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Fiat Commercial 0'38"

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イタリア最大の自動車会社 FIAT
社名のフィアット(FIAT)とはFabbrica Italiana Automobili Torino の略で、「トリノのイタリア自動車製造所」の意味。トリノ市のリンゴット地区に本拠を置くことから、フィアット本社工場と「リンゴット」はしばしば同義とされる。

ジョヴァンニ・アニェッリら数人の実業家の出資によって、1899年にトリノで創業された。かつてはフォーミュラーレースにも参戦してアルファ・ロメオやブガッティなどと覇を競い、1950年代には「8V」という高性能な高級GTカーも製造、数々の先進的な設計を次々と実用化・量産化した。

第二次世界大戦後にジョヴァンニ・アニェッリの孫のジャンニ・アニェッリ(ジャンニは愛称、本名は祖父と同じジョヴァンニ)が経営を引き継いでからは、ランチア、フェラーリ、アルファ・ロメオ、マセラティ、アウトビアンキ、アバルトなど、イタリア国内の自動車メーカーなどを次々と傘下に収め、同国最大の自動車メーカーとなっている。また、商用車部門としてイヴェコ、電装部品部門としてマニエッティ・マレリなども傘下に収めている。現在のフィアット本体は主に比較的小型の大衆向け乗用車を生産し、高級車などは傘下のメーカーが生産している。

イタリア国外進出
第2次世界大戦前から国外進出に意欲的で、1934年にはフランスにシムカを設立させたほか、ドイツではNSUの自動車部門を買収し、「NSUフィアット」とした。戦後になってもスペインでセアト(現在はフォルクスワーゲングループ)を設立した。

また、冷戦下において東欧圏への進出し、旧ソビエト連邦にプラントを輸出し、1970年にAvtoVAZが「ジグリ(輸出名『ラーダ』)」の生産を開始した他、ポーランドや旧ユーゴスラビアにも進出した。さらに南アメリカではアルゼンチンに進出した他、1970年代にはブラジルでも生産を始めた。

またこの頃には、国営化されて以降高コスト体制と販売不振から経営苦境に陥っていたアルファロメオや、同じく経営不振に陥っていたランチア傘下に収め、イタリアの自動車業界を事実上独占することになる。

経営不振
この間、フィアットは石油ショックやその後の慢性的な労働争議により経営が不安定化し、1974年から1978年まで新型車の発表がなかった。リビアの元首カダフィ大佐からの融資を受け入れ、その後1980年代始めに発売された、斬新な設計の小型車「パンダ」と「ウーノ」の成功で窮地を脱した他、エンツォ・フェラーリ亡き後のフェラーリを完全子会社化した。しかし、1990年代は、「ブラーボ/ブラーバ」が成功したのを最後に、ヒット作に恵まれなかった。

その後も低迷が続き、2000年より自動車部門でゼネラルモータースと提携していたが、GM側が2005年に一方的に提携を解消、買収契約に関する違約金、15.5億ユーロをゼネラルモータースから得た。

経営建て直し
その後は、傘下のフェラーリおよびマセラティの経営を立て直したルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ会長、およびセルジオ・マルキオンネCEOのもと、経営の建て直しをはじめた。

その様な中でもアニェッリ一族による経営が基本にあり、2005年にはジャンニ・アニェッリの孫のジョン・エルカーンがフィアットの取締役に、その弟のラポ・エルカーンがブランドマーケティング担当部長に就任し、過去に使用していたロゴマークを復活させ、ロゴを入れたアパレルなどを展開し、世界的に大ヒットさせた。これらの功績を認められ、両氏は将来的にトップに就任することが予想されている[要出典]。

また、経営建て直しの一環として、モンテゼーモロ会長の指揮のもと、2005年に相次いで3つの新型車を発表している。まず、導入が待たれていた新Dセグメントモデルを、かつて使用していた車名、「クロマ」の名で発表。ワゴン風の5ドアボディとなっている。続いて7月28日、フィアット社はプントの第3世代「グランデプント」を発表した。実際に全長が4mを超える、「グランデ」(大きい)サイズだが、それ以上に大きな命運がこの車種に懸かっているとされ、実際同モデルはその後2006年1月のヨーロッパ市場における販売台数1位になるなど、フィアット建て直しのシンボルとなった。

さらに12月11日にはスズキとの共同開発による小型クロスオーバーSUV「セディチ(16、4×4=16から)」を発表。これらはいずれもジョルジェット・ジウジアーロとの協力でデザインされたものである。

復活
その様な中、1979年のデビュー以来根強い人気に支えられてきたパンダの後継であるニューパンダが2004年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

その後、積極的な新車攻勢とブランドイメージの復活を受けて販売台数が増加し、2005年11月には単月黒字を計上したほか、その後も単月黒字を連続して達成。その他にもクロマの予想を上回る販売台数を得た他、グランデプントが2006年1月のヨーロッパ市場における販売台数1位になる。2006年第三四半期の販売台数も、ルノーやプジョーなどのライバルが前年比割れになる中、前年比増になるなど、長年の低迷から完全に復活したとの評価を受けている

現在
2007年にはグランデプントベースのセダン「リネア」、大失敗に終わったスティーロの後継車種「ブラーボ」(これまたかつての車名が復活)、往年のヒット作である「500」の新型をデビューさせる他、アバルト(Abarth)ブランドの復活(同モデルをベースに東京モーターショーで発表)を行う予定である。

ラリー
世界ラリー選手権(WRC)には早期から参戦しており、1970年代はグループ4マシンの「124アバルトラリー」、「131アバルトラリー」で上位に食い込む活躍をした。1980年代からはグループ会社のランチアのグループB及びグループA車両で参戦して好成績を残し、特にデルタで6連覇を果たした1987年~1993年にかけては常勝ともいえる活躍をしていた。近年は経営悪化もあって活動を潜めていたが、プントでJWRCに継続的に参戦。2006年から本格的にシリーズ化されたS2000クラスにグランデ・プントで参戦しヨーロッパ選手権、イタリア選手権を制覇し、アバルトブランドを復活させた。

長い歴史を持つフィアットは、社名ロゴと車両オーナメントの変更が多いことでも知られている。

プチ情報
  • イタリアのマイアーニ社から「フィアット」という名のチョコレートが販売されている。1911年に、新車「タイプ4」の宣伝に使うためマイアーニ社に制作を依頼したのが誕生のきっかけ。
  • トリノ市の有力紙「ラ・スタンパ(La Stampa)」などの各種マスコミや各種製造業の多くもフィアットグループに属する。
  • イタリアサッカー1部リーグセリエAの強豪ユヴェントスは、フィアットのオーナー一族であるアニエッリ家が設立し、現在もオーナーとしてその資金・運営においてバックアップしている。そのため、ユーヴェの選手たちはフィアットグループの車に乗って(乗らされて)いる。
  • 2007年よりロードレース世界選手権MotoGPクラスにおいてヤマハチームのスポンサーとなっている。自動車会社が資本関係のない自動車会社のスポンサーとなるケースはトラック業界など以外では少ないが、チームにはフィアットと資本関係のあるフェラーリへの去就が噂されているバレンティーノ・ロッシ選手がいる。


日本でのビジネス
第二次世界大戦前より自動車の輸入が行われていたが、幾つかの変遷を経て1980年代に入ると、ジヤクス・カーセールス、チェッカーモータース、サミットモータース(住友商事)の大手3社によって全国展開された。

1990年4月、フィアット・アルファロメオの正式な日本法人として「アルファロメオジャパン株式会社」が設立。全国正規販売網「アレ-ゼ」が構築され、アルファロメオと併売でフィアット車の販売を開始する。

現在は日本法人の社名は「フィアット グループ オートモービルズ ジャパン株式会社」となり、日本でのフィアット&アルファロメオのビジネス(ランチア、マセラティ、フェラーリを除く)を統括している。

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[ 2007/07/21 22:32 ] FIAT | TB(0) | CM(1)

Fiat 124 commercial 1970 (in korea) 1'00"

トップページFIATカテゴリーFiat 124 commercial 1970 (in korea) Fiat_124_commercial_1970__in_korea.jpg
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フィアット・124(Fiat 124)はイタリアの自動車メーカー・フィアットが1966年に発表・発売した小型乗用車である。同年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞した。

イタリア国内では4ドアセダン(ベルリーナ)と 派生モデルの「124スポルト・クーペ」が1974年まで生産され、後継の131に生産移行したが、2ドアオープンモデルの「124スポルト・スパイダー」は1985年まで生き永らえた。

また特筆すべき事項として、旧ソビエト連邦やインドなど世界各国で大規模にライセンス生産・ノックダウン生産され、開発から40年以上を経過した2009年現在もなお一部で生産継続されている事実が挙げられる。特に旧ソビエト連邦およびその解体後のロシアにおいてラーダ ・VAZ-2101の名で生産された台数は膨大なものとなり、124シリーズの今日までの累計生産台数は1500万台を超えていると言われる。これは2100万台以上が生産されたVWビートルには及ばないものの、T型フォードに匹敵する同一モデル生産台数である。

1966年に、それまで生産されていた1300/1500の後継車種として発表された124は、開発コードの1で始まる3桁の数字をそのまま車名とする新しいネーミングが与えられた初のモデルで、ほぼ同時期に社長に就任したジャンニ・アニェッリ(創業者ジョヴァンニの子息)の就任後初のニューモデルであった。

124は何の装飾も無い、シンプル極まる箱型ノッチバックの後輪駆動4ドアセダンであったが、軽量設計を特徴とし、トータルバランスに優れた軽快な小型ファミリーカーとして完成された製品であった。

このクラスの実用車としてはルノー・8と並び、早くから4輪ディスクブレーキが採用された他、リアサスペンションも固定軸ながらコイルスプリングが採用されるなど、時流に半歩先んじた技術が採用されていた。元フェラーリの主任技術者アウレリオ・ランプレディによって新設計された1198ccエンジンもOHVではあるが軽量で高回転を許容する優れたエンジンであり、後に追加された高性能版ではシリンダーヘッドがDOHC化され、1990年代まで生産されたほどである。

124にはその後、5ドアワゴン、高性能モデルのスペシャル、スポルトスパイダー、スポルトクーペが順次追加され、バリエーションを拡大した

当初の1197cc65馬力の標準型に加え、1968年には排気量を1438ccに拡大して70馬力とした「スペシャル」が追加された。外観も丸型4灯式ヘッドライトが与えられ、標準型とは大きくイメージを変えた。同時にトップモデルとして、スポルト系に使われていたDOHCエンジンを装備した「スペシャルT」も登場した。

1970年にマイナーチェンジを受け、標準型はフロントグリルのパターン変更、スペシャル系は黒い樹脂製のフロントグリルに変更されて印象を改めた後、1972年にスペシャルTのエンジンが同年生産中止となった125で用いられていた1592cc95馬力に変更された。その後は変更無く1974年まで生産された。

日本へは登場直後から西欧自動車によって輸入されたが、余りにシンプルな標準型は「外車=高級車」という日本的価値観と相容れず、販売台数はごく少なく、むしろ1967年に誕生したDOHCエンジン搭載の上級車種である125の方が販売の主力となり、124の輸入は早々に打ち切られた。しかし、一時中断したフィアットの輸入が1974年にロイヤル・モータースによって再開された際には、既に消滅していた125に代わって対米輸出仕様の124スペシャルTが導入され、1976年に131Sが輸入開始されるまで販売された。ただし、排気ガス対策で83馬力にパワーダウンした上、不似合いに大きな衝撃吸収バンパーが装着され、オートマチック版も存在しなかったため、販売台数はクーペやスパイダーよりも少なかった。

スポルト・スパイダー
4ドアが登場した1966年秋のトリノ・ショーに、1959年以来生産されてきた1500/1600Sカブリオレの後継車として、同じピニンファリーナのデザイン・車体製作による2ドアスパイダーが登場し、翌67年から発売された。シャシーはベルリーナとほぼ共通の設計ながら、ホイールベースが短縮され、エンジンも当初からDOHC化されており、1438cc90馬力を発揮した。ギアボックスは5速MTが与えられていた。1966年の時点で既に四輪ディスクブレーキ・DOHCエンジン・5速ギアボックスを完備していたことは、ライバルのアルファロメオ・スパイダー(デュエット)を大いに意識したためであるが、非常に進歩的な設計といえる。

また、ソフトトップ(幌屋根)の構造も独創的で、幌をたたむ際に後部側面ガラスもボディ内に収納される。ソフトトップを持つ2ドアオープンモデルの場合、幌を挙げた場合には後部側面は幌に覆われ視界が狭いのが常識であるが、後部側面ガラスを採用したことにより、雨天時の実用性も確保している。

なお狭いながらも後部座席が設けられ、浅いものの比較的大きなトランクスペースを確保されており、スポーツカー然とした見た目とは対照的に高い実用性を持たせたことは、大衆車メーカー製品ならではの長所であった。

1970年にマイナーチェンジを受け(車台番号の頭文字がAからBに変更された)、フロントグリルの意匠が変更されると共にボアアップした1608cc110馬力、標準でウェーバー40IDF 型ツインキャブレター(2連装キャブレター、アメリカ仕様ではシングル)が奢られた高出力エンジンが追加された。

1973年にはこのエンジンの構造が一部見直されて型式が「132」となり、排気量は1592cc106馬力となり(この時車台番号の頭文字は再びCに変更された)、翌74年には1756cc118馬力版も追加された。

また、1972年には、アバルトがチューンナップした「124スパイダー・アバルト・ラリー」も約1000台生産された。DOHC1756ccエンジンはウェーバー44IDF 型ツインキャブレターで128馬力にチューンされた。16バルブ化することも可能で、WRC仕様車は最終的に210馬力にまでチューンされ、旧態化したランチア・フルヴィア1600HFに代わり、ストラトスが戦闘力を付けるまでの1973年~1975年シーズン、フィアット・ワークスチームのラリーカーとして活躍した。ストラトスが参戦後も、ストラトスに勝利することはなかったものの、たびたび上位入賞を果たし、後継のアバルト131ラリーに譲るまで。外観もアバルトらしくバンパーレス、マットブラックのFRP製ボンネット・トランクリッドやアバルト製マグネシウムホイールが装着されていた。

スパイダーは1979年には再度マイナーチェンジを受け、ヨーロッパ仕様車も対米輸出モデル同様の衝撃吸収型の大型バンパーを与えられたが、しかし、厳しくなる一方の排気ガス規制の対策のために、その出力は100馬力、対米輸出車(ならびに日本仕様車)では僅か78馬力に抑えられた。しかしその後排気量を1995ccへと拡大し、ボッシュ社製燃料噴射装置を導入することで、110馬力(アメリカ仕様で105馬力)となった。なお、1981年にはターボチャージャーを追加したモデルが追加されたが、少数の生産にとどまった。

1982年にはスーパーチャージャー付き135馬力の「VX」がヨーロッパで販売された。同年以降、車名からフィアットが外され、ボディ製造も行っていたピニンファリーナブランドでの販売となり、「ピニンファリーナ2000スパイダー」として 1985年まで継続生産された。このピニンファリーナ・スパイダーでは、フロントフードの開閉機構変更、後部座席の廃止(一部では収納機能の追加)、デジタル時計の追加等のメーター周りの意匠変更、シート形状の見直し、トノカバー取付方法の変更などによって、高級感を高める変更が行われた。 1985年の製造終了までの累計生産台数は約15万台に達した。

生産台数の過半は北米に輸出されたが、フィアット輸入代理店がたびたび交代した日本においても西欧自動車・西武自動車販売・ロイヤル・モータース・東邦モーターズ・近鉄モータースが順に輸入販売を行ったほど、根強い人気があった。

スポルト・クーペ
スパイダー登場の翌年である1967年、2ドア4座の「スポルト・クーペ」が追加された。デザインはフィアット自社チームの作品である。エンジンはスパイダーと共通のDOHC1438ccが搭載された。初期型は丸型2灯式ヘッドライトを持ち、車台番号の頭文字がACで始まるが、軽量で最も操縦性に優れていたとされる。

1970年にマイナーチェンジを受けて丸型4灯式ヘッドライトとなり、フェンダーラインが低められ、テールライトのデザインも変更され[1]、車台番号の頭文字がBCとなった。内装では初期型のウッド調のステアリングホイールやダッシュパネルが黒一色に改められた。エンジン排気量は同時期のスパイダー同様1608ccに拡大され、動力性能は向上したものの、リアサスペンションからはスタビライザーが外され、セッティングもソフトになり、ロードホールディングは逆に低下した。

1973年には再度の変更を受け、車台番号の頭文字がCCとなり、サスペンションのセッティングは元に戻され、DOHCエンジンは1592ccと1756ccの二本立てとなった。トランクリッドはバンパー上から開くようになり、テールライトは縦型となり、ダッシュボードも刷新された。しかしフロントグリルやバンパーが大型化され、サイドモールなども追加されるなどした結果、従来の清楚な雰囲気は大きく損なわれた。

比較的低価格で軽快なスポーティーカーとして1960年代末から70年代初頭の日本でも人気があり、西欧自動車・西武自動車販売・ロイヤル・モータースによって輸入された。

クーペの生産台数は初期型(AC)が約113,000台、中期型(BC)が約98,000台、後期型(CC)が約75,000台であった。

旧ソビエト連邦・現ロシア
1966年からフィアットはソビエト連邦のVAZ自動車工場の建設に出資した。この背景には、当時のイタリア政府の親ソ政策が存在していた。同工場は 1970年に完成し、124のライセンス生産版である「ジグリ(Zhiguli)」の生産が開始された。

当時としては最新型に近い同車は、それまでのソ連製乗用車と比較すると非常に進歩的な設計で、車種の選択肢が限られる共産圏では最良レベルの小型車であったため、ソ連国内では圧倒的なシェアを獲得することになった。さらに低価格を武器に東西ヨーロッパ各国にラーダ ВАЗ-2101、のちラーダ・1200という名で大量に輸出された。この輸出はフィアットの承認を得たうえでの販売である。

ほぼオリジナルの124のままでの生産は1984年まで続き、この頃になるとラーダの名は、西ヨーロッパにおいては旧態化した設計、不十分な安全性、快適装備の欠如の代名詞的な存在となっていた。それでもなお圧倒的な低価格と維持費の安さを売り物に一定の売れ行きを示し、ソ連にとって貴重な外貨の獲得に貢献した。

その後、主にフロント・リアのデザインが変更されてラーダ・2104/2105/2107となったが、VAZでの生産はソ連解体後の2008年現在も続行され、累計台数は既に1400万台以上に達している。

また、一部のモデルはロータリーエンジンを搭載し、主に交通取締り用のパトカーとして使われた。

インド
インドではプレミア社によって1986年から「プレミア・118NE」として生産開始された。同社はそれまで1960年代初期の1100Dを生産していたのでその世代交代版となる。

外観は角型ヘッドライト以外1966年のデビューオリジナルに近いが、エンジンは日産A12型(1171cc/52馬力)に換装されていた。1986年当時のインドでは最も設計年次が新しい乗用車であったのでデビュー当初は人気車種となったが、その後の経済改革で新型車が次々に輸入・現地生産されるようになると需要は急激に落ち込み、2001年には生産中止となった。

スペイン
スペインではセアト社によって1968年から1980年まで「セアト・124」として生産された。4ドアベルリーナ・.5ドアワゴンに加え、スポルト系としてはイタリア国外では唯一、BC・CC系のスポルト・クーペも1970年から1975年まで生産された。

トルコ
トルコではトファシュ社によって、「トファシュ・ムラット124」の名前で1971年から1977年まで134,867台生産された。

韓国
韓国では亜細亜自動車(아시아자동차、アシアチャドンチャ、後に起亜自動車の傘下に入った)が1970年から1975年まで、「フィアット124」(피아트 124、ピアトゥ 124)として生産した。

エジプト
2002年から現在まで「ラーダ・エジプト」社が124ベースのラーダ・2104系をライセンス生産している。

CKD生産
ブルガリアではPirin-Fiatの名で、1967年から1971年まで、ノックダウン生産された他、マレーシアでも124スペシャルが現地組み立てされていた。

[ 2007/12/27 23:34 ] FIAT | TB(0) | CM(0)

Fiat Punto CM 0'30"

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プント(Punto)はイタリアの自動車製造会社フィアットが製造、販売する小型のハッチバック型自動車である。

フィアット社内でのプロジェクト名、「178プロジェクト」のコードネームのもと、フィアット・ティーポをベース車両として開発され、1993年9月に発表。1994年にフィアット・ウーノの後継車両として登場。伊語でPuntoとは英語でPoint、日本語で「点」を意味し、オペル・コルサ、フォルクスワーゲン・ポロなどの対抗馬として、小型ハッチバック車市場に投入された。

3代目(2005年-)
「199プロジェクト」のもとに開発が進められた車両で、デザインはボディ、内装とも初代に次いでジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザイン社が担当。「大きなプント」を意味するグランデ・プントと名付けられ、2005年7月28日発表。資本提携が解消されたGMのプラットフォーム、GM・ガンマプラットフォームを採用、優れたパッケージングによりクルマの巨大化が著しい昨今において全長は4mを超えたが、全幅は1.7mを切っている。日本では2006年6月に発売。6速MTとセミオートマチックトランスミッションのデュアロジックを持つモデルがある。なお、欧州では2代目プントも引き続いて販売される。

[ 2008/10/11 11:18 ] FIAT | TB(0) | CM(0)

Fiat Girl Watching Commercial 0'41"

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プント(Punto)はイタリアの自動車製造会社フィアットが製造、販売する小型のハッチバック型自動車である。

フィアット社内でのプロジェクト名、「178プロジェクト」のコードネームのもと、フィアット・ティーポをベース車両として開発され、1993年9月に発表。1994年にフィアット・ウーノの後継車両として登場。伊語でPuntoとは英語でPoint、日本語で「点」を意味し、オペル・コルサ、フォルクスワーゲン・ポロなどの対抗馬として、小型ハッチバック車市場に投入された。

2代目(1999年-2005年)
フィアット社内でのプロジェクト名、「188プロジェクト」のもとに開発が進められた車両で、1999年にデビュー。1.2L、1.8Lのガソリンエンジンと、1.3L、1.9Lのディーゼルエンジンをラインナップした。1.3Lディーゼルエンジンにコモンレール式の燃料噴射装置を採用した。先代に引き続き、CVTは富士重工製である。

2003年12月に、500万台生産を記念してビッグマイナーチェンジを実施。フェイスリフトによりフロントマスクを一新した。それまでのグリルレスで細目のヘッドライトの顔つきから、ダミーグリルの装着およびヘッドライトの大型化を施しフロント外観を一新した。

[ 2008/10/12 11:28 ] FIAT | TB(0) | CM(0)

Fiat Punto 0'34"

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プント(Punto)はイタリアの自動車製造会社フィアットが製造、販売する小型のハッチバック型自動車である。

フィアット社内でのプロジェクト名、「178プロジェクト」のコードネームのもと、フィアット・ティーポをベース車両として開発され、1993年9月に発表。1994年にフィアット・ウーノの後継車両として登場。伊語でPuntoとは英語でPoint、日本語で「点」を意味し、オペル・コルサ、フォルクスワーゲン・ポロなどの対抗馬として、小型ハッチバック車市場に投入された。

2代目(1999年-2005年)
フィアット社内でのプロジェクト名、「188プロジェクト」のもとに開発が進められた車両で、1999年にデビュー。1.2L、1.8Lのガソリンエンジンと、1.3L、1.9Lのディーゼルエンジンをラインナップした。1.3Lディーゼルエンジンにコモンレール式の燃料噴射装置を採用した。先代に引き続き、CVTは富士重工製である。

2003年12月に、500万台生産を記念してビッグマイナーチェンジを実施。フェイスリフトによりフロントマスクを一新した。それまでのグリルレスで細目のヘッドライトの顔つきから、ダミーグリルの装着およびヘッドライトの大型化を施しフロント外観を一新した。

[ 2008/10/13 11:50 ] FIAT | TB(0) | CM(0)

Fiat Grande Punto quot T-Jet Remix quot advert 2008 0'40"

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プント(Punto)はイタリアの自動車製造会社フィアットが製造、販売する小型のハッチバック型自動車である。

フィアット社内でのプロジェクト名、「178プロジェクト」のコードネームのもと、フィアット・ティーポをベース車両として開発され、1993年9月に発表。1994年にフィアット・ウーノの後継車両として登場。伊語でPuntoとは英語でPoint、日本語で「点」を意味し、オペル・コルサ、フォルクスワーゲン・ポロなどの対抗馬として、小型ハッチバック車市場に投入された。

3代目(2005年-)
「199プロジェクト」のもとに開発が進められた車両で、デザインはボディ、内装とも初代に次いでジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザイン社が担当。「大きなプント」を意味するグランデ・プントと名付けられ、2005年7月28日発表。資本提携が解消されたGMのプラットフォーム、GM・ガンマプラットフォームを採用、優れたパッケージングによりクルマの巨大化が著しい昨今において全長は4mを超えたが、全幅は1.7mを切っている。日本では2006年6月に発売。6速MTとセミオートマチックトランスミッションのデュアロジックを持つモデルがある。なお、欧州では2代目プントも引き続いて販売される。

[ 2009/03/13 23:02 ] FIAT | TB(0) | CM(0)

Video Divertenti - Fiat 500 Parodia Spot Fiat Stilo 0'50"

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フィアット 500(イタリア語、Cinquecento:チンクェチェント)はイタリアの自動車製造会社 フィアット(Fiat)が製造・販売する小型自動車である。

「500」の名称を用いた車両は、期間を置いて3つの系統(初代、二代目、三代目)が存在する。またこれとは別に「500」のイタリア語読みである「Cinquecento(チンクェチェント)」を車名とし、アルファベットで記載したモデルも存在する。本項目ではそれら全てについて記述する。

概要
初代「500(チンクェチェント)」は1936年から1955年まで製造された。「500A」とその改良による系列型番車両(500Bと500C)が該当する。水冷エンジン、フロントエンジン・リアドライブ方式を採用した。ハツカネズミを意味する「トポリーノ」の愛称で呼ばれた。

二代目は、1957年から1977年まで生産された空冷エンジン搭載のリアエンジン・リアドライブ車である。正式名称は「FIAT NUOVA 500(新フィアット500)」であるが、一般にはイタリア語で「500」を意味する「チンクェチェント」(Cinquecento)の呼称で知られている。

派生型として2代目「500(チンクェチェント)」を車名の後に「トポリーノ」の名称をつけた前輪駆動車モデルが、1991年から1998年にかけて生産された。

2007年3月、NUOVA 500発売50周年にちなんで、3代目となる「Fiat 500」の名を冠した新型車が登場している。1,200ccと1,400ccのガソリンエンジンまたは1,300ccのディーゼルターボエンジンを搭載した前輪駆動車で、デザインはNUOVA 500を踏襲したものとなっているが、中身は「全く別の車」となっている。

2代目 NUOVA 500(チンクェチェント)
ダンテ・ジアコーザを主任技術者として開発され、1957年に発売、以後1977年まで20年間の長期に渡り生産された、空冷エンジン・RR方式・4人乗りの小型自動車である。

旧500(愛称トポリーノ)との区別のため、NUOVA 500(新500)と称される。初代500の後継モデルではなく、異なるコンセプトで設計からやり直した同クラス・別系統車種である。

NUOVA 500には先行して発売されていた600のメカニズムが多くの点で流用されており、同様にモノコックボディのRR(リアエンジン・リアドライブ)車とされた。

開発経緯
NUOVA 500の登場に先行し、新型車「600(セイチェント)」が、1955年に製造終了した初代500の後継車としてジアコーザの手で開発されていた。600は500とほぼ同等の全長ながら、リアエンジン・リアドライブ方式の採用などでスペース効率を大幅改善し、完全な5人乗り乗用車として設計されていた。

ジアコーザは600の開発にあたり、「4人乗り車の半分の費用で2人乗り車を作ることはできないのだから」という信念のもと4座化を図った。この実現のためにスペース効率や軽量化の見地からプロペラシャフトを廃した駆動方式を探り、当時前輪駆動車実現には等速ジョイントの実用性が不十分だったことから、より現実的なリアエンジン方式を採用した。

600は500にも劣らぬ人気車種となったが、フィアット社はこの成功に満足していなかった。

当時のイタリアでは戦後の代替生産として航空機メーカーや鋼管メーカーがこぞってスクーター市場に進出しており、自動車を買えない大衆の「足」として大きな成功を収めていた。フィアットではこれらスクーターを代替する乗り物として、600より更に安価な乗用車を投入することが次なる需要につながると見込んでいた。

このような背景から、NUOVA 500は基本的に600を一回り縮小したモデルとして設計された。600に比べるとスペース的にかなり窮屈ではあるが、5人乗りを実現していた点も見逃せない。2人乗りだったことで競合車種に顧客を取られてしまったトポリーノ時代の反省点と、スクーターとの差別化を図るという点から重要視され、実現されたものである。

一方、ジアコーザはこれを理解しながらも、更なる小型車の開発にはあまり気乗りはしていなかった。その理由は、600こそが自身最良の回答であり、それ以下の構成では、従来車種に対して走行性能での「進化」が見込めない、と考えていたからである。それでも度重なるフィアット側の説得に折れるかたちで設計に着手したが、エンジンを空冷直列2気筒とすることには最後まで抵抗し続けた。実際にはコストや開発期間の関係から、それに変わるエンジンの調達は難しく、最終的にはジアコーサもこの条件を飲まざるを得なかった。フィアットの大々的なキャンペーンや、廉価な価格設定などの効果もあり、ふたを開けると販売が非常に好調であったことから、いつしかエンジン形式の変更の話は立ち消えとなった。そればかりか、その拡大版が126やパンダにまで使われ続ける、大変な長寿エンジンとなった。生前ジアコーザは日本の自動車趣味誌のインタビューに対し、NUOVA 500が多くの人々に愛されたことに感謝しながらも、「あのエンジンを許したことだけには悔いが残る」と語っている。

メカニズム
独立懸架機構はフロントが横置きリーフスプリングをアーム兼用としたシングルウィッシュボーン、リアがダイアゴナルスイングアクスルとコイルスプリングという組み合わせで、600の縮小コピーである。

ただしエンジンは600同様の水冷直列4気筒では高コストになるため、簡素でコンパクトなパワーユニットとして479cc・13psの空冷直列2気筒OHVエンジンが開発され、縦置き搭載されていた。最高速度は軽量なボディと相まって85km/hに達した。スプリング利用のマウントなどの配慮はあったが、やかましく振動の激しいエンジンであったため、乗り心地には悪影響であった。NUOVA 500シリーズ最大の欠点でもある。遠心分離式のオイルフィルターを持っている。

車体を全鋼製としたが、空冷2気筒エンジンの騒音が屋根板のせいで車内にこもってしまうため、対策として屋根をオープンにできるキャンバストップを標準装備していた。これにより騒音は車外に発散され、居住性を改善できた。NUOVA 500のキャンバストップは機能的に必須とされたものである。

古い車なので現在の車とは使い勝手が異なる部分が多数ある。
キー:
ON/OFF/パーキング。

セルモーターはワイヤー式でレバーを引いて動作させる。シフトノブ後方に設置されている。

ワイパー:
ON/OFFのみ。

動力はエンジンのバキュームやスピードメータケーブルではなく、電気モーターにて駆動される。

初期型から最終型まで同じ仕様である。

ウインカー:
最初期型以外はハンドルのコラムスイッチにて操作する。

ガソリンタンク:
タンク容量は21リットルあり、フロントフード内に設置されている。給油時にフロントフードを開ける必要がある。

フロントフード下はトランクだがガソリンタンクとスペアタイヤで占領されており物を入れるスペースはほとんどない。

燃料計:
残量5リットルで警告灯が点灯。Lタイプには残量計が付く。

チョークレバー:
エンジン始動時に使用する。セルモーターレバーの横にある。

ハンドスロットル:
エンジン暖気のための装備。オートクルーズにならないこともないが危険なので走行中使用しないこと。

スタイリング
NUOVA 500のころころとした丸みのあるユーモラスなデザインフォルムは、設計者のジアコーザ自身が手がけたものである。もともと愛嬌のあった600のデザインを更に縮小して仕上げたような雰囲気を持っている。

ジアコーザが晩年、カーグラフィックTVのインタビューに答えて述べたところでは、自らクレイモデルを毎日撫で回すように手作業で削り出していたら、自然に出来てしまったのだという。また、独特の丸みを帯びた形状は、少しでも軽く仕上げるために、使用する鉄板を減らすべく表面積を減らす意図もあったとも語っている。

同時代の日本の軽自動車スバル・360も同様であるが、これらの小型車では、ボディの表面積を減らしつつ丸みを持たせることで、軽量化と強度を両立させる、という意図があった。鋼板は薄くても丸みを帯びたプレス加工を行うことで、補強や工程の追加なしに必要な剛性を持たせられたためである。

ジアコーザと同時代の卓越した自動車設計者であるイギリス・BMC社のアレックス・イシゴニスが、やはり自らのラフスケッチで著名な小型車「ミニ」のスタイリングを仕上げてしまい、デザイナーのピニンファリーナをして「いじる必要がない」と絶賛させた事例がある。機能性に優れた自動車の作り手として知られるジアコーザとイシゴニスが、共に同様なセルフデザインのエピソードを持っているのは興味深い。 

バリエーションと市場
1957年の発売初期には、スクーターを高価下取りするという荒業の販売施策でスクーターユーザーの乗り換えを促し、それまで2輪車に乗っていたイタリアの大衆を、続々と4輪車に乗り換えさせた。

1959年、排気量を500ccギリギリにまで上げ21.5psに向上させたスポーツモデル版の「スポルト」が登場している。

1960年、「スポルト」のエンジンを17.5PSにデチューンしたマイナーチェンジ版の「500D」が発売。また、水平直列2気筒エンジン搭載で荷室を確保したワゴンタイプの「ジャルディニエラ」が追加された。

1965年、「500F」を発売。新しい交通規則に対応する為、これまでの前開きドアを廃止し後ろ開きドアを採用する。これに伴い大幅に手が加えられ、フロントウィンドウの大型化・キャンバストップ開閉レバーを2ヶ所から1ヶ所に変更・キャンバストップ後方の金属屋根部を他の部との一体成型に変更(これまでは分離可能だった)・テールランプの大型化・ドライブシャフトのジョイントを強化・クラッチをコイルスプリング式からダイアフラムスプリング式に変更・ボディパネルの変更。こうした変更により、D以前の前期型とF以降の後期型と分けられる。

1968年、デラックスモデルの「500L」を発売。バンパーを補強するフロントバーが特徴だった。

この他にも数多くのバリエーション(一部にはディーラーが改造した物もあった模様)が発売された。

また、NUOVA 500をベースとしてエンジンやシャシーに改良を施した高性能版が、販売当時アバルトから複数種リリースされている。

1972年 低価格版の「500R」が発売。 この年より500F及び500Lは生産を終了し、最終型である500Rが発売された。同じ年に後継車種FIAT126が発売されたが、500Rはこれの下位モデルとして位置づけられた。500Rは126と同じエンジンである126.000型エンジンを搭載。このエンジンの基本的構造は500F、500Lが搭載していた110F.000型と変わらないものの、排気量は499.5ccから594ccへと大きくなり、馬力もネット18馬力から23馬力へと強力になった。しかし、コスト削減のため、トランスミッション部分はこれまでと同様のシンクロ機構の無いものを搭載した。内装についても500Fと同様にシンプルになり、リアシートは固定式の取り外せないものとなった。車体構造に変化は無いが、唯一フロントエンブレムがFIATの文字のみになり、トレードマークであったヒゲのようなフロントグリル風インテリアはなくなった。 最終的に500Rは30万台以上が生産された。

NUOVA 500はイタリアの国民車として人気を博したほか、ヨーロッパ全土にも輸出され、決して乗り心地は良くなかったが、価格の安さ、経済性の高さと、路地裏にまで入り込める機動性から、各地で好評を得た。少数は当時の自動車大国であったアメリカにおいても販売されている。

1977年の生産終了までに通算で約400万台が製造されている。  

世界中の愛好家の存在
イタリアやヨーロッパだけに留まらず、世界各国に熱心なファンが存在しており、現在でもNUOVA 500をレストアして愛用する者も多く見られる。日本にもオーナーズクラブが存在する。

イタリア本国でも「500」は広く国民に愛されており、同国内で排気ガス規制と国内産業活性化の推進により旧車の扱いが厳しくなる中、「排気量1,000cc未満で25年以上経っている自動車」に以下の特典を与える法案が検討されている。内容は次の通り。

* 自動車税の免除
* 車検期間を2年から4年に
* 自動車通行規制区域内への乗り入れ許可

排気量と経過年数はNUOVA 500に見事に合致するもので、同法案は一部では「フィアット500保護法」とも呼ばれている。なお、これに対しては既に与党を含む超党派の支持団体まである模様で、「同車は歴史遺産のひとつだ」とするコメントも寄せられている。

また、日本ではNUOVA500の車体にレストアでスバル・サンバーのエンジン周りを搭載した車両が販売されたこともあり、愛らしいスタイルの同車種への人気の高さが伺われる。

登場する作品
日本ではアニメ映画『ルパン三世 カリオストロの城』(宮崎駿監督 1979年)がきっかけで、ルパン三世の愛車の一つとして広く知られることになった。

作中では後部にスーパーチャージャーを搭載し、100HPを発生させる(設定集より)という無茶な改造が施されており、猛ダッシュでの逃走や崖を駆け上るなどの活躍を見せるが、いきなり映画序盤でパンク、直後に手榴弾の爆発に晒され、森に突っ込み、作中を通して「タイヤは丸坊主のスペアタイヤを使用され、フロントガラスは割れっぱなし、ボディーは傷だらけでヘッドライトは片方無くなり、山のような荷物を積まれた状態」で酷使された(ただし、劇中のラストシーンでは元通りの状態に修復されている)。

カラーはこの「カリオストロの城」の知名度ゆえに黄色の方がよく知られているが、他にもTV第1シリーズのようなライトブルーがある。ナンバープレートは基本設定として、黒地に白字で「R-33」と書かれたものであることが多い。

ルパンの愛車はその初期には戦前のメルセデス・ベンツSSKにフェラーリの水平12気筒エンジンを搭載したスペシャル、といういかにもヒーロー然とした設定であった。そのような派手な大泥棒ではなく、もっと冴えない「おじさん」としてルパンを描くためのリアルな小道具として、宮崎駿はフィアット500を用いたのである。

なお、『ルパン三世』のスタッフの一人であり、かつてこの車の所有者でもあった大塚康生は、メルセデス・ベンツSSKより描きやすい事なども理由に、カリオストロ~の監督である宮崎駿からこの作品においてルパンの車に設定するよう指示を受けたと話している。ちなみに、劇中のカーチェイスシーンでヒロイン・クラリスが駆ったシトロエン・2CVは宮崎の当時の愛車である。

海外では、ピクサーのCGアニメ作品となる『Cars(カーズ)』に登場し、目や口などがついたコミカルな姿で登場。 設定としては1959年型の車体を持ち、熱狂的なフェラーリのファンである。 ジャック・マイヨールの伝記的映画グラン・ブルーではフロントガラスを取り外し可能でそのまま走行しているものもある。同作のフランス本国における大ヒットで、イタリア国内にあったフィアット500の中古が、表裏様々なルートで大量にフランス国内に流入したとも言われている。

[ 2009/04/22 13:07 ] FIAT | TB(0) | CM(1)
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