きな刺激になった。また、DSほど「過激」でないにしても、空力特性を重視したボディデザインはこれ以降徐々に一般化していくことになった。そして前輪駆動方式の本質的な優位性は、DSという「前輪駆動方式の極致」によって実証されたとも言える。大排気量車で前輪駆動が一般化するのは 1980年代まで待たねばならなかったものの、多くのメーカーは小型車の分野から、徐々に前輪駆動へ傾倒していくことになる。

「(額面上だけはヨーロッパ車並のスペックを持つ)初代トヨペット・クラウンRSが日本でやっと開発された1955年に、フランスではシトロエン・DSが現れていた」という言辞は、DSの驚異的な先進性、もしくは当時の日本車の後進性を自動車評論家が語る際の、陳腐な常套句にすらなっている。だが、日本車より格段に進歩していた当時の欧米メーカーでさえ、「未来の車」DSに追いつくことは容易でなかったのである。

メディアにおけるDS
フランスにおいては非常にポピュラーな存在であった事から、1955年にデビューしてから1970年代にかけて、フランス映画やフランスを舞台にした外国映画には当然のごとく頻出する。挙げられるのは、アラン・ドロン扮する殺し屋がDSを足に用いていたジャン・ピエール・メルヴィル監督のハードボイルド映画『サムライ』(1968)、ド・ゴール暗殺計画を史実を交えて描いたフレッド・ジンネマン監督のサスペンス映画『ジャッカルの日』(1973)、恋愛映画においてもモニカ・ヴィッティ主演、ミケランジェロ・アントニオーニ監督のイタリア映画『情事』(1960)や『赤い砂漠』(1964、第25回ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞受賞)、アヌーク・エーメ主演、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』(1966、第19回カンヌ国際映画祭パルムドール並びに第39回アカデミー外国語映画賞受賞)、カトリーヌ・ドヌーブ主演、ルイス・ブニュエル監督の『昼顔』(1967、第28回ヴェネチア国際映画祭サン・マルコ金獅子賞受賞)等に登場している。

その他、ミレーヌ・ドモンジョ主演、マルク・アレグレ監督のコメディー映画『黙って抱いて』(1958)、リノ・ヴァンチュラ主演、ベルナール・ボリドリー監督のアクション/サスペンス映画『情報(ネタ)は俺が貰った』(1958)、パスカル・プティ主演、マルセル・カルネ監督の青春映画『危険な曲り角』(1958)、『フェラーリの鷹Poliziotto Sprint, Highway Racer』(1977)にも登場している。

1960年代に日本のTVで放映され、当時映画版のシリーズも公開された『怪盗ファントマ』では、空を飛ぶ機能などを持つDSを改造した車にファントマが乗っており、この車に憧れた少年たちも少なくなかった。

アバンギャルドだが洗練されたDSのデザインは、未来的なオブジェとしての効果も絶大であり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』では、主人公たちのデロリアンDMC-12に互し、未来世界でエアカーとなって空中を飛んでいる怪DSが現れた。

現代の日本でも、芸能人やファッション業界人、また知的産業に従事するスノッブな趣味の人々にDSを愛好する向きがあるためか、「洒落た車」と認識されており、オブジェとしてミュージッククリップやテレビコマーシャルなどに好んで使われる。漫画やアニメーション等では概して、乗る者の「お洒落さ、趣味の良さ」ないし「奇人変人らしさ」(マッドサイエンティストであること等)を象徴する小道具として扱われている。

DS愛好家たち
既に製造終了から30年以上を経たDSシリーズは、ハイドロニューマチックに多くを依存した極めて複雑なメカニズムが障害となり、走行可能の状態を維持するには非常な困難を伴う。しかし世界各国の熱心な愛好家たちの手によって、21世紀初頭の現在でも、多数が可動状態で保存されている。

DSデビュー50周年の2005年10月9日には、パリに世界各国から大量のDS/IDが集結し、大通りに列を成す大パレードが行われた。その台数は無慮1,600台にも達したという。

カーオブザセンチュリー
1999年、自動車批評家たちの意見を集めて選考された「20世紀の名車ランキング」であるカーオブザセンチュリーで、シトロエンDS / IDは3位に選ばれた。

[ 2009/03/04 03:17 ] CITROEN | TB(0) | CM(1)

Citroën C1 Rubik s Cube Commercial 0'45"

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C1はシトロエンが欧州で販売するAセグメント車である。

欧州における市場拡大を図るトヨタ・シトロエン・プジョーがAセグメントに低コストで車種を投入する為、PSA・プジョーシトロエンと合弁会社のTPCAを設立、新型車を共同開発する事となった。2005年2月からチェコで生産開始、ジュネーブ・モーターショーで披露した。エクステリアは各社ごと違っていて差別化しているが、インテリアが共通であり三社の制作によりデザインは最終的にトヨタ案が採用された。リアウィンドウは開かず、リアハッチ自体がガラスハッチとなっているなど徹底した低コスト化をし、ドアの鉄板をむき出しのドアトリムをプジョー・107、トヨタ・アイゴとインテリアを共有化している。

[ 2009/03/05 03:34 ] CITROEN | TB(0) | CM(1)

Citroën GS Advert 0'30"

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シトロエン・GS/GSA'は、フランスの自動車会社シトロエンが1970年から1986年まで製造した小型乗用車である。空冷2気筒エンジンの2CV及びその派生車種と、1955年以来作られていた大型車Dシリーズとの広いギャップを埋める量産車種として計画された。

ボディサイズの割りに小さい空冷1015cc-1300ccエンジンながら、優れた設計のボディとハイドロニューマチックサスペンションにより、卓越した空力特性、高速巡航性能、操縦性、乗り心地を持った、1970年当時としては画期的で、最も進んだ小型大衆車の1台であった。1971年にはシトロエンとしては初めて、ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。 1979年には改良を加えられて5ドアハッチバックのGSAとなり、1986年に1984年発表のBXに跡を譲って生産中止された。ハイドロニューマチックサスペンションを持たないが、排気量的には1991年登場のZXも、上級移行したBXと旧GSのギャップを埋める後継車の一種と考えることも出来る。

シトロエンは永年、1948年以来の2CVなどの空冷2気筒エンジンモデル群と、1955年以来のDシリーズの、広い車格ギャップを埋める量産車種を 持っておらず、1960年代後半にもなると、両シリーズの旧態化もあって販売不振が深刻化し、深刻な苦境に陥っていた。

一方で、シトロエン自体も1965年、元高級車メーカーで第二次世界大戦後は小型車生産に転身していた中堅メーカーのパナールを吸収合併しており、同社のセダン「ディナ」シリーズ(1953年-1965年のPL17を含む)や、24シリーズ(1963 年-1967年 クーペの24C / CT、2ドアセダンの24B / BTがあった)などの空冷水平対向2気筒850cc級モデルを、中間車種としての育成を試みた。しかし、シトロエン以上に独創的で強烈な個性を持つパナールは量販車種にはなり得ず、結果 新たに GS を開発することとなった。

そのため、GSの設計には パナール・24の経験が活かされ、その後継モデルとしての性格も与えられていた。

GSのエンジン、駆動系は、空冷である事を含めてパナールや2CV系の発展、拡大版と言え、一方、ボディ、シャシー(サスペンション)系統は、ハイドロニューマチックを採用している事を始めとして、DSの縮小、簡略化版であると言える。

エンジンサイズの割に大型のボディは、2ボックススタイルであったが、ハッチバックではなく独立したトランクを持っていた。また、当時として極めて空力性能に優れたスタイルであり、しかも広い居住スペースとラゲッジスペースを実現していた。そのコンセプトは、そのまま後のCXにも受け継がれてた。

初期型GS4ドアセダンのボディサイズは、全長4120×全幅1608×全高1349、ホイールベース2550(単位mm)で、後にブレークと呼ばれる5ドアのステーションワゴンや、左右非対称の1+2ドア車を含む コメルシアル と呼ばれる商用車も登場した。

16年間の総生産台数はGSAを含めると 247万台 に及び、また、フランス本国以外でもノックダウン生産を含めるとスペイン・ユーゴスラビア・インドネシア等でも、生産されたとの記録が残されてる。

GSシリーズの生産時期は、ヨーロッパ車の鋼板材質の悪い時期に当たっており、特に78~81年式のGS/GSAの残存率は低く、現在では稀少車となっている。

メカニズム
シトロエンが1934年の「7CVトラクシオン・アバン」以来採用している前輪駆動は、当然のようにこのモデルでも踏襲されている。エンジンは2CV系各車や「ディナ」以降のパナール同様の空冷・水平対向エンジンが採用されたが、4気筒SOHCに近代化され、直進安定性を稼ぐため、フロントアクスルの前に縦置きされた。この時期の空冷エンジンの採用は珍しいといえる。

排気量は当初1015cc、のち拡大版として1129cc、1222ccが出現した。当時のフランス車らしく、いずれもボディの割には小さな排気量のエンジンであり、このためフライホイール・マスを大きくして回転落ちしにくいようにチューンされている。

サスペンションは、前輪がバネ下荷重の少ないダブルウィッシュボーン、後輪がトランク・ユーティリティに有効なトレーリングアームとなっている。スプリングは前後ともに油圧制御エアサスペンションのハイドロニューマチックで、これによって自動車高調整機能と高いロードホールディング、快適な乗り心地を得ている。

また、この時代の大衆車としては珍しく、商用車を含めて全車が高速走行に適した4輪ディスクブレーキを装備しており装、特に駆動輪となるフロントは、細身のホイール内でトルクステアの原因となるキングピンオフセット(スクラブ半径)を無くすため、タイヤ幅の広いビロトールを除き、DSと同じセンターピボット式を採用し、そのためにブレーキをインボード化しており、これは同時にバネ下重量軽減の効果もあった。またブレーキは一般的な独立した配管のマスターバック式ではなく、DS同様となるハイドロニューマチックと油圧回路を共有したもので、アンチノーズダイブ機構と併せて、強力かつロックしにくい設計機構で、DSやSMに通じる、スイッチのような短いストロークと、ストロークではなく踏力によりブレーキ力をコントロールする独特の踏み応えとなっている。

スピードメーターは、初期モデルではドラム式ボビン型であったが、1976年以降の後期型やイギリス向けの右ハンドルはアナログメーターを備えていた。

GSの開発にあたっては、よく似たレイアウト持つスバル1000(1966 年発売)が参考にされたとの説もあるが、水平対向エンジンを縦置きとし、その後にトランスアクスルを置く前輪駆動方式は2CV以来のレイアウトであり、傘下のパナール各車にも共通するものである。また、スバル1000も、その開発にあたっては、DSを大いに参考にし、有形無形のさまざまな影響を受けており、そうした意味でGSとスバル1000は、一種の異母兄弟であるとも言えよう。また、1971年に発売されたアルファスッドもよく似たレイアウトを持つが、この2車のエンジンは、より一般的な水冷である。

スタイリング
内外装共に、イタリア人フラミニオ・ベルトーニの後をうけた、シトロエンのチーフデザイナー、ロベール・オプロンの率いる社内チームでデザインされた。しかしGSには1967年にピニンファリーナがオースチン1800 / 1100をベースにデザインした空力的なファストバックセダンのプロトタイプ、「エアロディナミカ1800 / 1100」の影響も顕著に見られる。従って100%オプロンやシトロエンの創作とは言えないものの、GSのスタイルは、特にフロント周りやリアホイールアーチの処理に見られるシトロエンらしさ、良好な空力特性、そしてエレガンスを同時に実現した1970年代カーデザインの傑作で、時流に大きく先んずるものであった。また、1974年にデビューする上級モデル「CX」のデザインもGSの延長線上にある。

そのボディスタイルにもかかわらずトランクは独立式で、リアシートも可倒式ではなかった。GSがルノー・16をはじめとする5ドアハッチバック車の流行を追ってハッチバックを採用するのは、1979年発表の発展型「GSA」からである。

GSビロトール
1960年代、シトロエンは極めてコンパクトでありながら、(当時としては)スムーズかつパワフルなロータリーエンジンに強い興味を抱き、特許権を持つドイツの自動車メーカーNSUと、コ・モービル / コ・モトール等の合弁会社を作るなどして共同開発を行った。1970年にモニター向けに実走試験車として提供されたアミ8ベースのシングル・ローター試作車、M35の成果を踏まえ、1973年には遂にGSにツイン・ローター方式のロータリーエンジンを搭載したGSビロトール(Birotor = バイローター、複式ローター)が市販開始された。ロータリーエンジンこそが、GSの唯一の欠点とされていたアンダーパワーの解決はもとより、車体構造、駆動方式、サスペンション、空力などに比較して保守的であったシトロエンのエンジン技術を一挙に時代の最先端に進めるための切り札であった。

その名の通り、排気量497.5cc×2の水冷ロータリーエンジンと、「Cマチック」と呼ばれる半自動変速機を巧みに組み合わせ、当時提携中であったフィアットが開発したジアコーザ方式で並べていた。シトロエン社としては初の横置きエンジン方式であり、GSでは唯一の水冷エンジン搭載車である。外観上はハイパワーに見合った太いタイヤを履き、翌年発売されるCXと同じホイールキャップが与えられ、前後フェンダーにリップが付いたこと、当時流行していたレザートップが与えられた点が識別点であり、 内装では、ボビン式スピードメーターではなく、英国仕様に似た一般的なアナログメーターであったことが特徴である。

販売期間は一年余りで、わずか847台しか生産されなかった。デビュー直後に第一次石油危機に見舞われたこと、エンジンの耐久性に欠陥が露呈し、1974年にシトロエンを傘下に収めたプジョーの意向もあって、販売された車はメーカーの手で回収され、スクラップにされた。 このためユーザーの元に現存する台数は世界的にも極めて僅かである。

GSA
GSの発展型として1979年に発表された。ボディはハッチバック化され、バンパー、ドアミラーが樹脂製になった他、フロントグリル、サイドモール、テールランプ、リアガーニッシュ等も変更され、初期のGSのシンプルなエレガンスさは失われたものの、新たな需要も獲得した。

内装は、再びボビン式(今回はタコメーターも)となったメーター回りや、サテライト型スイッチを持つダッシュボード、シートや天井の材質など、フルモデルチェンジなみに変更された。

ボディサイズは、全長4195×全幅1630×全高1350、ホイールベース2555(単位/mm)と、全長が伸びた以外はGSからの変更は殆ど無かった。ホイールベースの数値の変動は、リアのトレーリングアームサスペンションによる設定値誤差である。

エンジンは空冷・水平対向を踏襲しつつ、1299ccに拡大された。

日本仕様
GSは1972年から西武自動車販売が総代理店となって日本市場で発売された。当初の輸入車種は1015ccの「クラブ」のみであったが、1973年に1220クラブに変更された。少数ながら自動クラッチ仕様や、丸型アナログメーターの英国仕様右ハンドル車も輸入された。未来的なスタイリングとインテリア、ハイドロニューマチックサスペンションの魅力、発売当初の138.5万円という低価格が受けて、GS / GSAはフランス車としては異例に長く10年以上継続して日本市場で販売された。

1970年代中期以降の輸入車では排ガス規制による性能低下が問題になるが、 GSも1220クラブまでは48年規制であったため大きな影響は受けずに販売された。しかしシトロエンと西武自動車販売は、50年規制対応が義務付けられた1976年末までに適合車を開発出来ず、在庫がなくなった1977年には一時的に販売中止された。

1978年に、エアーポンプ式酸化触媒追加等で51年規制適合となって再登場したのはGS1220パラスで、価格は200万円以下と、1220クラブの末期より約40万円も値下げされ、手動式サンルーフ仕様も登場するなど、魅力を増し、相当数が輸入された。しかし、当時輸入された多くのヨーロッパ製小型車同様、元々のアンダーパワーに輪をかけた性能低下や熱害などの問題が発生した。

1980年にGSAに移行した当初は、GS時代に完成した排ガス規制適合ユニットを流用し、燃料ポンプの電磁化、オイルクーラーを移設するなどして、1222ccのまま「GSA1220パラス」として輸入された。この頃の日本仕様車(1220GSAとその後の1300GSA右ハンドル仕様)の外観はボンネットには黒いエアスクープが付いているのが特徴である。

1982年には日本仕様車も1299ccに拡大され、GSA1300パラスとなった。排ガス対策は基本的に従来型と同じであったが、日産自動車のアドバイスにより、日立製キャブレター、同時点火式点火装置、リードバルブ式酸化触媒等が用いられ、排気量拡大とあいまって、動力性能、燃費、ドライバビリティは大幅に向上した。また、このモデルは右ハンドルであり、日本向けの改変がフランス本国のシトロエン社の工場で行われるなど、日本市場への意気込み[3]を感じさせるものであった。

その後しばらくはGSA1300パラスの右ハンドル車のみが輸入されたが、1983年にはパラスの左ハンドル車が追加され、右ハンドル車と併売された。これは右ハンドル車と異なり、本国仕様車に西部自販オリジナルの三元触媒を装着しただけで排ガス規制をクリアさせた物で、エンジンルームは右ハンドル車に比べてはるかにシンプルで、動力性能も一段と優れていたという。なお、このモデルは少数限定枠制度 を利用して輸入されたものである。

1984年になると、本国では古くから(GSの時代から)存在した、スポーティー版のGSA・X3が追加された。排ガス対策などはパラスの左ハンドル車に準じており、このモデルも左ハンドルである。パラスとの違いは変速機が5段になる事が最も大きく、エンジン出力はパラスと同じである。その他は、ボディ前後のスポイラー、ストライプ、ヘッドレスト一体型のハイバックシートなど内外装の違いが主で、多分に雰囲気重視のモデルであった。また、このモデルも少数限定枠制度を利用して輸入されたものである。

GSの日本での販売台数は1982年初頭までで4400台、1985年頃に最終モデルの1300ccのGSA・X3がBXに跡を譲って販売を終了した時点では約6000台と言われ、販売台数は当時の日本におけるフランス車の中で最も多かった。

脚注
1. ^ 3段手動変速機に電磁式自動クラッチを組み合わせたもので、基本的に同じシステムはCXにも用いられ、「Cマチック」と称された。

2. ^ サニーが前輪駆動化される際に、従来の後輪駆動サニーのセールスポイントの一つであった、優れた取り回しを失わないために、シトロエンが特許を持っていた、ステアリングの切れ角が大きく取れるゼッパ型等速ジョイントを導入した事が縁となり、その技術導入の見返りとして、GSAの排ガス対策にアドバイスを与える事になったという。

3. ^ 1970年代末から1980年代初頭までの数年間は、シトロエンとその親会社プジョーが、日本市場に対してにわかに積極的になった時期で、本国仕様とも北米仕様とも違う独自の日本仕様車を日本市場に送り込んだ。右ハンドル仕様のプジョー504D、本国仕様と基本的に同じ内、外装に北米仕様をベースにしたエンジンを積み、右ハンドル仕様だったプジョー505TI/STI、そして、このシトロエンGSA1300パラス右ハンドル仕様がその具体例だが、商業的には当初目論まれた程成功しなかったようで、1980年代半ばからは少数限定枠を利用してバリエーションを充実させる方針に変化した。

4. ^ 正規ディーラーのみに許されていた制度で、「一定の台数までは型式検定を省き、ごく簡単な手続きで輸入できる」というものである。

5. ^ 一部の愛好家の間では、運輸省に届出のあった輸入台数は最終的に1万5000台を超えていた。との主張もあるが、真偽の程は定かでない。

[ 2009/03/06 03:53 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën 2CV Commercial 1'32"

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シトロエン2CV (Citroën 2CV) は、フランスのシトロエン社が1948年に発表した、前輪駆動方式の乗用車である。きわめて独創的かつ合理的な設計の小型大衆車で、自動車の歴史に残る名車の一つと言われている。

「2CV」とは「2馬力」を意味し、フランスにおける自動車課税基準である「課税出力」のカテゴリーのうち「2CV」に相当することに由来するが、実際のエンジン出力が2馬力であったわけではない。後年の改良によるパワーアップで税制上3CV相当にまで上がったが、車名は2CVのままだった。フランス本国では「ドゥシヴォ」(「ドゥー・シュヴォー」、deux chevaux)と呼ばれる。

ユニークな着想を数多く盛り込んだ簡潔軽量な構造により、非力ではあったが、優れた走行性能と居住性、経済性を同時に成立させた。第二次世界大戦後のフランスにおけるモータリゼーションの主力を担い「国民車」として普及、さらにヨーロッパ各国で広く用いられた。

その無類にユーモラスなスタイルと相まって世界的に親しまれ、自動車という概念すら超越して、フランスという国とその文化を象徴するアイコンの一つにまでなった。

1948年から1990年までの42年間大きなモデルチェンジのないままに、387万2,583台の2CVが製造された(フランスでは1987年に生産終了、以降はポルトガルでの生産)ほか、並行して基本構造を踏襲した派生モデル数車種が合計124万6,306台製造された。単一モデルとしては、世界屈指のベストセラー車・ロングセラー車である。

開発以前
シトロエン社の自動車生産開始は第一次世界大戦後の1919年で、フランスでは後発メーカーであった。だが、アメリカのフォードに倣った大量生産システムの導入で中~小型の高品質な自動車を廉価に供給し、わずか数年間でフランス最大の自動車メーカーに急成長した。

この間、1921年に3人乗りの超小型乗用車「5CV」を開発したが、当時のベストセラー車となったにも関わらず、1926年に生産中止されてしまった。社主アンドレ・シトロエンがより大型のモデルに経営方針をシフトしたためである。この経営判断は競合メーカーのプジョーやルノーに小型車クラスの市場を奪われる結果となり、シトロエン社の経営基盤確立は遠のいた。

シトロエン社はヨーロッパでも早い時期から鋼鉄製ボディや油圧ブレーキを導入するなど先端技術の採用に熱心であった。

1933年には新たに斬新なニューモデルの開発に乗り出し、翌1934年、同社最初の前輪駆動モデル「7CV」(いわゆる「シトロエン・トラクシオン・アバン」の最初のモデル)を発表したが、同年、この前輪駆動車開発に伴う膨大な設備投資によってついに経営破綻する。これに伴いアンドレ・シトロエンは経営者の地位を退き、代わってフランス最大のタイヤメーカー、ミシュランが経営に参画することになった。

この際、ミシュラン社から派遣されてシトロエン副社長職に就任したのが、元建築技術者であったピエール・ブーランジェ(Pierre Jules Boulanger 1885-1950)であった。彼はミシュラン一族からシトロエン社長に就任したピエール・ミシュランと共にシトロエン社の経営立て直しに奔走し、1937年のピエール・ミシュランの事故死に伴って社長に就任、1950年の死去までその地位に在った。

開発のきっかけ
1935年夏、ピエール・ブーランジェは別荘でのバカンスのため、南フランスのクレルモン=フェランの郊外へ赴いた(クレルモン=フェランはミシュラン社の本社工場所在地である)。

彼はそこで、農民たちが手押し車や牛馬の引く荷車に輸送を頼っている実態に気付いた。当時のフランスの農村は近代化が遅れ、日常の移動手段は19世紀以前と何ら変わらない状態だったのである。

ブーランジェは、シトロエン社のラインナップに小型大衆車が欠落していることを認識していた。そこで、農民の交通手段に供しうる廉価な車を作れば、新たな市場を開拓でき、シトロエンが手薄だった小型車分野再進出のチャンスともなる、という着想を得た。

ブーランジェは周到な市場調査によって、この種の小型車に対するニーズの高さをつかみ、将来性を確信した。そして1936年、アンドレ・ルフェーヴル(André Lefèbvre 1894-1964)らシトロエン社技術陣に対し、農民向けの小型自動車開発を命令する。この自動車は「Toute Petite Voiture(超小型車)」を略した「TPV」の略称で呼ばれた。

TPV、のちの「2CV」開発責任者となったルフェーヴル技師は、元航空技術者であった。航空機開発技術を学んで第一次大戦中に航空機メーカーのヴォアザン社に入社、芸術家肌の社主ガブリエル・ヴォアザンに師事して軍用機の設計を行った。 戦後ヴォアザンが高級車メーカーに業種転換すると自動車設計に転じ、高性能車の開発に携わっている。

そしてのちヴォアザンの業績悪化に伴い退社、ルノーを経て1933年にシトロエン入りし、「シトロエン・トラクシオン・アバン」の開発を発案して短期間のうちに完成させていた。

彼は天才型の優秀な技術者であり、第二次世界大戦後には「2CV」に続いて未来的な設計の傑作乗用車「シトロエン・DS」の開発にも携わっている。

「こうもり傘に4つの車輪」
ブーランジェの提示した農民車のテーマは、「こうもり傘に4つの車輪を付ける」という、簡潔さの極致を示唆するものであった。価格はアッパーミドルクラスであるトラクシオン・アバンの1/3以下、かつ自動車を初めて所有する人々でも容易に運転できることが求められた。

しかし、自ら自動車を運転もするブーランジェによって具体的に示された条件は、技術陣をして「不可能だ!」とまで言わしめた難題だった。それは以下のようなものであった。

* 50kgのジャガイモ又は樽を載せて走れること
* 60km/hで走行できること
* ガソリン3リッターで100km以上走れること
* 荒れた農道を走破できるだけでなく、カゴ一杯の生卵を載せて荒れた農道を走行しても、1つの卵も割ることなく走れるほど快適で乗り心地がよいこと
* 価格はトラクション・アバンの1/3以下
* 車両重量300kg以下
* もし必要とあれば、(自動車に詳しくない初心者の)主婦でも簡単に運転できること
* スタイルは重要ではない

悪路踏破力、乗り心地、経済性のいずれにおいても厳しい条件であるが、それでもブーランジェは実現を厳命した。その後の技術陣の努力によって、実現に至らなかった点もあったものの、無理難題の多くが満たされた。

加えてブーランジェは、最低限に留まらない十二分な車内スペース確保も要求し、身長2m近い大男であるブーランジェ自身が、シルクハットを被っては試作車に乗り込み、帽子が引っかかるようなデザインは書き直しを命じた。この「ハット・テスト」によって、最終的にこのクラスの大衆車としては望外と言ってよいほどゆとりある車内スペースが確保されることになった。

TPV試作車
既に「トラクシオン・アバン」で前輪駆動車の量産化を成功させていたアンドレ・ルフェーヴルは、TPVの駆動方式にも前輪駆動方式を採用した。プロペラシャフトを省略でき(軽量化や振動抑制、低重心化の効果がある)、更に操縦安定性にも優れていたからである。

開発作業はシトロエン社内でも特に機密事項として秘匿され、外部の眼に一切触れることなく進行した。

1939年には、TPVプロジェクトは相当に進行し、試作車が完成しつつあった。それらはアルミニウムを多用して軽量化され、外板には波板を使うことで強度を確保した。簡潔な造形によって、外観は屋根になだらかな曲線を持ったトタンの物置という風体だった。

屋根は幌による巻き取り式のキャンバストップで軽量化と騒音発散を図り、座席には通常の金属スプリングの代わりに、ゴムベルトを用いたハンモック構造を採用して軽量化した。ヘッドライトはコストダウンと軽量化のため、片側1個だった(当時のフランスの法律ではライト1個でも差し支えなかった。後の生産型では2個ライトになった)。パワーユニットは、トラクシオン・アバンの先進的なOHVエンジンを設計したモーリス・サンチュラの手になる、水冷式エンジンを搭載していた。 サスペンション・アームは軽量化の為に、マグネシウムを使用していた。サスペンション用のスプリングとしては各輪共トーション・バーを3本、過荷重用に1本、合計4X4=16本使用していたが、開発は最終完成には至っていなかったとされる。

第二次世界大戦
第二次世界大戦勃発後の1940年、フランスはナチス・ドイツの侵攻を受けて敗退、パリをはじめフランス全土の北半分は占領地となった。

ジャベル河岸のシトロエン社も占領軍の管理下に置かれたが、経営責任者の座に留まったピエール・ブーランジェは公然とサボタージュを指揮し、占領軍向けのトラック生産を遅滞させたり、時には故意に欠陥車を送り出すなどして損害を与えるよう努めた。このようなレジスタンス活動によりブラックリストに載せられながら、ブーランジェは1944年のフランス解放まで巧みに生き延びた。

この際、開発途上だったTPVをナチスの手に渡さないため、ブーランジェの命令によってTPVプロジェクトの抹消が図られた。1939年の Motor Show の為に準備された( 結局は戦争で実現しなかったが。) 250台の "The first 2CV"(=2CV-Prototype)は 1 台を残して破壊され、また一部は工場などの壁に塗り込められ、あるいは地中に埋められた。これらは1990年代以降最終的に合計 5台が発見されている。(ナチスとブーランジェ、双方の目を逃れて)破壊や埋設を免れた少数は、ボディを改造して小型トラックに偽装された。(前述の台数と重複していると思われるが、後の2000年にミシュラン工場改築の際、レンガの壁を壊したところ中から新たに3台が発見された)。

独自の研究開発が禁じられた困難な状況下ではあったが、ルフェーヴルら技術者たちは、ナチス側の監視をかいくぐって、終戦後に世に送り出されるべきTPVの開発を進行させた。

だがシトロエン社内部での検討によって、コスト過大からTPVにアルミを多用することは困難であるという結論が出された。やむなくTPVの多くのパーツは普通鋼に置き換えられることになった。

1944年の連合軍勝利に伴うフランス解放によってTPVの本格的な開発作業が再開された。

試作車用にモーリス・サンチュラが設計した水冷エンジンは、改良を重ねても不調であった。このため、高級スポーツカーメーカーのタルボ社(Talbot)から1941年に移籍してきた有能なエンジン技術者ワルテル・ベッキア(Walter Becchia)が、新たに信頼性の高い空冷エンジンを開発して問題を解決した。

またボディデザインは、イタリア人の社内デザイナーであるフラミニオ・ベルトーニ( Flaminio Bertoni 1903-1964 )によって洗練を加えられた。

発表と嘲笑
1948年10月7日、シトロエン2CVはフランス最大のモーターショーであるパリ・サロンにおいて公に発表された。

多数のマスコミ・観客が見守る中、ブーランジェ社長によって紹介され、除幕された「ニューモデル」の2CVは、あまりにも奇妙なスタイルで、観衆をぼう然とさせ、立ち会ったフランス共和国大統領のヴァンサン・オリオールをして困惑せしめたという。しかしながら、この問題はブーランジェのメディアへのショー前公示不足が大きな原因であったとする見解もある。

この時点で、競合するルノーの750ccリアエンジンの大衆車「4CV」や、プジョーの1クラス上の1300cc車「203」が既にデビューしており、それら他社製の戦後型ニューモデルがごく「まとも」な自動車であっただけに、2CVの奇怪さが際だった。

大衆は2CVを見て「醜いアヒルの子」「乳母車」と嘲笑し、居合わせたアメリカ人ジャーナリストは「この『ブリキの缶詰』に缶切りを付けろ」と揶揄した。前衛派詩人で皮肉屋の作家ボリス・ヴィアンは2CVを「回る異状」と評した。

このような情勢から2CVを「エキセントリックな泡沫モデル」と見なす向きも少なくなかった。実際、同時期のフランスでは中小メーカーによって奇想天外な珍設計の超小型車が何種類か送り出されており、それらのほとんどが商業的・技術的に失敗作だったのである。

成功
だがピエール・ブーランジェはこの自動車の成功を確信していた。2CVがその奇矯な外見とは裏腹に、あらゆる面で合理的な裏付けを持って設計され、市場ニーズに合致した自動車であるという自信を持っていたからである。

もっとも彼は2CVの未曾有の成功を完全に見納めないうちに、1950年自ら運転するトラクシオン・アバンの事故で死亡した。

先行量産モデルは「特に2CVを必要としている」と考えられた希望者に優先販売され、日常における実際の使用条件について詳細なモニタリングが行われた。それらはフィードバックされ、技術改良と販売方針の改善に活用された。

2CVが廉価なだけでなく、維持費用も低廉で、扱いやすくて信頼性に富み、高い実用性と汎用性を有していることは、短期間のうちに大衆ユーザーたちに理解された。1949年の生産はスターターの必要性などの問題点があり、同年7月より始まり日産4台: 876 台に留まったが、翌1950年には 6,196 台と、月産400台のペースで量産されるようになり 1951年には生産台数は 14,592 台になった。以後も生産ペースは順調に増加していった。

フランス国民はこの(エキセントリックな)自動車の外見にも早々に慣れ、2CVは数年のうちに広く普及した。街角や田舎道に2CVが止まる姿は、フランスの日常的光景の一つとなった。

更にはヨーロッパ各国にも広範に輸出され、ことにその経済性と悪路踏破能力は各地のユーザーに歓迎された。イギリスなどにおいて現地生産も行われている。

シトロエン社はその後、排気量拡大や内外装のマイナーチェンジなどを重ねて2CVをアップデートしていくと共に、派生モデルを多数開発して小型車分野のラインナップを充実させた。1967年に後継モデルと思われる「ディアーヌ」を発表したが、結果として2CVはそれよりも長生きすることになった。ことに1970年代のオイルショックは、2CVの経済性という特長を際だたせることになった。

また、優れた経済性と走覇能力とを併せ持つ2CVに着目した欧州の若者達は、世界旅行の手段として2CVを選び、北はノルウェー、東にモンゴルを抜けて日本、西にアラスカ、南にアフリカを走り抜けた。更には世界一周旅行に出かけて50カ国、8つの砂漠を走り約10万kmを走覇したコンビもあった。

2CVの派生車
* 1951年 2CV タイプAのセンターピラーから後ろを箱形の荷室にしたユーティリティー(バン)、AU(後のAK)発表。
* 1954年 425ccエンジンのタイプAZのユーティリティー、AZU発表
* 1958年 2基のエンジンを前後に積む4WD車4×4サハラ(Sahara : タイプAW)発表
* 1960年 英国で生産されるFRPボディの2ドアクーペ、ビジュー (Bijou) 発表
* 1961年 小さなDSとしてアミ(AMI 6)発表 * 1967年 2CVの後継車ディアーヌ(DYANE)発表
* 1968年ABS樹脂ボディの多目的車メアリ(MEHARI)発表
* 1973年 途上国向け多目的車FAF発表
* このほか、2CVのシャーシを利用したさまざまなキットカーが制作された。例、Teilhol Tangara、Lomax、Hoffmann Cabrioletなどが日本にも輸入されている。

終焉
だが1980年代に至ると、基本設計が余りにも古くなり過ぎ、衝突安全対策や排気ガス浄化対策などに対応したアップデートが困難になってしまった。それにつれて販売台数も低下、1988年にフランス本国での生産が終了し、ポルトガル工場での生産も1990年に終了した。

40年に渡る長いモデルスパンはビートルこと「フォルクスワーゲン・タイプ1」や初代「Mini」と肩を並べるものであった。

スタイル・機構
全長×全幅×全高は3830×1480×1600mmで、全高を除いては現代の小振りな1000~1300cc級乗用車並みのサイズである(初期は全長3780mm)。

だが重量は極めて軽く、375ccの初期形で495kg、602ccの末期形で590kgに過ぎない。安全対策装備がほとんど備わっていないという実情はあるが、サイズに比して極めて軽量で、その構造が簡潔かつ合理化されている事実を伺うことができる。

ボディ外観
発表時から絶えず悪口や嘲笑の的に、更には無数の冗談の種になった珍無類のスタイルであるが、きわめて合理性に富んだ機能的デザインである。その実用性を最重視しつつも、結果として極めて個性的かつユニークなスタイルとなった外観は現在でもファンが多い。

1960年までは外板の一部(ボンネット等)に強度確保のため波板構造を用いており、ユンカースの輸送機を思わせる機能優先な外見だった(1961年以降は 5本峰の補強外板となった)。

1930年代に原設計された自動車らしく、グラスエリアが狭くフロントフェンダーも独立した古い形態を残している。ボンネットは強度確保のため強い丸みを帯びており、その両脇に外付けされたヘッドライトと相まって、2CV独特の動物的でユーモラスなフロントスタイルを形成している(2CVは静荷重による姿勢変化が大きいため、ヘッドライトは簡単に光軸調節ができる設計)。

フロントグリルは細い横縞状の大型グリルで、ボンネットフードはフェンダーのすぐ上から開く構造だった。1961年にボンネットフードと共にグリルも小型化され荒い横縞となった。何れも寒冷時にエンジンのオーバークールを防ぐため、布またはプラスチックのカバーが用意されていた。

客室部分は4ドアを標準とする。初期のドアは中央のピラーを中心に対称に開き、上に引き抜くことで簡単に取り外すことも出来た。1964年に安全上の理由から前ヒンジとなった。

居住性を重視して円弧状の高い屋根を備え、ガラスは簡素化のため平面ガラスしか使われていない。側面も複雑な曲線は持たず、幅員の有効活用のため1930年代の多くの自動車のようなホイールベース間の外部ステップは持たない(この点、同時代のフォルクスワーゲン・ビートルより進んでいた)。徹底した機能主義的デザインには、同時代の建築家ル・コルビュジェからの影響が指摘されている。

前部窓下にはパネルを開閉するタイプの(原始的だが効率よく通風できる)ベンチレーターを備える。なお、虫や落ち葉等の異物が入ってこない為に金網が開口部に張られている。

側面窓は複雑な巻き上げ機構を省き、中央から水平線方向にヒンジを持つ二つ折れ式である。開け放しておくときは、下半分を外側から上に回転させて引っかけておく。初期のものには方向指示器が無く、ドライバーがこの状態で窓を開け、腕を外に出して手信号で指示することを想定していた。プリミティブの極致である。

リアフェンダーは曲面を持った脱着式で、後輪を半分カバーするスパッツ状である。タイヤ交換の場合、ジャッキアップすれば、スイングアームで吊られた後輪は自然に垂下して作業可能な状態になるので、着けたままでも実用上の問題はない。

屋根はキャンバス製が標準で、好天時には後方に巻き取ってオープンにできる。(初期型はトランクの蓋までもが幌製だったが、1957年金属製となった)キャンバストップとしたのは、軽量化やコストダウンの他、空冷エンジンの騒音を車内から発散させる効果も狙ったものである。このため、柱時計や箪笥等の背の高い荷物も屋根を開ければ簡単に運べた。

他にも、中央に1つだったストップランプを標準的な2つに、太いCピラーに窓を付けるなど大小さまざまな改良が加えられたが、基本的な形状は42年間変わらなかった。

車内
大人4人が無理なく乗車できる。排気量に比してスペースは非常なゆとりがある(排気量400cc以下の自動車でこれほどの居住性を実現した例は世にも希である。ただし、車内幅は開発された時代相応に狭い)。

内装はごく簡素であり、計器類やスイッチは「運転に必要な最低限」しか装備されていない。その初期には燃料計すら装備されていなかった(燃料残量はタンク内に計量バーを差し入れて読み取るしかなかった)。ダッシュボード(?)下にはドライバーの膝上の高さで横方向一杯のトレーがあり、小物を置きやすい。

ステアリングは長年パイプを組み合わせた簡素な2本スポーク仕様だったが、1970年代以降にはグレードによってシトロエンの上級クラスと同じく片持ち式の1本スポークモデルもあった。1本スポークなら事故でドライバーがステアリングに叩きつけられても、ステアリングが折れて衝撃をある程度吸収できると見込んだものである。

パイプフレームで骨格を構築されたシートは、ゴムベルトでキャンバスを吊って表皮を張っただけの簡素きわまりない軽量設計であるが、乗客の身体によくなじみ、乗り心地は優秀である。パイプフレームは床面に左右2本の爪よって差し込まれただけであり、後期モデルの前席はスライド機能を持ったシートレールが採用されているが、前席・後席とも脱着は容易で軽いため、出先で取り外して屋外のベンチ代わりに利用することもできる。着座位置は高めで、レッグスペースを稼いでいる。

床面はほとんどフラットである。プロペラシャフトやその他諸々の機器による突起がなく、居住スペース確保に貢献している。

フロントウインドシールドのワイパーの動力は電動ではなかった。前輪を駆動するギアケースから引き出されたスピードメーター駆動用のワイヤーケーブルの途中にウォームギアを仕込み、ワイパーの駆動の動力にも利用したのである。このためスピードメーターは、ワイパーを駆動しやすいステアリングの左上端に置かれた。ワイパーの動作速度は速力に比例し、高速走行時では速すぎ、低速時では遅すぎ、使い勝手はけっして良くはなかった。停車中は作動しなかった(その場合ワイパーのスイッチノブを押し込み、手でノブを廻すことによって、ワイパーを手動で動かすことも可能であった)。のちには電動式ワイパーに改良され、メーターもステアリングコラム上に移った。

ヒーターは、空冷エンジンの冷却風を車内に送り込むものであるが、熱量不足に加え、ファンが装着されていないことから、余り効きは良くない。ガソリン燃焼式の独立ヒーターを装備するケースもあった。生産モデルでは、クーラーは最後まで装備されなかった。 (後付けのクーラーは存在する)

シャーシ
ホイールベースは2,400mmと、小さな排気量の割に長く、前後とも1,260mmのトレッドも1940年代当時の小型車としては広い(このゆとりが性能確保につながっている)。基本構成は、強固なプラットフォームフレームがそのままフロアパネルとなり、前後にサスペンションアームを、また前方にエンジンを初めとするドライブトレーンをオーバーハングさせている。この上に簡素な設計の軽量ボディを架装する。

サスペンションは、フロントがリーディングアーム、リアがトレーリングアームで、前後のサスペンション・アームはそれぞれコイルスプリングに接続され、これらのスプリングは横置きのサスペンション・シリンダー内に収められているが、この横置きシリンダーは「半浮動状態」で初期は左右の「たけのこバネ」により、後にエンジン・パワーの強化によりゴム・ブッシュにより半固定状態はその移動を制限され、最終的には「固定」された。前述した「前後関連懸架」とは、前輪-ロッド- ( コイル- サスペンション・シリンダー: pot de suspension -コイル) -ロッド-後輪 と結ばれており、コイル・スプリングを 2 倍に柔らかく使う、シトロエン社が考案した「軽車両用サスペンション」である。

左右それぞれの前後アームからはロッドが伸び、サイドシル下でスプリングを介して連結されている。この「前後関連懸架」により、前輪が突き上げを受けると前輪側のスプリングが収縮しサスペンション・シリンダーは前方に移動し、後輪ロッドを引き後輪を下げて車体をフラットに保つよう働く仕掛けで、サスペンションの柔軟性と路面追従性を大きく高めた。悪路への強さの秘密がここにある。この前後関連式ばねはまた、旋回時に車体ロールを抑制する。旋回外輪では、ばねが前後輪両方のバウンドに逆らう方向に働き、ローリング角度を減少させる。もっとも、この前後関連ばねのレート自体は圧倒的に低く、またリーディング/トレーリングのサスペンション・リンケージはロールセンタを極端に低く保つ為、本質的に旋回時のロールが極端に大きく、しばしば横転しそうに見える。しかし実際には車体重心高はそれほど高くなく、また上述した様にロールセンタが低くジャッキング・アップ・フォースを殆ど発生させないので、横転までの限界は想像以上に高く、操縦安定性に優れている(低出力ゆえ、シャーシ性能には余裕がある)。またこの構造ゆえ、荷重が大きければ大きいほど実質的なホイールベースが伸び、安定性を確保する方向に働くようになっている。

ユニークなのはダンパーで、登場時から各輪2種類の減衰装置を持っていた。

ばね上(車体)の振動の減衰はリーディング/トレーリング・リンクの車体側ピックアップポイントのフリクションにより得ている。このフリクション式はサスペンションのバウンド側にもリバウンド側にも同様の減衰力が作用することになり、一般的にバウンド側よりリバウンド側の減衰力を高めなければならない自動車のサスペンションでは不都合が生じるが、当時既にモーターサイクルでは同様のフリクション式減衰器が一定の成功を示していたので、2CVの設計年次を考慮すると採用は妥当である。

2CVのユニークな点は、ばね下(空気入りタイヤをばね、リンク類やハブ、ナックルなどをマスとするばねマス系)の減衰に、各輪のサスペンションアームに取り付けられた筒型ケース内に組込まれたコイルスプリング上端に錘を固定して、コイルスプリングと錘で決められる固有振動数で車体の振動を打ち消す「慣性ダンパー」(動吸振器)を用いた点である。このばね下制振装置は、他にはブリヂストンが近年イン・ホイール・モータ式電気自動車向けに研究している例があるだけで、非常にユニークな設計思想である。

ダンパーを各輪で2種類ずつ持つというのは一見無駄な様だが、通常、ばね上の共振周波数は1.2~1.5Hz、一方ばね下の共振周波数は 10~13Hz付近にあり、それぞれの振動減衰の為に個別の減衰器を用いる手法は、振動工学的には正当な手段と言える。しかし実際には、機械的なフリクションに頼ったリーディング / トレーリング・リンクの減衰装置は減衰力を安定して発生させることが困難であり、またばね下の動吸振器は寸法や重量の問題から設計が難しく、必ずしも効果的とは言い難い。後にテレスコピック油圧ダンパが後輪側に採用されたが、これらの2CVに特有な減衰器は1970年代まで使用し続けられた。これらの組み合わせは、エンジン出力により決定されている。

タイヤはミシュラン製が標準である。1950年代の125/400mm(16インチ相当)~125/15クラスのタイヤは、バルーンタイヤの登場した後の時代にも関わらず非常に細いが、径が大きくまた接地面が縦長で小さいことで、転がり抵抗を押さえ、パワーロスを減らしつつ、必要十分なグリップ力は確保できるというメリットがある。ミシュランは1948年、世界初のラジアルタイヤ「ミシュランX」を市場に送り出したが、ほどなくこの2CV用サイズのタイヤにもラジアルタイヤが用意された。現在の日本国内においては、ミシュランX- 125R15の取扱いはあるが、在庫不足の為入手は非常に難しい。代わりのタイヤとして、ミシュランZX-135R15や、一部の業者が扱うファイアストンF560-125R15や台湾メーカーのタイヤが装着される事も多い。

ブレーキはシトロエンの標準で当初から油圧だが、フロントはインボードブレーキで、長期に渡って前後ともドラムブレーキであったが、末期型はフロントがインボードのままディスクブレーキとなった。

前輪駆動車でネックとなる技術の一つは、前輪を駆動するためのドライブシャフト・ジョイントである。2CVが設計された時代には、自動車用の等速ジョイントは未だ量産されておらず、トラクシオン・アバンではダブル・カルダン型のジョイントが使用されていた。ダブル・カルダン・ジョイントは広義では等速ジョイントであるが、商用貨物仕様であるフルゴネットおよび派生モデルのアミ6の一部モデルにダブル・カルダン型のジョイントが使用されたものの、2CVではダブル・カルダン型のジョイントは使用されず、シングル・カルダン型ジョイントが使用された。のちのモデルでは等速ジョイントを装備している。

エンジンの構成
空冷水平対向式2気筒OHVのガソリンエンジンを、車体前端にオーバーハングして搭載された。一見農業用発動機のように簡素で騒々しい代物ながら、その実きわめて高度な内容を備える緻密な設計であり、主要部分はガスケットなしで組み立てられている。この点だけをみても普通のエンジンではない。設計者のワルテル・ベッキアは、前職のタルボ社在籍時には高性能車用のハイスペックエンジンを設計していた人物である。

空冷式としたのは、1930年代~1940年代の水冷エンジンにおいて冷却系統の不調がしばしばエンジントラブルの原因となっていたためである。更に軽量化、簡略化の効果も狙った。空冷方式の採用に限らず、このエンジンからはトラブルの原因となる要素は努めて排除され、基本的に故障しにくい構造になっている。

気筒数は快適さを損なう手前の極力まで減らされた2気筒で、BMWなどのオートバイエンジンなどを参考にし、コンパクトで一次振動の心配のない水平対向式を採用した。材質は1940年代としては先進的なアルミ合金を用いて軽量化、燃焼室は高効率な半球式で、バルブのレイアウトは吸排気効率の良いクロスフロー型とした(半球型燃焼室とクロスフロー型弁配置は、当時、レーシングカーに採用される技術であった)。エンジン前方に大きなファンを直結し、エンジン全体を冷却する。なおかつエンジン直前に置かれたオイルクーラーも同時に冷却される設計である。

通常のレシプロエンジンでは、ピストンからの動力をクランクシャフトに伝えるコンロッドは2ピースの分割式として、ボルト留めでクランクシャフトに脱着するようになっている。

ところが2CV用エンジンでは、コンロッドはクランク穴の空いた一体式として、工場で窒素冷却した組み立て式クランクシャフトを圧入してしまうやり方を取った。これで強度と工作精度を高めようという大胆不敵な発想である。クランクシャフトとコンロッドは分離不能となるが、現実にはほとんど分離を要さないので、これでもよいと割り切られた。

点火機構もトラブル排除のため徹底簡素化され、確実な作動と長期のメンテナンスフリーを実現している。クランクスローは180度であるが、点火は1 回転毎の等間隔ではなく、2回転毎に左右シリンダーが同時点火される。構造は非常に単純になるが、エンジンのトルク確保の面ではやや不利である(2CVエンジンのフライホイールが大きいのは、この同時点火に対する回転円滑化の一策である)。

エンジンスペック
この2気筒エンジンは非力ながら頑丈で、スロットル全開の連続走行にもよく耐えた。未開地でのエンジンオイル切れのため、やむなくバナナから採った油をオイル代わりに使ったケースがあるが、それでもトラブル無く走れたという。

試作中は、電動セルフスターターを搭載せず、運転席から農業用発動機同様にワイヤーを手で引いてスタートさせる構造であった。これも簡素化を旨としたピエール・ブーランジェの命令による仕様である。

ところが、試作車をワイヤー始動させようとした女性秘書が爪を割ってしまい、これに懲りたブーランジェは即刻セルモーター搭載を命令した。従って生産型の2CVは全車セルフスターター装備である。もちろんタイヤレンチを兼ねた手動クランキングレバーによるエンジン始動も最終型まで可能であった。これは、バッテリーの消耗した状態や寒冷地での始動に非常に役立った。

* 1948年当初はボア×ストロークが62mmのスクエアで、375cc(9HP/3,500rpm)の極少出力に過ぎなかった(それでも最初の2CVは最高55km/hに到達した)。

* 1955年以降ボアを66mmに広げて排気量425ccに拡大され、出力は12HP/3,500rpmとなった。最高速度75km/h。更に1963年には圧縮比を上げて16.5HP/4,200rpm、最高速度90km/hとなる。

* 1968年 「AMI」など上級モデル搭載の602cc(ボア×ストロークは74×70mm)を移入、28HP、最高110km/hに強化される。税法上は3CV級となるが、車名は2CVのままであった(「2CV 6」と称した)。小排気量型もしばらく「2CV 4」の名称で生産され、こちらは435ccで21HPを発生した。

* 1970年 602ccに強力型設定、32HPに。

* 1979年 602ccは29HP/5,750rpmに。燃費を改善。

変速機
4段式シンクロメッシュギアボックス(1速・後進のみノンシンクロ)。このクラスでの4段変速かつシンクロメッシュギア装備は、1948年当時、望外の高度な設計である。

開発中、ピエール・ブーランジェは「農民の妻に複雑な4段トランスミッションは扱いきれない」として3段ミッションとするよう厳命したが、ワルテル・ベッキアは超低出力のエンジンパワーを最大限に有効利用するため4段式ミッションを採用した。

「4速はあくまでもオーバードライブギアである」というベッキアの主張で、ブーランジェはしぶしぶ納得したという。この「言い訳」のためか、初期形2CVの4速ギアは「4」ではなく、高速を意味する「S」と表記された。

トランスミッションが運転席よりかなり前方に配置されているため、ギアボックス真上にロッドを立ち上げて、ダッシュボード中央から突出したシフトレバーに連結した。トラクシオン・アバン同様の手法で、至って簡潔かつ作動確実な構造であった。フロアシフト、コラムシフトのいずれでもない変わった形態である。

シフト操作も独特で、ニュートラルからレバーを左に倒し前に押すと後進、そのまま手前に引くと1速、ニュートラルでレバーを起こし前方に押すと2速、そのまま手前に引くと3速、ニュートラルでレバーを右に倒し押すと4速である。

のちには遠心式自動クラッチを装備したモデルも出現しているが、自動変速機は導入されなかった。

[ 2009/03/07 04:24 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën Visa CM 1'00"

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シトロエン・ヴィザ(Citroen Visa) は、フランスの自動車メーカー・シトロエン社が1978年から1988年まで生産した小型大衆車で、シトロエン・2CVがベースであったためにさすがに設計が旧態化していた大衆車のディアーヌとアミに代わる同社の主力商品として開発された。

1974年にシトロエンがプジョーの傘下に入り、PSA・プジョーシトロエンとなって最初に新規開発された新型乗用車で、前身モデルの一つであるシトロエン・LN同様、プジョー・104の機構をベースとしているが、豚の鼻を思わせるユニークなノーズやサテライトスイッチを持つダッシュボードなど、シトロエンらしいユニークな内外装デザインが与えられていた。

1978年に登場した当初は、2CV以来伝統の空冷水平対向エンジン ( 652 cc まで拡大 ) 付きの「スペシャル」、「クラブ」と、プジョー製オールアルミ 1124 cc 水冷直列4気筒エンジン ( X型 ) を積む「シュペール」の3種であった。水冷モデルは設計年次の古い空冷 652 cc 版と同じくらい経済的であり、もちろん遥かにパワフルで静粛であったため、1219 cc、1360 cc、954 cc の水冷モデルが次々に追加され、シリーズの中心となった。また、1984年にはプジョーが伝統的に得意とした  1769 cc ( XUD 型 ) ディーゼルエンジン搭載車も追加された。

1982年には大規模なマイナーチェンジが行われ、空冷モデルは姿を消し、特徴的だったが万人受けしなかったフロント周りはごく平凡で常識的なデザインに改められた。ダッシュボードのサテライトスイッチは維持されたが、1985年にはそれも常識的なものに換えられた。ヴィザのサスペンションはもはや前後輪関連式ではなかったが、依然として極めて長いストロークを持ち、ダンピングの利いた良好な乗り心地と、コーナリング時の大きなロールを受け継いでいた。また、直進性が高く、車体も空力特性に優れ、高速巡航能力が高いことは、兄貴分のGSをはじめとする歴代モデルと同様の美点であった。反面、不十分な車体の防錆対策、プラスチックが多用されて質感の低い内装、クラッチ交換にもエンジン脱着が必要な整備性の悪さなどが欠点とされた。

フォルクスワーゲン・ゴルフGTIの成功に刺激されて、この頃からフランス車にも高性能モデルが用意されるようになった。ヴィザにもマイナーチェンジ以降、1400 cc 80馬力の「GT」( 日本にも西武自動車販売によって輸入された )、ツインキャブ 93馬力の「クロノ」( Chrono )、ラリー仕様のパートタイム4WDの「ミルピスト」( Mille Pistes ) が追加された。1985年にはプジョー・205 GTI と共通の1588 cc 105 - 115馬力エンジンを搭載した「1.6 GTi」も追加されたが、ピニンファリーナ・デザインのスマートな3ドアハッチバックスタイルで成功作となった205 GTIのような商業的成功は得られなかった。BXの 1360 cc エンジンを搭載した上級版「14 TRS」も存在したが、BXとの価格差は小さく、人々はより新しいBXを選んだ。

1988年、シトロエン・AXに後を譲り、生産終了となる。

派生モデル
シトロエン・C15 ( Citroën C15 )
1984年10月に登場したヴィザをベースとした 570 kg 積のフルゴネット型商用車。1124 cc 47馬力のガソリンエンジンを積む C15E ( E はエッセンス = ガソリン )と、1769 cc 60馬力のディーゼルエンジン ( XUD7 型 ) を積む C15D が設定され、ディーゼルは後に 1905 cc ( XUD9 型 ) に変更された。リアサスペンションは BX のそれの流用で、前後方向に水平近くまで寝かされたダンパーにより、荷室の床は低く平らで、広々としている。

ヴィザと比べても C15 のセールスは好調といえるもので、PSAに多くの利益をもたらすヒット作となる。本国での生産が終わった後も、ポルトガルの Mangualde やスペインのビーゴで2005年まで21年間にわたり生産され、累計台数は118万1471台となっている。

シトロエン・オルチット
1978年から1996年まで、ルーマニアで生産された、ヴィザの3ドア版そっくりな外観のモデル。実際にはフィアットとの提携時代の1970年代前半に開発が進められていたが、プジョーとの合併でプジョー・104ベースにヴィザを開発することになったため、一旦お蔵入りになっていたモデルを生産化したもの。エンジンはGSと同じ空冷水平対向4気筒で、部品についてもヴィザや104との互換性はほとんどない。1985 - 90年までシトロエン・アクセルとして西ヨーロッパ各国でも販売されたが、品質が低く、低価格であったにもかかわらず成功しなかった。

[ 2009/05/01 00:52 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën BX Ad 1987 0'30"

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シトロエン BX(Citroën BX)は、フランスの自動車会社シトロエンが製造、販売したハッチバック型の乗用車。

シトロエン・BXは、GSAとCXの車格の間を埋める目的で1982年に発表された。1985年にはブレークと呼ばれるステーションワゴンを追加し、1993年に後継車種のエグザンティアが登場するまで製造された。

11年間、毎年改良を加えられたBXだが、大きく改良された1987年以降の後期型とそれ以前の前期型に大別される。

外装の差異は前後バンパーやフロント・ウィンカー、フロント・フェンダーの形状変更など小規模であるが、内装は前期型と後期型でかなり異なる。

前期型では、GSAやCX(前期型)と同様のボビン(回転ドラム)型スピード・メーターをはじめ、ウィンカー(セルフキャンセルされない)やライト、ワイパー、ホーン、ハザードのスイッチ類をメータークラスターに集中配置するなど個性の強いものを採用していたが、後期型では一部クラスタースイッチが残ったもののメータ類が全てアナログ式に、ウィンカー(セルフキャンセルされる)やライトなどのスイッチ類もコラムレバー型の一般的なものに変更された。

前期型、後期型ともに機能的で、ロングホイールベースから足元も非常に広く、実用的なグローブ・ボックスや各収納スペース、広大なリアのトランクなどを備え、1980年代の自動車デザインの流行であったスペース効率の追求を徹底していた。 もちろんリアシートを折りたたむことで、トランクスペースを拡大し巨大な荷物も積む事ができた。セルフレベリング機能により、荷重によるリアの沈み込みは全く無い。

スタイル・機構
デザインは内外装ともにイタリアのカロッツェリア、ベルトーネ社において、ランボルギーニ・カウンタックやランチア・ストラトスなどのデザインで有名なマルチェロ・ガンディーニが手掛けた(ちなみに同社在籍時における、ガンディーニの最後の作品でもある)。ベルトーネはBXを機にシトロエンと関係を深め、XMやZX、エグザンティアでもデザインを担当した。

なお、このモデルはXM(やZX、但しZXはハーフスカートというよりはリアー・フェンダー上部が少し沈んだ形式であり、正式なハーフスカートではない)と並んでシトロエン車最後のリア・ハーフ・スカートをはくモデルとなっている。特徴的な1本スポークステアリングもこの時期のモデルが 最後となった。

ボディサイズは、全長4230×全幅1660×全高1365、ホイールベース2655(単位はmm)

980kgと非常に軽量化されたボディ(日本仕様 1040kg~1110kg)は、フロントボンネットやリアハッチゲートがFRP製であった。(但し、初期型や一部の最後期型ではボンネットがスチール製)

エンジンは、排気量1.4L、1.6L、1.9Lで直列4気筒OHC、1.9Lの直列4気筒DOHCのガソリンエンジン、排気量1.7L、1.9Lの自然吸気、および1.7Lの直列4気筒OHCディーゼルエンジンを搭載していた。

これらをシトロエン伝統のFF方式で駆動した。 またFFだけではなく、市販用に四輪駆動モデルも存在していた。

ディーゼルエンジンはプジョー製であるが、ターボディーゼルエンジンは特筆すべき高性能エンジンであった。 ラジエター部分から吸入された空気がボンネット内部につけられたエアーダクトを通って(外観的にはボンネットの形状はガソリンエンジンのそれと全く見分けがつかなかった)そのままエンジン上部に据えられた空冷式インタークーラーに入る仕組みとなっており、エンジンの高性能化に一役買っていた。 実際、英国においてこのBX Turbo Dieselはディーゼル・オブ・ザ・イヤーに輝いてもいる。また燃費も非常によく、高速道路では20km/Lを優に超える事も度々あり、加速性も非常によく、とても扱いやすいエンジンであった。馬力はその頃のエンジンとしてはおどろくことに90馬力であった。これに続くエグザンティアやXMのディーゼルはインタークーラーがないため、同じディーゼルエンジンであっても馬力が少なく(エグザンティアにおいては1.9L HDIでありながら同じ90馬力)、またターボ加給時の加速ショック(高速走行時においてさえもアクセルを踏むとはっきりと体感できるほどの加給ショックがあった)などはなくなっている。 但し、オリジナルの1.7Lノンターボ・ディーゼルは非常に馬力がなく、はっきりいってとろく、追い越し時などにおいて大幅な我慢を強いられる代物であった。 ただし、1.9Lノンターボエンジンは普通のエンジンとして扱うことができる、使いやすいエンジンではあった。

サスペンションは、フロントがハイドロニューマチック・シトロエンとしては初めてストラット式でリアがトレーリングアーム式。スプリングは、前後共にハイドロニューマティック。

バリエーション
BXには、 世界ラリー選手権・グループBの参戦資格を得るために200台製造された「4TC」と言うモデルが存在した。

外観は、ワイドトレッド化にともない前後フェンダーがブリスターフェンダーとなり、フロントライトの間に補助ライトが4灯埋め込まれ、リアには大型スポイラーが装着されていた。

エンジンは、プジョー・504用エンジンがベースの、排気量2.1Lで4気筒OHCターボのガソリンエンジン。それを縦置きでフロントオーバーハングに積み、4WD方式で駆動した。当時の最先端、フルタイム4WD+ビスカス・カップリングではなく、パートタイム4WDであった。初期のアウディ・クワトロとほぼ同じである。

サスペンションは、前後ともにダブルウィッシュボーン式に変更されたものの、スプリングはそのままハイドロニューマティックを使った。

競技用エヴォリューションモデルでは回頭性の向上を狙いラジエターとチャージクーラーは後方に移されたものの、ハイドロニューマティックはそのまま使われた。このサスペンションの耐久性は低く、「悪路ポリス」と揶揄される、非常にハードな1986年アクロポリスラリーでは、出走3台すべてが序盤すぐにリタイアしている。WRCでは、モンテカルロ・ラリー、スウェディッシュ・ラリー、アクロポリス・ラリーに出場している。

競技での成績不振と高価格で、市販車のほとんどは売れ残り、廃棄された。正確な台数は不明だが、現存40台程度と推測されている。

販売
シトロエン社史上、2CVに続く販売台数を誇り、ヨーロッパにおいてフォルクスワーゲン・ゴルフIIと並ぶ一大ベストセラー車となった。 これは、ハイドロニューマティックサスペンションの信頼性が上がったことや水冷エンジン(プジョー製)、ハイパワーディーゼルエンジン(プジョー製)の採用などの他に、使いやすく、そして合理的な構造になっていたこともその一因と考えられる。

日本での販売
当初は西武自動車販売が輸入していたが、1989年からはマツダが加わり、ユーノス店でも販売され、エグザンティアに世代交代するまで10年近くも輸入された。四速オートマチックやエアコン(クーラーではない)、パワーステアリングが装備され、一般ドライバーにも手を出しやすい存在となったこと、にもかかわらずシトロエンらしさを十分に留めていたことが成功の要因となり、今なお、累計で日本で最も多く輸入されたシトロエン車であり続けている。

[ 2009/05/16 12:35 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)

Citroën XM Exclusive BX 16V 16S 0'25"

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シトロエン・XM(Citroën XM)は、フランスの自動車会社シトロエンがかつて製造、販売したハッチバック型、およびステーションワゴン型の乗用車。

シトロエン・CXの後を受け、1989年に登場したシトロエンの最上級車。ステーションワゴン型のブレークは1991年に登場。ブレークは1998年、標準モデルのハッチバックは2000年まで生産された。

最上級車としての地位は、2000年に発表されたエグザンティアの後継車種C5に譲るかたちになったが、正式な後継車種は2005年に発表されたC6となる。

1990年の欧州カーオブサイヤーに輝いた。これはシトロエンとしてGS、CXにつづいて3度目の受賞であった。

サスペンションは、前輪がマクファーソン・ストラットで、後輪がトレーリングアーム、スプリングはこのモデルから、それまでシトロエンの上級モデルに採用していたハイドロニューマチックに替わり、電子制御を組み込んだハイドラクティブを採用した。1993年には、さらに進化したハイドラクティブIIを導入した。なお、左ハンドルモデルにはセルフセンタリング機構が搭載されている。

デザインは、外装をイタリアのカロッツェリア・ベルトーネが、内装をPSA・アドバンスドデザインが担当した。

前モデルのCXはセダンであったが、XMでは最上級車でありながらハッチバックとなった。しかし、リヤシートと荷室の間にもう一枚ガラスの仕切りがあり、リヤハッチを開けても室内の気密性を保つことが出来た。

1994年には、大規模なマイナーチェンジが施されメーターまわり及びダッシュボードの形状が大きく変わった。 外装はほとんど変わらなかったが、フロントグリルの形状が変更されると共に左側によっていたダブルシェブロン(シトロエンのエンブレム)が中央に移動した。

エンジンは、排気量2.0Lで水冷直列4気筒SOHC、排気量3.0Lで水冷V型6気筒SOHC(PRVエンジン)のガソリンエンジンと2.1Lと2.5Lで水冷直列4気筒SOHCのディーゼルエンジン。2.0Lのガソリンエンジンと2.1L、また2.5Lのディーゼルエンジンにはターボ付きもあった。また3.0LでV6のガソリンエンジンは、1991年に24バルブバージョンが追加され1998年にはDOHC化された。それらをシトロエン伝統のFF方式で駆動した。

ボディサイズは、全長4710×全幅1795×全高1395、ホイールベース2850(単位はmm)。ブレークは、全長4965×全幅1795×全高1465、ホイールベース2850(単位はmm)。

日本での販売
正規輸入代理店であった西武自動車販売とユーノスにより、1990年から3.0L水冷V型6気筒SOHCでガソリンエンジンのXMと豪華装備でサンルーフ付きのXM-Xが輸入された。

* 1991年からはハンドル位置の左右選択が可能となった。

* 1992年には、同じエンジンを積むステーションワゴンのXMブレークが、1993年にはXMの装備を省いたXM-S(右ハンドルのみ)が加えられた。

* 1994年からは、XM-Xに替わりフロントグリルや内装の変更を受けたマイナーチェンジ後のXMエクスクルーシブが、1995年にはマイナーチェンジ後のステーションワゴンモデルのXMブレークが輸入された。また、サスペンションのハイドラクティブがより改良されたハイドラクティブIIに変更されていた。

* 1996年にユーノスが消滅したため、西武自動車販売のみの輸入になり2001年まで販売された。

* すべてトランスミッションはZF製4速のATであった。

* ZF製ATは非常に効率が悪く、かつ故障を引き起こす可能性が多い為フランス本国より5速MTを取り寄せ換装を行った車両も存在する。

[ 2009/05/17 15:31 ] CITROEN | TB(0) | CM(0)
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